アマサヒカエメの最終定理

今日は普段よりも少し早く起きた。私にとっては新たな一歩を踏み出す日だった。私の方がきっと早く起きているはず、そう思ったけれど、隣はもぬけの殻でベッドから降りてダイニングの扉を開けば朝食が用意されていた。

「おはようございます……」

基本的には、朝はその日早く起きた方が用意しているという流れで朝食を食べるけれど、ホテルの朝食のような品揃えに面を食らって、冷蔵庫から牛乳を取り出す実弥さんを瞬きをしながら見つめた。
呟いた私に実弥さんはおう、と短く返事をしてからテーブルにコト、とグラスを置いた。

「いい加減敬語をなくせっつってんだろォ」
「いやあ、癖づいちゃってて……、ていうか、これは」
「ああ、景気づけだ」

昨日は全くそんなことを話していなかったのに。
大学四年になって、今日から教育実習が始まることに緊張していたけど、まあ大丈夫だろ、なんて軽く言われただけだった。実弥さんはこういうのに緊張しなかったのだろうか、そんなことを考えながらなかなか寝付けないながらも朝を告げるアラームに身体を無理やり起こせば、焼きたてのトーストやベーコンの匂いが香ってきたのである。

「美味しそう……!味わって食べる!」
「喉詰まらせねェ程度にさっさと食って準備しろ」

いただきます、と用意してくれた豪勢な朝食に手を合わせる。実弥さんも向かいに座って一緒に食べ始める。そばに置いてあったリモコンを掴みピ、とボタンを押してテレビをつければ、朝のニュースの話題に思わず食べていた手が止まった。

「時透ツインズ、相変わらずだね……」

テレビに映る二人、最後に会ったのは一年前とかな気がする。プロになってからはほとんどだ。それでもこうしてテレビで取り上げられてしまうから、私としては近くにいる感覚がしてしまっている。
順位戦、開幕勝利、とインタビューに答える様子は昔と変わらない。ただ、背も伸びてあどけなかった顔立ちも随分と大人びていた。

「炭治郎のお店は相変わらずだし、善逸は内定決まったって喜んでたし伊之助なんか前どっかの事務所にスカウトされたって言ってた。面倒臭いって断ったらなぜか善逸が怒って入れって喚いてたらしいけど」

この前炭治郎と電話をしていて聞いた話。みんな、そうして少しずつ変わっていくのだと思うと寂しいけれど、なんとなくあの三人はずっと一緒にいる気がする。実際高校を卒業しても相変わらず仲良しだし。
少しずつ変わっていく中で、変わらないものは大事にしていきたい。興味なさげに私の話を聞く実弥さんを見ていれば、手止まってんぞ、と吐き捨てられてしまった。
私と実弥さんの関係も、このままずっと変わらないままでいたい。変わるとすればそれはまた、少し先の話になるのかな、なんて未来を想像してしまった。
朝食を食べ終えて、今日は私の方が先に家を出る。身支度を整えて、慣れない服を身に纏い玄関に立つ。

「大丈夫ですか?私。変なところないですか?」
「大丈夫だろォ」
「またそれだ」

オフィスカジュアルって、どんなものなのか、ネットで調べただけだから合っているかわからない。実弥さんはいつも胸元がはだけているしあまりあてにもならない。まあ、私が今日からお世話になるのは小学校だから、あまり厳しくはないと思うけど。
鏡の前でおかしくないかな、と全身を確認していれば、横から手が伸びてきて頭をぐい、とそちらへ向かされた。唇に伝わる柔らかいそれに思わず固まってしまった。

「……、」
「お前らしくやりゃ大丈夫だよ」
「……はい」
「行ってこい」

ふわっと優しく笑みを浮かばせる実弥さんに、緊張が緩和された。その分、違う意味で胸がドキドキとしているけど。
何回もしているのに、胸が煩いのは紛れもなく好きが加速しているからだ。一緒にいる時間が長ければ長くなるほど、どんどん好きになっていく。きっと、いや、絶対、誰よりも私が実弥さんのことを好きな自信がある。

「行ってきます!」

生徒だった頃のように、大きく返事をして、扉を開けた。爽やかな風が吹きぬけて、私の門出を後押ししてくれているようだった。
お世話になる小学校へ到着して、クラスの前で深呼吸をする。まるで転校生の気持ちのようだ。心を落ち着かせ、今日からみんなと仲良くしてくれる先生です、なんて紹介をされて教室に入ると、視線が集まった。見知った顔もいる。ちょっと目つきが鋭くなっている気がする。

「おはようございます。今日からみんなと仲良くなりたいなと思っています!気軽に先生って呼んでくださいね!」
先生指輪してる~!」
「結婚してるの?」
「何歳ですかー?」

教卓の前で、私は怖い先生ではありませんよと伝わるように目一杯の笑顔を向ければ、それはおそらく伝わったのだろう。矢継ぎ早にわーきゃーと質問攻めに遭い、苦笑いを浮かばせた。

「えー先生俺と結婚してよー!」

クラスの一人はいるであろう、おそらく今声をあげた子がお調子者でありリーダー格だ。その子にあはは、と曖昧に笑い返した。もし、一緒に過ごしていく内にこの子が私へ本気になってくれたら、歳なんて関係なく真摯に受け止めよう。そして、しっかりとお断りをしよう。
まずはそれくらい仲良くなれたらいいけど、なれるかな。でも、私らしくやれば大丈夫だと、大先輩が言ってくれたからきっと大丈夫だ。

「俺の兄ちゃんの嫁さんだから無理だよ」

わはは、とクラスに笑いが起こる中、クラスに入って一番最初に目があった男の子がそう発した。丸っこくて可愛らしい瞳をしていたのに、子供というのは数年でこうも変わってしまうのかと驚いた。
お正月ぶりに会った就也くんは机に頬杖をついていた。少し大人びた気がするけど多分、大人びたように見せたいだけだろう。だってお正月は、実弥さんから貰うお年玉に目を輝かせて飛びついていたから。
就也くんの発言に先ほどまでとは違う騒ぎになってしまう。

「え!そうなの!?先生苗字は?」
「不死川です」
「まっじで!就也の兄ちゃん!?誰!」
「一番上」
「二番目じゃなくて!?」

就也くんと仲のいい友達は家族構成を知っているらしく、それを知ってまじまじと私を見る。怖い兄ちゃん、とでも思われているのだろうか。接したことがないのであればそれは、まあ、仕方ない。
はいみんな静かに、と担任の先生が手をパンパンと叩くと教室が静まり返る。

「じゃあ先生、出席をお願いします」
「はい!」

先生から名簿を受け取って、私を大きく息を吸い込んだ。

「大丈夫、私はあんなに怖くないから!」

開口一番に、出席を取るときにぶっ殺すなんて言いはしない。でも、もっと同じ目線で、貴方の隣に立てるようになりたい。いつまでも。
楽しいことも苦しいことも、甘いことも苦いこともずっと隣で感じていたい。隣にいれさえすれば私はそれで、幸せなのだ。そう、多分、甘さの割合は控えめでも、もう慣れたものだから。それがきっと不死川実弥先生の理論なのだ。私はその定理に基づいて、寄り添っていきたい。
教卓に名簿をトン、と置いて、口を開いた。

「出席を取ります!ぶっ殺しはしないけど、返事は私のように、大きな声でお願いします!」