アマサヒカエメの最終定理

なんて、取り返しのつかないことをしてしまったんだと、盛大に頭を抱えた。
衝動でキスをしてしまったこと、あの後、何事もなかったかのようにクッキーは食べてくれたこと、そして家まで送ってくれたこと。何もかもが普通であった。本当に、あれ私は不死川先生にキスをしたんだよね……?と錯覚するほどに、何事もないよう取り繕われたのだ。
けれども、あれは私の幻の言動ではない。しっかりと脳裏に焼き付いている。だからこそ、私だけ覚えてしまっているようなこの現状に煮え切らない思いを抱えてしまうのだ。

「あぁあ……」
「おい邪魔だァ、教室の出入り口で奇怪なことしてんじゃねェ」

昨日の今日で、やはり今私に怪訝な顔をして声をかけた不死川先生はいつも通りだ。後ろには奇怪な私に声をかけられず教室に入れなかった生徒が数人。
申し訳ございませんと謝罪しながらいそいそと教室に入った。
先生は、気にしないのだろうか。生徒からのキスなんて、それこそ子供とのキスのようなものなのだろうか。
高校三年生って、先生からしたらそんなに子供なのだろうか。





最終下校にはまだ余裕はある時間でも、夕暮れはすっかり過ぎていた。
暗くなる教室に使う場所だけ電気を付けてシャーペンを走らせていた。

「キスぅう!?」
「声が大きいよ!」

期末テスト期間、炭治郎と善逸と一緒に勉強をしていた。意外、と言っては失礼だけれど善逸は頭がいいので助かっている。
そんな善逸は私が話した内容をそっくりそのままの言葉を使って叫ぶものだから思わず廊下に誰かがいないか見渡してしまった。

「だって、え!?超大胆!!で!どうだったのよ!!」
「どうもこうもないよ」
「えええ!?!」

いや私もそれくらい驚きですよ。善逸は両頬に手を当て目を飛び出している。相談する相手を間違っているような気がしなくもないけど、仲がいいのはこの人たちなのだから仕方ない。

「頭にカアッと血が昇っちゃったのは反省してるけどさ……」
は実弥先生にどうして欲しかったんだ?」

ノートの端をシャーペンで意味なく突きながらぼやく私に、同じくしてシャーペンを止めていた炭治郎が私に尋ねた。その質問に私は口籠る。

「どうって……」
「キス仕返して欲しかったの!?ねえそうなんでしょう!??」
「違うし!」
「え、違うの?」

あの時のことを恥ずかしながらも思い返してみると、本当に、ただただ身体が勝手に動いたというか意に反したことをしてしまったので、それに対してどう……と言われてしまうと望むことはないのだった。
気持ちをわかってほしい、というのはいつものことなので。

「じゃあ、今のままでいいんじゃないか?」
「何を、」
「多分、在学中は実弥先生も何もできないんだろうし」
「在学中はって……」

如何にもわかっていますよ、な雰囲気を醸し出す炭治郎。私を悟らせるような。そういえば、炭治郎も長男であった。長男には色々なタイプがいるのだとつくづく思う。
炭治郎は固まる私に口角を上げ微笑んだ。

「実弥先生、といる時、匂いが変わるんだ」
「……匂い」
「ああ、音も変わるよ」
「音……」

穏やかに告げる炭治郎と、そういえば、と思い出すように話す善逸。
二人は五感が人よりも効くらしい。最初はそんなことってあるのかと思ったけれど、私は二人にいつも嘘を見抜かれるので隠し事があるときは走って逃げているのだ。春の下駄箱怪奇文事件然り。

といる時の実弥先生、普段よりも甘い香りがするんだよ」
「そうそう、優しい音に変わる」
「……炭治郎、善逸」
「うん?」
「そういうことはもっと早く言ってくれませんかね」

ぐ、とシャーペンを持つ手に力を込めたらノートに走らせていたシャー芯がポキっと飛んだ。善逸の方に飛んだが気にせず私は身を乗り出した。

「いつから!いつからそうだったの!」
「……徐々にって感じで気づいたら変わってたなあ……」

つまりは、炭治郎と善逸の言うことが本当なのであれば、私にもまだ勝機が見える気がした。
一度取り乱した息を整え座り直す。

「堅い人だから表面上あんなんなの勿体無いよな、マジで恐ろしいよ俺……」
「でも本当は優しい人だって知ってるんでしょ」
「男に厳しすぎるじゃんあの人!いくら優しい音出してても近寄りがたいって思うよ」

私としては、不死川先生が本当は優しいっていうこと、みんなに知ってほしくもあり知らなくてもいいと思っていた。事実、不死川先生の優しさに気付いた女子たちは一定数いてその度私はやきもきしているので。

「その甘い香りに優しい音っていうのはさ、本当に私の時だけ?」
「うーん……多分。先生が生徒と一緒にいるところって以外だとあまり見かけないからな」
「あ、そう」

まだ、確信はできないけれど、嫌われていない。それだけは確かであるということだ。どんなに私が先生に呆れるほどの愛を叫んでも、先生は私のことを嫌いになったりはしない。その事実だけで今は満足してしまいそうだった。
クリスマス計画は今年もお預けをくらったけれど。その分必死に勉強するから存分に甘やかしてほしい、というのもまた子供じみたわがままだろうか。
さ、勉強再開しよう、成績に響くぞ、という炭治郎の合図に私はシャーペンの芯をカチカチと出した。

「そういえばさ、」
「言ったそばから……」
「ごめんごめん。炭治郎たちは進路どうするのかなーと思って」

今こうして日がすっかり沈んでもなお学校に残って勉強をしているのは進路に関係することだからであり。もう推薦で決まった人たちも沢山いるけど私はそうではない。
特に今まで聞いてはいなかったけど、自分が進みたい道を描き始めて、この人たちはどうするのかが気になった。

「俺は専門に行くよ」
「へえ……資格?」
「ああ」
「パン屋さんだもんね……善逸は?」
「俺はとりあえず近場いくつか受けるから特には。ああでも、女子大が近いところとか最高だな~!毎日合コンとか俺すごい憧れるわあ……!」
「毎日合コンって、それ毎日彼女いないことになるけど」

善逸がそういう人でなければ、だけど。私のツッコミに善逸は表情を強張らせた。無意識に彼女ができない自分を想像していたのだろう。

は?」
「私はね……」

少し前から考えていたこと。それを言葉に出すと、らしいな、なんて言われてしまった。結構、嬉しい。





浅い眠りから覚めればそこは……、教室だった。今日は一人で放課後勉強していた。集中したいから、という理由で炭治郎たちとは別に。
薄れていた意識を引き戻し、目をしぱしぱと瞬きさせ机に突っ伏していた身体を起こした。

「寝るなら家で寝とけ、そんな寝心地悪いところでよく眠れるなァ」
「先生」

いつからそこにいたのか、でも確か先生はテスト前には職員室ではなくクラスの教室で作業をしているのだったと思い出した。
腕を上げ伸びをしながら欠伸をする私を先生がじ、と見る。口に手をあてていなくてごめんなさい。

「寝てんのか、ちゃんと」
「……まあまあですね!」
「クマが最近酷い」

胸に嫌な音が鳴る。私以外にも最近はこうして寝不足な人は沢山いるからそれを指摘されたくらいで焦る必要はないのだけれど。隠していたことがあるので。

「数学が鬼でして」
「ちゃんと寝ねェと効率悪くなるぞ」
「そうなんですか?」
「脳味噌が働かなくなるんだよ。眠くなったら寝て、朝起きて勉強しろ」
「はーい」

私が空返事をしたところで、最終下校のチャイムが鳴る。私が嫌いな音だ。これが鳴るといつも問答無用で先生とさよならをしなくてはならないから。
電気が付いていない暗闇の中の廊下。昇降口まで付いてきてくれる先生に、私はおもむろに口を開いた。

「私、先生になりたいです」
「はあ、」
「先生みたいに、生徒思いな先生になりたいです」

それが私の決めた進路だった。
先生を見上げると視線が交わる。先生の後ろの窓からは夜空に星が眩く輝いていた。

「教科は勿論数学です!難しいと思うけど……」
「……なれるだろ、お前なら」
「……、この間はごめんなさい」

静まり返る昇降口で、先生に呟いた。私がもし、先生だったとしたら、内心どう思ったとしてもみんなの先生でありたいと思う。だから、先走ってしまったことは本当に、心から反省している。
俯く私に優しくて暖かい手が降りてきた。

「気ィつけて帰れよ」

私が顔を上げたと同時にその手は離され、先生は私に背を向けひらりと片手を上げた。