あの満月が綺麗だった夜から、改まってその気持ちをは俺に伝えようとする素振りはなかった。そのことに安堵しながらも、心の奥底で芽生え始めている思いが水を欲しているような気もしていた。
稽古場から戻った俺は廊下を歩いていると、雪が庭の木や塀に降り注ぎ真っ白な世界を作り出している中で立ち尽くしているの姿が見えた。
「おい、風邪引くぞォ」
据わりの悪い戸を開け声をかければ、は俺へ振り返り静かな笑顔を見せた。子供のような笑顔を見せることもあれば、こうして落ち着いた表情も時折見せ、周りの白が艶めく景色も相まってか、綺麗だと思った。
は微かに積もる雪の中を歩きにくそうにしながらこちらへ寄って来る。腕を掴んで支えるようにこちら側へ引き上げた。今まで気にしていなかったが、最初に会った時より幾らか身長が伸びている。
「調査ー!ヒト月町ノ調査ーー!明日、京橋ヘ向カエ!京橋!京橋ーー!!」
この中途半端な気持ちのまま、をここに置いておけるのだろうか。俺はの気持ちから背けようとしているのに、はそれでも一緒にいたいのか。いつまでこの中途半端な関係を続けているのか、腕を掴んだままそのままでいれば、庭で弧を描くように羽ばたきながら鎹鴉が鳴いた。こうして忘れた頃に、それはやって来る。だが、討伐の指令ではなく、調査だった。
鎹鴉の声が聞こえた雪生がかけてきて掴んでいた腕を放した。
「一ヶ月調査って言ってませんでした?」
「人ガ消エルー!鬼ガ見ツカラナイー!!柱!柱ーー!」
どうやら、少し前から町では人が消え行くものの、派遣された隊士がその町へ行っても鬼が見つけられないどころか、何日か滞在しても人が消えることもないらしい。鬼の仕業ではないと見て町を去ると、再び計ったかのように人が消えていくという怪奇的な現象が発生していると。
「まあ、今は鬼も減ってきてるから一ヶ月調査はできますけど……」
雪生が言いたいことは、視線をそちらへ運ばせなくてもわかった。今まで、一ヶ月も屋敷にいないということはなかった。ほとんど毎日、当たり前のように一緒にいたが、鬼を討伐しない限りは、恐らく戻れないだろう。
「置いていく」
「え!」
「何ビビってんだァ、あたりめェだろ。戦えるわけでもあるまいし」
まさか連れて行くとでも言うと思ったのか、予想以上に目を丸くする雪生に少なからず苛立った。
「でも一ヶ月は戻って来れませんよ?連れていくくらい……、泊まるのは藤の家だから安全だし」
「置いていくっつってんだろォ」
確かに、鬼と決まってもいなければ隊士には見つかりたくはない鬼なのだろう。わざわざ俺達の目の前に現れる危険性がないのであれば連れて行ってもいいのかもしれない。だが、もしも鬼でないのであれば一ヶ月間はと別々になる。浅はかだが、今の俺には丁度いいと考えたのだ。
だが、そんな考えを見透かしたように、は俺の手を握り締めた。真っ直ぐに俺を見据えている。
「は行きたいんだよな?」
「……」
強く頷いた。自分の中で決めた答えは、こんなにいとも容易く崩れてしまうものだっただろうか。いや、それは、この手を包み込むだからだ。
この様子だと、来るなと言ってもついて来るのだろう。暫く一緒にいれないことくらい、どうってことはないはず。それなら、一ヶ月離れたところで変わらないとも言えるのだが。
「(連れていっても同じ、か……)」
「は実弥さん大好きだからな~」
「……、」
「え?そんなに赤くなる?え?でもそうだよな?え??」
さらりと口にした言葉に頬を上気させ俯いた。前に掌に記した言葉を声に出され思い出したのか。今までそういう素振りを見せなかったのは、単に恥ずかしいという思いが先行していたからなのだと漸くわかった。
「京橋に、でかい病院がある」
「……」
「ついてくんならついでだァ。荷物纏めとけ」
の手を振り解いて、を連れてく理由を強引に作り、俺はその場から逃げるように自室へと戻った。
次の日の朝、早速屋敷から出発し、雲一つない青空が浮かべる太陽のおかげで雪解けた道を歩いて行く。どうやら途中で反物屋の女がいる町を通るらしく、聞いた途端雪生は愉快そうにしていた。会えるかは分からねェし諦めたんじゃねェのかと聞けば、運命だなんだの根拠もないことを延々と述べられた。
「実弥さん!」
「ほら!運命だ!」
昼前、まだ人はそれほど多くはない内に町に着くと、何度か聞いたその声を耳にした。人を避けながらこちらまで駆け寄ってくる姿に周りの人間が注目する。
町を照らす日差しを遮るその日傘の中で、太陽には負けない輝かしい表情を見せていた。
「会いに来てくれたんだね!」
「あ、ええと、どうも…、実弥さん達は、非番ですか?」
「いや、これから任務があるんだ!」
全て雪生が言葉を返し、女は困惑していた。俺が歩き始めると、続けて女も隣を歩く。
「そうなんですね、どこへ向かわれるのですか?」
「京橋です!」
最初に鎹鴉からその地区の名を聞いた時には、正直なところ足を踏み入れたくないと脳裏に過った。俺の担当地区ではなかったからもう随分とその場所へは赴いていない。何の縁でこうして再び足を踏み入れることになったのか。
「妹様……ではないのですよね、失礼しました。一緒に行かれるのですか?」
女は俺の隣にいるへ不思議そうに視線を運ばせた。はそれを聞いて俺の左手に手を重ねる。
今から鬼狩りへ行くというのに、戦えない奴を連れて行くんだから一般人にそういう反応をされても仕方ない。
「は実弥さんが大好きだから。実弥さんも満更でもないって感じだし」
「おい」
「……まあ、そうでしたか」
雪生の適当な発言を聞いて女は口に手を当てた。信じ込んでいる素振りが気に食わない。俺がのことを思っているように見えるのか疑問が湧いたが、何も口には出さなかった。女は何かを考え込むように視線を下へ向けていた。
「そうそう、でも安心して、俺は君のこと……」
「危険だと思います」
静かに女が呟いた。それから女は俺ではなく、の隣に近寄り俺を握っている手と逆の方の手を掴んで引き止めた。その様子に思わず歩みを止めた。
「大事であるならば、置いて行くべきです」
「……」
「見ていますから、私が。ね、ちゃん。私といましょう?」
瞬きを繰り返すに、女は目を細めて穏やかに笑みを零していた。
何も間違ったことは言っていない。普通の人間なら誰でもそう思う。
「でも夜は安全な場所にいるし、昼間に鬼はでな、!」
空気に見合わず陽気な声を出した雪生を女は鋭く睨み付けた。何も言えず黙りこくってしまうほど、その表情は何度か見ているその女からは想像のできないものだった。鬼がどれだけ危険なものなのか、身を以て体感しているからだろう。
「ここで待っていましょう?何も怖いことはないわ。楽しいことをして、帰りを待っていましょう」
けど、だ。今更、ここへ置いて行くなんて選択肢は俺の中にはなかった。を掴み引っ張っていこうとする女に、この町で男に引っ張られて行く様を思い出した。もう誰にも連れて行かせたくない。そもそも、にはこの辺りの町にはない病院へ行くという理由もあるのだ。その手を放すよう、女へ手を伸ばした時だった。
「!」
俺がそうする前に、濁った空気を破ったのはだった。は掴まれた女の手を勢いよく振り払った。女は勿論、俺も雪生もが初めて見せた怒気を含む態度に言葉を呑んだ。
は俺の手を両手で引っ張り歩いて行こうとする。
「そう……、わかったわ」
「……」
「そんなに、ちゃんも実弥さんが好きなのね」
女は胸に手を当て、静かに、確認するようにそう呟いた。それから、穏やかな笑顔を俺へ向け、その表情に似つかわしくない一言を言い放った。
「壊したくなっちゃう」
「、」
「なんて、冗談です!無事に終えたら、また町に寄って行ってください」
その表情に身の毛がよだち固まっていた俺は我に返り、特に何も告げることはなく足早に女の元を去った。
「ご武運を」
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