アマサヒカエメの最終定理

「はー……」

誰かに声をかけてほしい、というような典型的な溜息だっただろう。けれども今この部室には私しかいない。
この部室の畳の匂いはとても落ち着く。しかしながら私の気持ちは全くと言っていいほど落ち着かない。悶々とあの手紙について考えていた。
最初は、誰だかわからないこれに気にしていても仕方ないといつも通り不死川先生へ振舞っていたけれど、この一ヶ月、その手紙はとどまることを知らず私の下駄箱に入っているのだ。
流石に、誰だかわからない人に酷い言われようをしていることに気にしないことなんてできる精神は持ち合わせていなかった。
私の動向をずっと見られている気がして、怖かった。
特によく漫画であるような虐めとか、そういうのはないんだけど、とにかく私はここのところずっと帰り際、下駄箱を開けるのが恐怖であった。

「はーーあー…」
「うるさいな」
「!」

自分一人しかいないと思っていた部室。頬杖をつきながらお茶を飲んでいた私の背後から声がして振り返ると、……どっちだろう。

「ああ、時透くん」
「お前、見分けつかない時は苗字呼びなんだろ」
「有一郎くん!」

はあ、と先ほどの私よりも短い溜息を吐いて有一郎くんは鞄を畳の上へ置いた。いつからいたのだろうか。私の溜息はどの段階から聞かれていたのだろうか。

「無一郎くんは?」
「日直って言ってた」
「そっか」

飲む?と聞けばいらない、と返されたので私は紙コップに伸ばしかけた手を止めた。
有一郎くんは机の上に置かれた簡易的な将棋盤の前には座らず、足を崩して座る私の向かいに座った。一度目を合わせてから、ふい、と逸らされる。

「なんかあったのかよ」

ぶっきらぼうに口にされた言葉に私はやはり少し前から溜息を聞かれてしまっていたかと自分の感覚の鈍さに反省した。自分の世界に入り浸ってしまっていた。

「何でもないよ」
「お前のそういうところ嫌い」

ぴしゃりと間髪入れずに放たれた一言に、私は硬い笑みを作る。この双子は本当に、揃いも揃って毒舌だ。
テレビで見る二人はとってつけたような言葉しか話さないから、どんな子たちなんだろう、と思う全国のファンが知ったらどう思うだろうか。それでもやっぱり『そんなところも素敵!』と、騒がれる理由になってしまうのだろうか。でも私もそんな二人が嫌いでないからそうなったとしても不思議ではないと思っている。

「そういえばさ、有一郎くんたちはどうするの?」
「何が」
「進路とか聞かれてるでしょ?卒業したらどうするの?」

将棋の腕前はプロ入り間近なのだから、私のような夢もなく平々凡々に暮らしている高校生活とはきっと無縁の将来が待ち受けているのでろう。
けれども有一郎くんは顔を顰め、お前馬鹿か、と私に言ってのけるのであった。

「中高一貫なんだから普通にそのまま高校入るよ」
「……そうなの?」
「てか、話逸らすな」
「……いつまで経っても不死川先生に振り向いてもらえないなーって」

よくよく考えたら、折角受験してこの学園に入ってきたのだから確かに特に理由もなく中卒である必要はない。学生でしかできないことだってある。私と同じような高校生活、ではこの二人の場合、ないだろうけど。
万年の悩みであるそれを溜息交じりに伝えると、有一郎くんからは先ほどの私のような深い溜息が返ってきた。

「何がそんなに好きなんだよ……」
「聞いちゃう?聞いちゃう?」
「興味ない」
「あれは一年前のこと……」
「興味ないって言ってんだろ!」

有一郎くんの制止の声も聞かず、私は不死川先生に惚れ込んだ理由を話し始めた。
そう、最初はとにかく怖い先生だと思っていた。男子を軽く吹っ飛ばすような人だと聞いていたし。けれどどうだろう、ある日私は風邪で寝込んで一週間くらい学校を休んだことがある。
色々と授業が遅れてしまうと少しばかり気にしつつ登校、一週間分の板書を全て善逸に見せてもらっていたけれど、数学でどうしてもわからないところがあった。聞きに行くの怖いなあ、と思いながら放課後不死川先生の元を訪れたらそれはそれは優しく丁寧に教えてもらったのだ。

「は?それだけ?」
「飴をくれたの」

断じてそれだけではなかった。けれど所詮ギャップにやられた一人であることには違いない。
不死川先生は私が病み上がりであることを気にして、引き出しからのど飴を取り出し私にくれたのだ。その時つい、好きですと口走ってしまい、もう言ってしまったものは致し方ないとそれ以来不死川先生に対する私の気持ちは包み隠さず本人にも周りにも公言しているのだ。

「……単純なやつ」
「いやいや、私今までこんなに誰かを好きになったことってないから!」

呟く有一郎くんに私は首を振った。けれど、最近はあまり不死川先生に伊之助言う所の猪突猛進していないのは事実。あの手紙が怖くて。
誰かに言う、というのもなんとなくできなくて。

「あ、雨」
「飴?」
「ちげえよ、外」

有一郎くんは窓の外を指差した。ポツポツと四月に綺麗にしたばかりなのにすでに薄汚れている窓には水滴が降り注いでいた。

「ほんとだ、傘持ってきてないや」
「兄さん送っていけば?」
「うわ!」

いつの間にこの人も部室にいたのだろうか、扉の方で有一郎くんに声をかけた無一郎くん。気配のなかったそれに驚くけれど、有一郎くんはそうでもなく気付いてようだ。
送っていけば、の言葉に教室にかけられた時計を見れば、もうすぐ下校時間だった。
前は不死川先生が帰れと見回りに来たけれど、いつもいつも不死川先生が来るとは限らず、むしろあの時がかなり稀なケースであった。なので特にそれを期待して待つということはせずに、荷物を纏めて電気を消し教室を出た。

「入ってけよ」
「え?」
「傘」

昇降口は中等部と高等部で別々の場所である。廊下を抜けた別れ際、またねと振ろうとした手は有一郎くんが私の腕を掴んだ。
そういえば、無一郎くんがそんなことを言っていたとついさっきのことを思い出した。

「大丈夫、多分通り雨だろうし、折角だから不死川先生のとこ行って待ってる!最近話してなかったし」
「いや、」
「また明日ね!」

確か使う駅は逆方向だった気がするし、申し訳ない。
そっと有一郎くんの手を振りほどいて、私は背中を向けた。

「もっとぐいぐいいかないとはわからないと思うよ」
「……うるさいな!」

そんな会話をしていた事も露知らず、私は職員室へは向かわずにそのまま帰ろうとした。どうしても、紙の内容が頭から離れなくて。
紙に書いてあった内容が”不死川先生に付き纏うな””困ってるのがわからないのか”"迷惑がってんのがわからないのか"というものばかりで。
足取り重く歩いていると、窓に光が走った。唸るような低い音が地響きとともに鳴る。やっぱり一緒に駅まで来てもらえばよかったかな、と頭を過ぎりつつも、これ以上強くならない内に帰ろうと靴を履き替えて学校を出た。
今日は何も入っていなかったことに多少安堵しながら鞄を傘がわりにして駅まで走る。が。やばい。
次第に雨はどんどん酷くなり、これだと駅着いた時に少し濡れたどころじゃない。滝に打たれているような土砂降りに見舞われた私は一先ず途中の公園の木の根元で雨宿りをした。心もとないけれど、この先少しまた歩かないとコンビニすらない場所だ。
鞄の中身に雨が浸水しているほどに豪雨だった。やはり少し学校で待っていればよかったけれど、いや、待たなくてもよかったのでは、と前方から傘をさして歩いて来るその姿を見ていとも容易く考え直した。

「不死川先生!」

天気の神様に感謝した。