てっきり、部屋で待っているのかと思っていた煉獄さんは『男』『女』と赤と青の暖簾で分かれた出入り口近くの簡易的な椅子で私のことを待っていてくれたらしい。暖簾をくぐった瞬間に煉獄さんの姿が見えて胸がどくりと跳ねた。髪がしっとりと濡れていて、宿の浴衣姿にいつもの凜とした雰囲気を併せ持ちつつも艶っぽい表情に目を合わせられない。
さっきまで柵越しで話していたせいもあってかなんだか妙に変な感じもする。
「待ってていただいてありがとうございます」
「ああ。」
「はい」
「少し話さないか」
今日は、きっと部屋に戻れば既に敷かれている布団に横になり目を閉じるだけだった。そうすれば朝日が上がり、山道を下りて列車に乗って帰るだけ。
この町を回る時間はあるにはあるけれど、その時間についてだろうか。立ち上がる煉獄さんに頷いて、ついて行くように宿の廊下を歩く。
大きくて逞しい背中だ。幾度となく目にした背中はいつだって勇ましくて、私の憧れで、煉獄さんのようになりたいと、誰かを守れるようになりたいと胸に刻ませていた。
この日が終われば、いつもの日常に戻る。この背中を追いかけて、私はひたすらに刀を振るうだけだ。
「っ、」
今日が終わってしまうことに寂しさを募らせながら、ただただ歩みを進ませている先で煉獄さんが急に立ち止まり、慌てて私もその背中にぶつからないよう踏み留まった。
外へと続く道へ降りるらしい。何足か下駄も用意されている。明日のことを話すのに、外へ行く必要があるのかと疑問に思ったが煉獄さんの後に続いて外へ出ると、その光景に心が打たれ無意識にうわあ、と声が溢れてしまった。
「この時間も列車が走ってるんですね」
「ああ。さっき宿の女将から聞いた」
私たちが歩いてきた山道には橙色の灯りが連なっていて、その先ではちょうど列車が今発車したばかりで駅から明るい帯のように山の中を照らしていた。
もう随分と遅い時間だけど、列車には乗客もそれなりに乗っていた。改めて、有名なところに連れてきてもらえたのだと実感する。
突然、どこへ行きたいかと尋ねられて、最初はただ思いついた場所を口にしてしまっただけであったけど、食事に温泉にこの景色に、煉獄さんと二人で過ごすことができてよかった。きっと、一生忘れられない思い出になる。忘れたくない思い出だ。
「君と一緒に見たいと思ってな」
山の中を走る列車を追うように眺めていると、横から降ってきた声に視界から列車が消えてしまう。
「……ありがとうございます」
嘘を吐いているわけではないだろう。きっと、本当に心からそう思ってくれている。ただ、私としては都合よく捉えてしまいそうになる。
こういうのは、一人より誰かと見た方が思い出にも残るし、自分が好きだと感じたものを誰かと共有したいと思うのは誰しもが考えることだ。
頬に溜まってしまいそうになる熱を逃がすように小さく息を吐いた。
「それで、話だが」
「あ、はい。明日のことですよね」
「さっきの続きを聞かせてくれ」
庭の端の柵へ置いていた手に力が入る。
さっきのこととは、つまり、温泉に浸かりながら私が煉獄さんへ口走ろうとしていたことだろう。
「改まって話すほどのことではないので、大丈夫です」
中途半端に途切れてしまったから、聞かれてしまうだろうとは思っていたけど、もう口にする度胸は持ち合わせていない。きっと、柔らかい笑顔で沢山教えてくれると思うから。
その表情に思いを募らせたくなくて、精一杯笑顔で取り繕った。暗いから、鮮明に表情はわからないとは思うけど。
夜風が火照った身体に染み込んで心地が良い。煉獄さんへの一隊士以上の気持ちも、綺麗さっぱりと洗い流して、風に飛ばされてしまえばいいのに。
「今日、ずっと考えていたことがあるだろう」
「………、」
目を閉じて涼やかな風に当たっていると、煉獄さんから発せられた言葉に瞼を持ち上げおずおずと視線を合わせる。
暗がりに慣れた視界の中で、煉獄さんは幾度となく見せてきた温かい笑みを浮かべていなかった。
煉獄さんと旅館の娘さんとのやり取りを今日事あるごとに頭に浮かべていたこと、気付かれていたのだろうか。
「話してくれないか」
「……いや、えっと、い、嫌です」
思い詰めるほど考えていたことなんてありません、とは気付かれていた手前説得力がない。
だから、彼の優しさに甘んじて首を横に振れば、頷いてくれると思った。無理に聞き出そうとする筈はないと、そう思っていた。
「わかった」
「…………」
「これは上官命令だ。話せ」
けれど、私の考えの方が甘かったようで、煉獄さんは私の手首を掴み、話すまでこの手は放さないと示しているようだった。
列車に乗ってからここに至るまで、煉獄さんは自分が柱であることなど屋敷に置いてきたように私に接してくれていたけど、突然の強行手段の為の物言いに唇をギュッと噛み締める。
「なんでもないんです、本当に、」
「…………」
「くだらないことで……」
「…………」
「…………昨日、宿で聞いて」
誤魔化す、という手段は不可能であった。
おぼつかない私に煉獄さんはじっと無言で見据え、その瞳に空気が濁っていく気がした。
威圧感に耐えられなくなり、昨日宿で旅館の娘さんとのやり取りを盗み見ていたこと、その煉獄さんの話していたことが気になっていることをポツリポツリと話し始めた。
「盗み聞きするつもりはなかったんです、でも、なんか、隠れちゃって、」
「ああ、それは知っている」
「え、」
「気付かないわけないだろう」
話し始めたことで私の手首を掴む力は弱くなったけど、でも放しはしなかった。
さも当然のように、何食わぬ表情を浮かべて煉獄さんは淡々と私に告げる。改めて考えてみれば確かにそうだ。いくら鬼の気配もない穏やかな空間の中でも、煉獄さんが人一人隠れていることに気付かないわけがない。
だらだらと心の中で嫌な汗を流していれば、煉獄さんはそれで、と私に促す。
「あ、その……、誰、なのかなって……思いまして。でも、無理やり聞きたいとか、そういうわけじゃないんです。本当に、少しだけ疑問に思っただけで」
少しだけ、なんて真っ赤な嘘ではあるけれど。煉獄さんの好きな食べ物よりも私は実際そっちの方が気になっていたのだ。
でも、私がそんなことを知りたいというのまで気付かれてしまえば、勿論知りたい理由だって深掘りされてしまうだろう。
辿々しく言葉を紡いだ私と煉獄さんとの間に沈黙が流れる。
「」
「……はい、」
「君は、添い遂げたいと思う男はいるのか?」
「へ、」
「まず俺の質問に答えてほしい。話はそれからだ」
真っ直ぐに、揺らぐことのない眼差しを向けられ、目が離せない。
ゴクリと唾を飲み込んでから、薄く開いたままの口を一度閉じてから一言答えた。
「います」
頷いた私に、煉獄さんの瞳がほんの少しだけ揺れた。私の手首を掴んでいない方の手で口元に手を当て、少し考え込むような素振りをする。
これは、あれだろうか。俺も教えるから君も話せと、交換条件のようなものなのだろうか。だとしたら、私も名前まで出さないといけなくなるだろうか。
もしそうなったら、折角私はここで煉獄さんと胸の内に一生残しておきたい宝石のような思い出ができたと思ったのに、切ない過去になってしまう。だって、きっぱりと私も『断る』と告げられてしまうだろうから。
「俺もそう思っている女性がいる」
「、」
「その人のことだ」
ああ、やっぱりそうだ。守りたいと思う人がいる。それは、恋愛としての意味なのだ。私が知らないだけで、煉獄さんには思い人がいて、その凛々しい背中を見せて守っていくのだろう。
守られたい、と思っているわけではないが、煉獄さん自身に『守りたい人』と、そういう対象に見られていることがこの上なく羨ましいと思った。
「……どんな、方ですか」
視線を下に落とし、呟いた。
例えば、昔からの知り合いの娘さんだとか、どこかから持ちかけられていた縁談相手だとか、私には知り得ない相手なのだろうけど、好きな人が思う人のことを、私も知りたかった。
「急に、目の前からいなくなったことがある」
「……」
「置き手紙だけを残して」
もしかして、継子であった甘露寺さんの可能性もあるのだろうか。今や同じ柱として高い志を持って刀を振るっている。
その時のことを話しているのだろうかと煉獄さんの話す言葉に耳を傾けていると、掴まれていた手首が放される。それから、そっと私の手を包み込むように重ねられた。
「“強くなるために一人で修行をしてきます”なんて書いてあったな」
覚えのあるその言葉に顔を上げた。真剣な目は変わらず、けれども小さく微笑む表情に、胸の中は熱く苦しくなった。
見上げたまま、言葉が出ずに目を見張る私に煉獄さんはそのまま続けた。
「助けられたのは良かったが、怪我をさせてしまった」
「……」
「俺がいればそんなことにはならなかったと、自責の念に駆られた」
「……、怪我をするなんて、当たり前です」
今、煉獄さんが誰のことを話しているのか、そしてそれは冗談なんかではないことは熱くて揺るぎない瞳を見ればわかった。
屋敷を飛び出した時に、重傷を負っていた。苦戦を強いられるほどの鬼だった。間一髪のところで煉獄さんが現れてくれなかったら私は今こうして煉獄さんの隣にいることだってできていないだろう。
口を開いた私に煉獄さんはそうだな、と肯定する。
「その通りだ。でも俺は君が傷付くことに、身の縮む思いがした。なぜだと思う」
「…………」
「失いかけてから気付いた。実に不甲斐ない」
あの時のことを悔やむように眉を顰めてから、煉獄さんの手が私の後頭部へと移動して引き寄せられる。
コツン、と厚い胸板に額があたり、浴衣から伝わる心臓の音は少し早い。
「大切に思っている。誰よりも。それは、師としてではない」
感情が追いつかなくて、胸がいっぱいになって。だけどこの人の温かさに、私は浸ることができる権利があるのだと、熱に溺れてしまってもいいのだと、それだけははっきりと理解ができて、その身体に腕を回し身を寄せた。