短編



塵となって消滅した鬼を前にして、息を吐きながら膝から崩れ落ちた。

「よく耐えたな、流石は俺の継子だ」

私一人では到底敵わない鬼だった。けれど、いつも行動を共にする煉獄さんは分裂した鬼の本体を追い、私は町に向かおうとする鬼の片鱗を相手にしていた。本体ではないのにかなり押された。むしろ、よく私は生きていられたと思う。
湿った地べたにへたりと座り込んだ私を煉獄さんの大きな手のひらが撫でる。

「煉獄さんは、大丈夫ですか」
「ああ、君が心配するようなことは何もない」
「良かった……」

心の底から安堵すると共に、力の差が歴然なことに自嘲した。私は鬼の一部に危うく命を落としそうになるところまで来ていたのに、本体と対峙した煉獄さんはどんよりとした曇り空に似合わない清々しい表情を見せている。私へと視線を合わせるために屈みながら顔をずい、と近づけられるととくりと心臓が反応する。

なら大丈夫だと信じていた」
「私は、煉獄さんの思うほど強い人ではありませんよ」
「そんなことはない。君はいつも二言目には自分は弱いと零すが、現に鬼は食い止められていた」

それは、結果論だ。私はいつもギリギリのところで生きている。煉獄さんのそばにいると、いやに自分が弱いかを今日のように身を以て実感してしまうのだ。その度に、煉獄さんはよく頑張ったなと目尻を下げて褒めてくれるのだけれど。その度に、緊張の糸も解けて“ああ生きてて良かった”なんて思ってしまうのだけれど。

「頑張ったな」

ほら、今日もそうだ。熱い声に、眼差しに、今まで死闘を繰り広げていたことなんて忘れてしまいそうなほど周りが何も見えなくなってしまう。
私の頭を撫でていた大きな手がそのまま頬に滑る。目と鼻の先だった煉獄さんの瞳で視界がいっぱいになる。落ち着きそうだった胸の動悸が早くなってしまうのを感じながら瞼を閉じた。
そっと触れた柔らかい唇。一度離れてはもう一度と、幾度となく降ってくる。

「ん、……ん、」

音を立てて吸い付くそれが擽ったくて、自ら薄っすら口を開けて侵入を許すと途端に深いものへと変わる。自分の漏れる声も、最初は恥ずかしいだなんて思っていたのに今となってはこのざまだ。背中に腕を回して密着すると煉獄さんも空いていた手で私の腰を抱く。さっきまで乾いていた唇にその面影はもうない。身体中に熱が走り、このまま溺れてしまいそうだった。

「……、?」

もっと、とせがむように煉獄さんの背中から首へと回した時、私の意に反して熱を注いでいた唇は離れてしまった。ぼんやりとしたまま煉獄さんを見上げると、溺れていた私とは対照的に表情は変わらないままその視線は上を向いていた。

「降ってくるな」
「え、っ!、?」

一人冷静に何を呟いたかと思えば、私の身体をひょいと持ち上げ横抱きにしながら立ち上がった。困惑しながらも、降ってくる、というのは雨だったことに気付く。上を向かされていることで私の頬にも雨粒が落ちてきた。
雨宿りができそうな場所を探しているのか、辺りを見渡している。一人で歩けます、と私が口にする前に駆け出してしまうものだから、私が漸く話ができるのは雨宿りには申し分はないけど、光の差さない真っ暗な洞窟だった。元々月明かりもなく暗かったから目は慣れているけれど、それでも上部から落ちる水滴の音が響いたりと物恐ろしさはある。鬼と対峙しているからといって、何でもかんでも平気になるわけではない。

「あの、もう大丈夫です。ありがとうございます」
「ここは足場が悪い」
「いえいえ、私も隊士なので!」
「ついさっきまでは俺に焦がれる一人の娘だったように見えたぞ」
「言わないでください……っ」

奥へと進みながら私を揶揄うその笑顔に途端に恥ずかしくなって顔を覆った。
どうしてそういうことを恥ずかしげもなく言ってしまうのだ、いや、私を揶揄いたいからなのだろうけど、そもそも煉獄さんからそういう雰囲気に持っていったのにそれはずるい、卑怯だ。

「もう鬼もいない。今は君の恋人として振舞わせてくれないか」
「…………」
「嫌か?」
「いいえ……」

鬼の討伐が終わって、ひどく疲弊している時ほど煉獄さんはこうしていつも以上に私を甘やかしてくれる。だから、死ななくて良かった、と毎度毎度思ってしまうのだ。私が一分でも一秒でも長く生きたいと思うのは、この人がいるからだ。

「通り雨だ、すぐ止むだろう」
「そうですね」
「じゃあ、服を脱いでもらおうか」
「そうで、……えっ!?」

岩がちょうどよく座れるような大きさで三つ四つ並んでいる箇所があった。そこに座り外で土砂降りになっている豪雨を見ながら、本当にすぐ止むのだろうかと空返事をしていれば、聞き間違いかと視線を向ける。

「ちょ、ちょ!え!、あの、」
「邪魔になるだろう」

どうやら聞き間違いではなかったらしい。慌てふためく私を他所に煉獄さんは手際よく私が着ている隊服の釦を外していく。
さっき私は煉獄さんに溺れかけて、いや溺れてしまっていたけど、こんなところで始めるつもりはない。けれどはっきりと拒否はしない私も私だ。いやでも、ああでも、と迷っている間にシャツの釦も外されていた。

「やっぱり、こんなところ、ひゃっ!」
「沁みるか?」

ここはしっかり、寒いし風邪も引きます、と師範といえど物申そうと思った矢先、脇腹辺りにぬるっと冷たい何かが塗られて変な声が出た。
一度落ち着いてから視線を下へと向けると、さっき私が鬼の片鱗との戦いで切られてしまった箇所に塗り薬があてられていた。

「……」
「どうした?痛むのか?」
「…………いえ、ありがとうございます」

ひんやりとした冷たさに驚いただけで、痛くはない。血は多分、止まっているし。
好意でしてくれたことに、勝手に一人で先走ってしまっていた自分を殴りたくなった。恥ずかしさで顔から火が出そうだ。小さくお礼を述べた私の様子に一度煉獄さんは手を止め、と私を見据える。紅葉色の瞳に私は言葉が何も出てこず、嫌な汗が吹き出そうだ。

「……なるほど、そういうことか」
「は、はい、?」
「期待させてすまないが、ここだと身体を痛める。帰ったらな」
「〜っ!!」

口端を上げながら、再び指で掬った塗り薬を私の脇腹へと塗っているこの人は、面白がっている。でも、こうしてたまに少し意地悪なところがあるのは、私だけが知っていることのような気もして嫌ではない。むしろ、どんな煉獄さんでも私は好きなのだけれど。

「本当は、君には傷一つだってつけたくないんだがな」

私が思っていることは、全部煉獄さんに筒抜けになってしまう。私ももっと煉獄さんのことがわかりたいのに、いつもいつも、一枚どころか彼の方が何枚も上手で。
どうしたらもっと煉獄さんのことが理解できるのだろう。一緒にいる時間はお互い同じなのに、何が違うのだろう。塗り終わって釦を閉めながら、ぽそりと煉獄さんが呟いた声は洞窟の中に響いた。
そう思われていることに、嬉しい気持ちよりも胸がギュッと締め付けられる感覚がした。

「……私も、そう思ってますよ」
「ああ、ありがとう。そうならない為に俺はもっと強くなる」

たまに見せる哀しい表情に隠された裏側が知りたかった。煉獄さんの全部を知りたい。
でも煉獄さんが私に見せる表情は、どんなに荒れた天気の日だってお日様のようだった。

「あの、煉獄さん」
「なんだ?」
「頑張りすぎないでくださいね」

涙を流すほど悲しいことがあっても、この人は顔には出さない。目の前で隊士がやられてしまった時だって、じっとその姿を見つめた後に眉を下げて悲しそうな目をして笑う。見つめて、黙っている間に表に溢れそうになる思いをぐっと堪えているのだろう。

「これは、煉獄さんの努力を否定しているわけではないですよ、ただ、なんでしょうか……、辛かったら、いつでも呼んでください」

ポツポツと水滴が落ちる泥濘んだ地面を見ながら話す。頑張っている人のことを否定しているわけではない。私だって、もっと強くなりたいし。でも、自分に厳しすぎるこの人のことが私はふと不安に思ってしまうことがある。彼の休める場所はどこにあるのだろうかと、自分の中に沢山溜め込んでいる悲しみを、私にも分けてほしいと、そう思っただけだった。私も、彼の傷を癒せる人でありたかった。

「君もな」
「私はほどほどに休んでるので」
「それは良かった」
「煉獄さんは頑張りすぎです。いつも、『強く生まれたから』って仰いますけど」
「それが俺のできることだからな」

強く生まれたから弱い者を助けなければならない。煉獄さんにしかできないことは煉獄さんがやるしかない。それは私も十分理解している。でも、煉獄さんは、なんだか自分がそれしかできないような言い方をしているように見えてしまった。

「他にも沢山ありますよ、煉獄さんのできること」
「そうか、例えば?」
「私を幸せにできます」

気付いていないだろう。煉獄さんはどれだけ私を救ってくれているのか。多分それは、私だけではないのだけれど、煉獄さんに救われた人は、煉獄さんに幸せにしてもらった人は今までにも数え切れないほどいるだろう。ただ私の場合は、鬼に助けられたからとか、稽古をつけてもらったからとか、救援に駆け付けてくれたからとか、殺伐とした世界での話ではない。

「私は、煉獄さんが一緒にいてくれるだけで幸せです。強いから、煉獄さんが好きなわけじゃありません。どんな煉獄さんでも、煉獄さんだから好きなんです」

強くないと、私を助けることはできなかったかもしれない。でもそれは、ほんのきっかけに過ぎない。例え、弱音を吐く煉獄さんでも、私は煉獄さんが好きなのだ。

「その時は、強くなくたっていいんです」
「……その時?」
「煉獄さんは、どんな未来を思い描きますか?」

煉獄さんが訪ねた言葉に、私も訊ね返すと煉獄さんは私の問いに瞬きを繰り返した後、一度口元に手をあて考え始める。鬼がいなくなった後のこと、考えたことがなさそうだ。あったとしてもそれは多分、

「君が笑っていれば、俺はそれがいい」

自分自身のことではない。
強がって、嘘を吐いているわけではないだろう。本心で煉獄さんは私に伝えてくれているのは理解している。だからこそ、一概に喜ぶことができなかった。

「私には理想の未来があるんですけど、聞いてくれますか?」
「ああ、教えてくれ」
「そこに強い煉獄さんがいるかどうかは、私の中では大事なことじゃありません」

頷いてくれた煉獄さんから一度視線を逸らし、真っ直ぐ、遠い場所を見つめた。
洞窟の中で反響する自分の声が遠くから聞こえてくる気がする。

「毎日手にしてるこの刀もどこかに置いておいて、持たなくなって。でも、それでも煉獄さんとはずっと一緒にいます」

私が思い描く未来の話を、きっと笑顔で聞いてくれているだろう。でも、煉獄さんにだって思い描いてほしい。そして、そんな明るい未来が訪れた時のことを思い描くのは、他人のことではなく煉獄さん自身のことであってほしい。

「春は千寿郎くんたちとお花見をして、夏は一緒に花火を見て、秋はさつまいもを焼いて、冬は……鎌倉を作って、その中でおでんを食べましょう!」
「…………」
「それで、いつか子供ができて、孫ができて、おじいちゃんとおばあちゃんになって。お正月はみんなに囲われて、いつもより少しだけ豪勢な食事にするんです。普段は、毎日は普通でいいんです」

幸せは、いつも後になってからそれが幸せだったと気付く。でも、私は煉獄さんが隣にいてくれたらそれだけで幸せなのだ。今だってそう。激しい雨に見舞われても暗い洞窟の中で一夜を明かすことになったとしても。
だから、重々しい刀を持たなくなっても変わらない。

「普通の毎日が、煉獄さんが隣にいるだけで、私には特別な毎日になります。ずっと笑っていられます」

隣に座る煉獄さんの手を取った。豆だらけ、痛々しいこの手はいくつもの悲しみを抱えてきたのだろう。
自分の存在意義を、人を守ることだけに見出さないでほしい。

「だから、煉獄さんも、いつだってこの手で掴んでいるのは刀でなくて、幸せだったらいいなって。そう思うんです」

何を願って、何を幸せだと思うのか、それは本当に自分の幸せであるのか、それは誰にもわからない。けれど、間違いなく私はこの人がそばにいてくれるだけで幸せになれる。
だからというのも可笑しな話かもしれないけど、煉獄さんも他人の幸せではなくて、自分の為だけの幸せを望んでほしい。自分のことを守ってほしい。

「その幸せに、私がいたらいいな、なんて……、」

苦笑しながら顔を上げようとする前に、両手で握っていた大きな手のひらに一粒、何かが降りてきた。一度固まった後に察して煉獄さんを見上げれば、私と視線が交わる前にもう片方の手で私の目は覆われた。

「煉獄さ、」
「止んだぞ!夜も明けた!」

私が握っていた手は解かれ、多分、それを拭っていたのだろうか。洞窟の水滴だったら私の視界は覆われていないだろう。
次に私の視界が開けた時にはいつもの煉獄さんがいた。分厚い雲もどこかへ行ったのか、洞窟の出入り口を見ればいつの間にか夜も明けていたらしく、草木が水を吸って滴を光らせていた。

「あの、煉獄さん」


外に出て太陽の光を浴びながら歩く後ろ姿に声をかけると、幾らか低い声に名前を呼ばれた。この雰囲気は何も聞くなと、そういうことなのだろうか。
押し黙った私に煉獄さんは振り返り、朝日に混じり笑みを浮かばせた。

「ありがとう」
「…………、」
「もうこの話は終いだ」

さあ、帰ろう、とその大きな手のひらを差し出されたので、彼が掴む幸せでありたいと願いながらその手を取った。

朝まだきへ眩む