ギラつく太陽の所為で、外に出ているだけで汗が額にじんわりと滲みでてくる。今日は、随分と長いこと面倒を見たいた奴の門出の日であった。
「出ていきませんね。気に入ってるのかな」
庭の真ん中にしゃがみ込み、蓋は開いた籠から一年飼育をしていたカブトムシを覗き込む。育てていれば愛着も湧いていたらしく、手放すのが惜しいと嘆いていたのは昨日のこと。ここよりも広大な自然の中でいる方がこいつにとっても幸せだと自分の中でも納得はしているらしいが。
「その内出てくだろ、ほっとけ」
「え、でもちゃんとお見送りしたいです。息子みたいなものですよ?」
最初はひっくり返ったカブトムシにも触れないくらい散々だったにも関わらず、母性が働いているようだった。
「でも、ここにいたいのかな」
「……」
「私みたい」
頬を綻ばせたの前髪が揺れる。
最初に出会った時よりも、随分大人びてきた。子供という印象は俺の中にはもう欠片もない。一人の女であり生涯傍に置かせたいという想いで溢れていた。
は籠を持っていた手を離し乾き切った地面へ置いた。
「私、実弥さんに甘えてたから、だからこそ環境が変われば声が戻るかもしれないっていうのは理解できちゃったんです」
眩しげに空を見上げ、あの時のことを思い起こすように話す。そのの横顔を眺めていた。いつしか蝶屋敷からもらってきたという風鈴の音が涼しげに鳴る。
「声、戻らなくてもいいかなって、自分でも思ってたところはあるんです。実弥さんといたかったから」
「……」
「でも、直接伝えたくなって」
頬を赤らめて微笑んだ。それがいたく愛おしいと思った。
「それまでは、出そうと思っても出せなかったんですけど、どうしてですかね」
「……俺が知るかよ」
「実弥さんのおかげです」
違う、と言っていただろう。今までの俺なら。そんな大層なことができる人間ではないと。だがそれももうやめた。取り戻せた正確な理由なんて誰にもわからない。だったら、がそう言うのであれば、俺はそれを信じたい。
俺を見て笑みを浮かべるに無意識に手を伸ばそうとしたところ、視界の端で何かが飛んだ。
「あ、急に行っちゃった!元気でね……」
カブトムシだった。大きく育っていたそいつはその羽を広げ、屋敷の塀を越え青空の彼方へと飛んで行った。もう、飼育の必要もなかった。それがの趣味となっていた場合はまた別の話だが。
清々しい青空からに視線を移せば、祈るよう手を合わせていた。
「何祈ってんだ」
「幸せが訪れますように、って祈りました。折角大きくしたんですもん」
「ああ、まあ、あと少ししかねェけどな」
一生の内、ほぼ大半を土の中で過ごしている。寿命はもう残り僅かだ。今から幸せが訪れるようにと祈っていたが、今までも十分幸せだったんじゃないかと健気に祈るを見て思った。
「尚更訪れますね」
また、根拠のないことを。余り物には福がある、といつしか言っていた。残された俺にとって、それは綺麗事である他なかった。だが、いやに説得力があった。と、言うよりはそれを信じたい自分がいた、の方が正しい気もしたが。
「実弥さん」
「ん」
「好きです。私、幸せです」
もう、何度も聞いている。何度も聞いているが、その度俺の胸を騒つかせる。俺も大概だと心の中で溜め息を吐き、先程無意識に伸ばしてカブトムシの所為で引っ込ませた手を再びへ伸ばし引き寄せた。体勢を崩し地面に手をつきそうになったその手を掬い上げ抱き寄せる。顔を上げたにすかさず唇を重ねた。
「あの、」
「なんだよ」
合間に口を挟まれ、一旦放せばは目を伏せた。頬を上気させているのは、今しがた呼吸さえも忘れてしまうほど求めたそれの所為ではなく、今からが言おうとしていることにあるようだった。言い淀むに口出しせず待っていると、徐に言葉を紡いだ。
「“俺が貰う”って、言ってくれたの、覚えてますか」
蚊の鳴くような声だった。がどういう意味でそれを声に出したのか、理解した俺はその時のことを思い出した。
「……忘れた」
「!」
「いや、てか、あんなので言われた気になんな」
#nname1#の父親から奪還した時のことだ。肩を震わせ眉を下げるに俺は続けた。そもそもあの時は、そういう意味でもなかった。
「もっと、然るべき場所で伝える」
自分にとって、幸せという言葉は無縁だと思っていた。明日が見えない日々を過ごしていく、待ち受ける未来は空虚でしかないと。けれど。
真っ直ぐを見つめる俺に、は青空の下、太陽にも負けじと眩しい笑顔を見せた。未来しか、見えないような気がした。
「はい」
俺にそれを唱えたのであれば、俺はありがたくそいつから、目の前の幸福に手を伸ばすことに決めた。
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