「半年も戻っていないなら、環境を変えるべきですね」
京橋に着いてすぐ、俺が住んでいた頃には縁もゆかりもなかった町の中心に位置する病院へを連れてきた。中に入ったことはなかったが、随分と立派な建物に内装まで整備が行き届いているここはやはり当時の俺が入れるような場所ではないとこの身をもって感じた。
金持ちしか来ることができないようなそこはそれほど混んでおらず、俺が住んでいた長屋では病院に行けず苦しむ奴らが溢れるほどいたのにこれだけ空いていても診てもらう事もできない事実に、やるせなさが襲った。
「声を出さないことに慣れてしまっているのかと」
椅子に座り白衣を身に纏った医者がそう告げた。声が出なくなった理由は過度な緊張や重圧が元の種、きっかけは事故に遭ったことで間違いはないと診断された。但し、元いた場所での重圧がなくなれば心に負担はなくなるはずで、その状態で半年もいるのであれば元に戻ってもおかしくないとのこと。むしろ、戻らない方がおかしいと。
「このまま同じ環境で居続けたら、一生治らないかもしれません」
わかってはいたが、俺にはを治すことができないと、そう断言されたようで胸の奥を抉られるような感覚がした。
一生治らないって、そんなことがあっていいのか。本来なら治ってもいいものを、このまま俺といることでその芽を摘んでいいのかと答えが出ずにいると、医者は心配そうに俺を見つめるへ問い掛けた。
「声を出そうとすると、その時のことを思い出すんですよね?……なら、それ以上に声を出したいと思うきっかけがあれば治るかもしれませんが……、」
俺を見る医者の下がった眉で、その後に続く言葉はわかった。半年も傍にいて、俺には声を出そうと思ってもそれ以上に過去のことが頭に浮かんで声が出なかったわけだ。
「本人の自由なので強くは言いませんが、環境は変えた方がいいことだけお伝えしておきます」
医者は机に診察票が挟んである板をトンと叩き、診察は終わった。診察室を出て、雪生が待つ病院の外へ向かう。待合室では目をギラつかせ金にしか興味のないような奴らばかりが椅子に腰を下ろしていた。
は、どうしたいのか。今はこのままでもいいかもしれないが、俺は時期にいなくなる。本来戻るものが残り短い俺といることくらいで戻らなくなるなら、例えばやはり蝶屋敷に預けるかした方がいいのか、それだと今とあまり変わらないのであればいっその事さっきの反物屋の女に一度預けてみるとかを考えた。
「あー、おかえりなさい!どうでした?」
城のような病院の入り口から出て少し歩いた先、卵を売っている親父に聞き込みをしていたらしい雪生が俺達に気付いた。
「このままだと一生戻らねェらしい」
「へー……え!?」
「住む場所変えろってよ」
医者に言われた時、は俺といることでは声を取り戻すことができないと理解したと同時に、別の誰かに引き渡すことを考えたら胸の中が騒ついた。そんなことは、己の都合でしかない。そもそも、元々は依存させる気も、する気もなかった。
「はどうしたいんだ?」
前も同じような会話をしたとその時のことを思い起こした。あの時、は入院することを拒んでいた。父親に見つかってしまうことを危惧していたのだと今になってわかる。ただ、入院とまでは行かずともどこか別の場所へ環境を変えない限り、変化はない。
だが、診察室を出てからは俯いてはいるが、ずっと俺の左手を握ったままだ。俺が、もう一緒には暮らさないと、そう判断を下すと思っているように見えた。
「人殺し!!!」
が反応を示す前に、通りの正面から叫ぶ声耳に鳴った。まだ日も沈んでいないのにまさか、と思ったが、町行く人間の間を掻き分けてその親父は一目散に俺達の元へでかい足音を鳴らしながら走ってくる。何をされるのかわかった俺は瞬時にの手を振り解き背中を押して距離をとらせた。
「お前っ!!お前、俺の家族を返せぇ!!」
人殺し、は、俺のことだった。案の定その親父は俺の胸ぐらを掴み怒号を浴びせた。覚えてはいないが、どこかで俺は鬼になったこいつの家族の頸を斬ったのだろう。
殴って満足させられるのなら、俺は甘んじて受けるが場所が悪かった。周りに人だかりが徐々にできていく。俺は食ってかかる男の腕を掴んだが、怯まない。それどころか、俺の顔を見て男はあることに気付いたかのように眉を動かした。
「……お前、家族殺して消えたガキだろう」
「!」
「昔近くに住んでたから覚えてんだよぉ、てめぇずっとそんなことしてんのか、あぁ!?」
お袋を己の手で殺めてから、ずっと俺はこの町には足を踏み入れていない。だから、玄弥だけ残っていたとしても深く関わりもない奴にそう思われるのは無理もなかった。
男は何も言い返さない俺の首を掴み締め上げた。
「お前みたいな奴にわかるわけねえよなぁ?家族を亡くした苦しみが!」
「……」
「だからバサバサ人を殺すことが、っ!?」
手を、退けようとした。手を退けこれ以上騒ぎになる前に立ち去ろうとした。だが、俺がその男から逃れる前に、男の頭に何かが飛んできて割れる音が響く。男と同じく飛んできた方を見れば、がその手に卵を持ち、今にももう一つ投げようとしていた。
「てめぇ何しやがる……!」
俺から手を離し、目に血を走らせの方へ近寄っていく男よりも先に、俺はの腰に腕を回し抱え上げ、その場から逃げるように立ち去った。
「クソっ待ちやがれぇ!!」
「!」
「おいもう大人しくしろォ!」
一つ持っていた卵を更に俺に抱えられながらも親父に放り投げていた。途中まで追いかけて来ていたが、流石についてこれずに親父の怒号が徐々に遠くなり、全く聞こえなくなったところでを降ろした。
「何やってんだお前は……」
人通りの少ない通りで一つ息を吐けば、は不満気に俺から目を逸らした。俺からすれば、俺のことを知っているのは初めての事ではあったにしろ、あんなのは日常茶飯事なのだが、思えばには初めて見せた光景だった。納得いかなかったんだろう。
は逸らしていた目をこちらに向け、控えめにその手を俺の首へ伸ばして軽く触れた。
「別に、どうってことねェよ」
胸が、騒つく。こうまでして俺を思うの気持ちと、俺の所為で声が戻らないことを天秤にかけて揺れ動いていた。それは俺が決めることなのか、が決めることなのかさえわからずに。もし俺が決めたとしてもが首を縦に振らなければ、俺は気持ちが揺らぐだろう。そんな自分の意見がによって中途半端なものになってしまうくらい、俺の中での存在は大きく、特別なものになっていた。
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