短編


どくどくどくどくと、心臓の鼓動が全身に響き渡る。目の前には綺麗な紫色の目をした端正な顔立ちが迫ってきているのだから至極当然の話だ。
初めてするわけでもない、むしろ付き合い初めてからだいぶ経つのに私は未だにそういうことに慣れずにいた。

「と、棘く、んっ」

ここ、学校だし、と形だけの抵抗もお構いなしに普段はネックウォーマーで隠している口元を出してそのまま押し付けた。逃げようとしていたわけではないけれど、後ろは古びた廊下の壁、夕暮れ時に階段の踊り場でこんなことをしている背徳感が尚更胸を熱くさせた。
柔らかいそれが触れた後に唇に舌が這ってびくりと動いてしまう。
私はずっと慣れずにいるのに、それとは逆に棘くんはなんだかどんどん上手くなっていると思う。他の人と比べたことなんてないから私の体感でしかないけれど。

「ん、……ふ、……ぅ」

校内に人はほとんどいないとはわかってはいるけれど、耳を塞ぎたくなる厭らしい音が羞恥心を加速させる。上顎をべろりとなぞられて背筋に変な感覚が襲う。
足に力が入らなくなってきて、息も上手くできずにずるずると私が座り込んでしまいそうになる前に棘くんの膝が脚の間に割って入り支えられる。
こうして意識が朦朧としてしまうから、やっぱりキスが上手いのだと思う、棘くんは。抵抗を試みていたこともすっかり頭から抜け落ちて、私も必死に応えていると腰回りに手が伸びる。支えてくれているのだろうか、なんて薄っすら呑気に頭に浮かべていればその手はどんどん上に伸びてきた、思わず頭をずらして唇を放した。

「…………」
「いや、えっと、その……ほら、学校だし」

長らく……とは言っても一年とそこらの関係ではあるけれど、口数が少ない分表情で読み取れるようになってきた。今日は棘くんは『なぜ止める』と、そんな目で私を見据える。
好きだから、いずれはそういうことをきっとするのだろうけど私はいつまで経っても怖気付いて最後までしたことはない。単純に、恥ずかしいのだ。男の人ってほら、やっぱり胸は大きい人の方が良かったりするのだろうし。虎杖くんの部屋なんて野薔薇ちゃんたちとゲームしに遊びに行った時、グラビアのポスターが貼ってあったし。棘くんの部屋には貼ってないけど、乙骨くんだって大きい方が好きそうだったし。そういうことをぐるぐるぐるぐると頭の中で張り巡らせていたら、いざ今みたいな雰囲気になった時にいつも拒否してしまうのだ。
まごつかせる私に棘くんは目と鼻の先でぴし、と斜め右方向を指差した。寮の方だ。

「ごめん、あの、場所の問題でもなくてですね……」
「……高菜」

首を傾げた棘くんの白髪がさらっと揺れる。場所の問題でもなければ、時間の問題しかない。それはいつだって、ことなのだろう。
正直自分でもいつならいいのかとか、よくわかっていない。心構えができていない。勿論好きなことには変わりはなくて、今のようにキスだって心臓が破裂しそうなほど恥ずかしいけど嫌ではない。

「心の準備が……」

綺麗な紫色から目を逸らして、視線を落としながら曖昧に呟いた。面倒臭くて、嫌われてしまうだろうか。嫌われてしまうことと一線を越えることを天秤にかけても、どちらにも揺れ動かない。

「ふっ、」
「え、あ、」

俯いている私に、小さく息を漏らす声。顔を上げれば至近距離にあるその表情が柔らかくなっていて、脚の間に擦り込ませていた膝も戻して頭を撫でてくるものだから、わざと不服そうにしていたのかと察した。
ふわりと笑う棘くんに、好きだという思いがとめどなく溢れていく。それと同時に、いつもいつも止めてごめんなさいと後ろめたさも広がった。


***


「えっまだ?拒否ってる?」
「しーっ!しーっ!声が大きい!」

いつも通りの朝が始まる。教室にはまだ私と真希ちゃんしかいなくて、何気無しに真希ちゃんが私たちの関係を興味もないだろうにほんの気まぐれか聞いてきたものだから、健全にお付き合いをしていますと少し曖昧に答えたら深掘りされてしまい、嘘は吐くなと脅され洗いざらい話してしまった。真希ちゃん的には予想外であった事実に声をボリュームが上がり慌てて口元に人差し指を立てた。五条先生に聞かれてしまうのが一番面倒臭そうだから嫌なのだ。

「全然健全じゃねぇだろそれ」
「じゃ、じゃあ清いお付き合いをさせていただいています……」
「血も涙もねぇ鬼だな」
「うっ」

グサリグサリと、容赦無く真希ちゃんの言霊が私に襲いかかる。
わかっている。清いお付き合いだなんてよく言ったものだ。長い脚を組んで座りながら顎を持ち上げて私をこれでもかというほど上から見据える。

「ま、どうでもいいけどお前らの事情なんて」
「忘れてください……」
「どうせ他に相手もいねぇんだし」

狭い世界で生きてるからな、とボヤく真希ちゃんはどこか遠い場所を見つめているように見えた。
狭い世界、その通りだ。高専に来てからは知り合いという知り合いが増えるわけでもないし、反面普通の高校に通っていたら出会いもそれなりに沢山あるのだろう。
もしも周りに魅力的な女の子が沢山いたら、私はきっと、

「……選ばれてない…………?」
「ちょっとちょっと何恋バナなら僕も入れてよ〜!」
「うわあ!!」

ネガティブな考えに机に肘をつき頭を抱えていると、突如音も無く現れた軽快な声に椅子から転げ落ちそうになった。
驚いた反動でガタッと机が音を鳴らす。

「若人の青春!いいねえ、うちは人数少ないし校内でそういうの少ないからさ、教師として全力で背中を押すよ」

目元は隠れていてわからないが口元は相変わらず口端を上げて一人愉しそうだ。
真希ちゃんも私も引いた目で五条先生を眺めていると、顔に愉快だという二文字を描いたまま私へ耳打ちをした。

「心も開けば愛は深まるというものよ」
「いや先生それセクハラです」
「ええ〜〜辛辣!」
「ていうかなんで知って、聞いてたっ、」
「おうおう朝からなんの騒ぎだ!!」

今し方現れたフリをして私が真希ちゃんに話していた会話全部、ずっと聞いていたのだろうか。本当にこの人はとてもいい性格をしている。しらばっくれようとする五条先生に身を乗り出したところで教室の扉がガラッと開く。パンダくんと、それから隣に棘くんがいて、一番に目が合ったのに、あからさまに逸らしてしまった。
それがさあ、なんて本当に話すつもりはなかったとは思うけど、口を滑らそうとする五条先生を必死になってやめてくださいと訴えてその場は一応収まった。明らかに様子がおかしいところを見られてしまったけれど、何も言えまい。

「はあ……」
「いつまで溜息吐いてんだよ」

その日は、一日中気まずかった。とは言っても私が一方的に距離を置いてしまっていたのだけれど。五条先生も、背中を押してくれるのであればもうちょっと大人な対応を見せて欲しい。あのノリは竹下通りの男子高校生と変わらないと思う。
湯船に浸かりながら溜息を吐けば、後から入ってきた真希ちゃんがうざったそうに顔を顰める。それから無意識に胸元へと視線が移る。

「…………はあー……」
「人の胸見て溜息吐くな!」
「わっぶ、」

その豊満なバストに更に落ち込み深い溜息を吐けば、シャワーを捻った真希ちゃんが私の顔面へとお湯を浴びせた。
仕方ないじゃない、私が真希ちゃんのように誰もが羨むバストを持っていればこんなに悩んでいない。幻滅されたくない、でも悪いことをしている自覚がある、でも……、と、考えはずっと纏まらずにいた。

「どうしたら大きくなるかな……ていうか私、太ってないかな、お腹、っ!?」

お風呂から上がって、一人とぼとぼと寂しげな廊下を歩いていると誰かに肩を叩かれ振り返る。考え事をしていたから余計に驚いてしまったけど、振り向いた先にいたのが棘くんで今の私の独り言は彼に聞こえていなかったのかと心臓が飛び跳ねる。胸をばくばくとさせている私に棘くんはポケットから携帯を取り出しその画面を私へ見せた。

「あ、……ごめん、見てなかった」

そこには棘くんが私に一時間くらい前に『会える?』とメッセージを送っていたものが表示されていた。棘くんの髪もしっとりとしているあたり、返事がない私に一先ずお風呂に入っていたのだろう。けど、棘くんが私の肩を叩いた方向はお風呂でも部屋の方でもない。何をしていたのだろうと疑問が顔に出てしまっていたらしい私に棘くんはもう片方の手にしていたコンビニの袋を掲げた。アイスだ。

「湯冷めしちゃうよ?」
「おかか」

普通の恋人らしくできる時間が好きだった。今日に限らず棘くんは時間さえあれば私の買い物に付き合ってくれたりするし、一緒にクレープ食べるのも付き合ってくれる。毎度毎度、アイスが絶対入っているクレープを選ぶから、アイスが好きなのだと思われている。嫌いではないけれど、棘くんといると熱くなってしまうから、それで無意識に選んでしまうのだ。
立ち尽くす私に棘くんは眉間に皺を寄せて何かを携帯に打ち込んでいる。


──俺、何かした?


見せられた画面に、胸がギュッと締め付けられた。

「してない!全く!」

勝手に避けていたのは私の方なのに、棘くんは優しいから。自分のせいだと思わせてしまったことに心の底から猛省した。
首を振る私に棘くんは自室の方へと指を差す。選ばれてない、とか、考え過ぎて変な答えまで出そうになってしまったけれど、これほど私は愛されているのに何を迷っていたんだろうと胸の中の蟠りが容易く解けていってしまった。
殺風景な部屋で並んでアイスを食べる時間が好き。隣に棘くんがいてくれるこの時間が堪らなく好き。もっとずっと一緒にいたいと、人はどんどん欲張りになってしまう。

「あの、棘くん」

空になったアイスをテーブルの上に置いて、徐に口を開いた。
私が嫌だと言えば、棘くんはいつも止めてくれたし、きっと私が頷くまでずっとそれは変わらないのだろう。怖気付いていたけど、恥ずかしいけど、私も、もっと触れたいし、触れてほしい。
自分の胸の音がやけに大きく聞こえてしまう。勇気を出せと心の中で自分を鼓舞しながら、隣に座る棘くんの手をとった。けれど、少し後悔した。ああ、いつもこの手に私は触れられているのかと実感して、思うように言葉が出なくなってしまう。

「その……」
「…………」
「えっと、私、棘くんと、」

なんて言えば伝わるのだろうか、遠回しでは今まで拒止してたから伝わらない気がするし、でもちゃんと口にするのは此の期に及んで羞恥が勝っていた。
口ごもらせている私に、私が握っていた逆の手が私の頬を包み込む。いつも悪ノリしているような遊び心のある顔じゃない、優しい顔だ。私が何を言いたいのか察して、無理しなくていいと言われているようだった。その優しさが、痛いほど身に沁みる。

「……違うよ、無理してない」
「……、」
「私が、……わ、私が、っ、!?」

言え、触ってほしいって、言いなさい私、と身体中に熱を走らせながら心の中で葛藤していると、急にその身体がふわりと宙に浮いた。否、正確には、抱えられた、だ。軽々しく私をお姫様抱っこの要領で持ち上げた棘くんはそっとベッドに降ろし、そのまま組み敷いた。
それから顔の横で人差し指を立てる。

「しゃけ」
「…………」
「おかか」

中指も立てて、二本指を作りながら私へ向けた。どちらか、選べということだ。
既にネックウォーマーを外して口端を上げる棘くんへ肯定だと呟けば、彼は満足そうに笑いながらアイスのように甘い甘い唇を落とした。

確然たる選択肢



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