アマサヒカエメの最終定理

やるからには全力で勝ちに行け、体育祭なんてこの先二度と体験できねェ、ただし怪我はするな、と、始まる前から口酸っぱく不死川先生がそう話していた今日は、体育祭。
ピストルの音が鳴り響き、私は全力で駆け出し、そしてすっ転んだ。

「おい今風組負けてんだしっかりしやがれ!!」
「伊之助だって善逸に負けてたでしょ!」
「うっせぇ次は負けねぇ!」

外野から見ていた伊之助は先ほどの徒競走、本人は油断していたと言い訳をしていたけど多分本気で走って善逸に負けていた。このやり取りを見るのは三度目だ。
中等部と合同のこの体育祭は炎・水・雷・岩・風、と五つの組に分かれて優勝を狙う。全力で勝ちに行け、の指令の下、私も優勝に貢献できるようスタートを切ったはずなのだけれどなんとも幸先の悪いこと。
立て直した私は小さな箱が置かれている場所まで駆けていき、中に何枚も用意されている紙を一枚だけ手にした。

「やった!好きな人だ!」
「!」

私よりも先に紙を引いてそれに書かれた文字に喜ぶ隣の子は、その言葉のまま不死川先生の元に駆け寄って行ってしまった。まさか、こんな身近にライバルがいたとは。
私が引きたい紙だったのに…と自分の運動神経の無さを恨み、私は自分の引いた紙を見た。

『お姫様抱っこしてゴールしてくれる人』

心底、男子が引いたらキツイお題だろうと背筋を凍らせた。
不死川先生を見れば、既にさっきの子に手を繋がれゴールまで走っていた。胸の中でぐつぐつと沸き立つ感情を抑えながら、私はのそのそと応援席の方へ向かった。

「あのー、誰か私をお姫様抱っこしてくれるお優しい方は…」
「お姫様抱っこってなんだ?」
「お姫様のように抱っこするってこと。こう」

そばにいた伊之助に説明すると、伊之助は楽勝、と笑みを浮かべて私を抱えようとする。こういう友達がいてよかったと思いながら身を任せようとした。

「俺が行く!」

そんな私をぐい、と手首を掴み後ろから引っ張り、倒れ込んだ私をそのままの勢いで抱え上げたのは有一郎くんだった。
周りからキャー、と女性陣の声が聞こえる。有一郎くん自身にも私は呆気にとられていたのだが、意外にもがっしりとしていたことに思わず息を呑んだ。

「お、重くない!?」
「はあ?余裕だよ」

我に返った私は有一郎くんへ声をかける。けれど、言葉の通り、有一郎くんは私を抱えながらも颯爽とゴールを目指してくれた。結果、私はモタついていたのでビリなことに変わりはないのだけれど。

「ありがとう、この後すぐリレーなのに。出るって言ってたよね?」

私をそっと降ろした有一郎くんに尋ねた。
夏休みが終わってからは、あまり将棋部の部室へは顔を出すことが少なくなっていたけど、前に話した時、勝手に選出されたと零していた。三人とも風組で頑張ろうね、なんて意気込みながら。
運動部でもないのにどうして、と愚痴のように吐き捨てていたが、選ばれたということはスポーツテストの時にきっと運動部並みの足の速さを記録したんだろう。

「まだ時間あるし。それより足、大丈夫かよ」
「?」
「血」

私の足がどうかしただろうか。目をぱちくりとさせる私に有一郎くんは呆れ顔で膝下を指差す。つられるようにそこを見ると、さっき転んだ時の所為か、じわりと血が滲んでいた。

「……ほんとだ!」
「痛くないのか?」
「いや、なんか気付いたら痛くなってきたかも……!」
「…………」

まさか自分が怪我をしているとは、全く気付かなかった。指摘されるまではまるで違和感はなかったけれど、今になってじんわりと痛みが広がってきたかもしれない。
有一郎くんは私を見て引いている。

「はは、保健室行ってくる……」
「おぶってく」
「え、いいよいいよ歩けるから」
「いいから、早くのれよ」

次、すぐに有一郎くんはリレーなのに。私の前で屈む姿に首を横に振ったけど有一郎くんが引く気配はない。これ以上断ってしまうのも忍びなかったのでお言葉に甘えておずおずとその背中に体を預けると、お姫様抱っこをされた時と同じく軽々と私を背負って進み始めた。
サラサラの髪が頬にあたって擽ったい。
途中、無一郎くんに代わりに僕がリレー走ろうか、と声をかけられていたけどすぐ戻ると返事をしていた。

「チッ……」

私をひょいと背負って辿り着いた保健室。扉を開ければまず先に舌打ちが聞こえたのは気のせいだと思いたかったがそうではないようだった。

「あら、どうしました?」
「擦り傷くらいどうってことないだろうが……」

落ち着いた声色で心配そうに私に歩み寄るのは珠世先生。私はあまり保健室にはお世話にならないから関わりはそこまでないのだけれど、噂は聞いている。珠世先生の、というよりは、いつもいつも保健室に入り浸っている今私に悪態吐いたこの男の子のことだけれど。

「転んでしまいまして……」
「まあ、血が……。こっちにいらしてください。すぐ手当てしますのでね」

みんなで優勝を狙う中、今私を睨みつけている青みがかった白髪の生徒は噂通りいつもこうして保健室に入り浸っているのか。有一郎くんから降りながら見ていれば眉間に皺を寄せられたので目を逸らした。
そろそろリレーが始まってしまうので、送り届けてくれた有一郎くんに改めてお礼を言ってから私はパイプ椅子に座り手当を受けた。
消毒液が沁みて声を上げれば珠世先生ではなく保健室の魔物から黙れと一声浴びせられた。なぜ私がそこまで言われないといけないのか若干の苛立ちを募らせながらも消息液のピリつきに耐え、包帯を巻かれるところだった。

「先生!怪我人が!」
「チッ次から次へと……!!」

ドタドタと廊下を走る音が聞こえた後に扉が勢いよく開き、男子生徒が声を上げながら珠世先生へ呼びかけた。
保健室の魔物は誰が来てもまずは舌打ちをするらしい。
珠世先生は私の膝元に包帯を巻こうとしていた手を止め、扉を乱雑に開けた生徒へ顔を向けた。

「どうしました?」
「倒れました!全然動かなくて……熱中症かもしれないです!」
「まあ、それは無闇に動かさない方がいいですね、様子を見に行かないと……」

口元を上品に手で抑えながら、珠世先生は私を申し訳なさそうに眉を下げながら目配せする。私の治療は消毒液を染み込ませただけだ。だから。珠世先生の瞳の意図は汲み取れた。

「大丈夫です!もともとそんなに痛くはなかったので!この程度自分でやれます!」
「本当に……?」
「はい!それより今倒れた人の方がはるかに重症だと思うので私のことはお気になさらずに……!」
「……わかったわ、ありがとう」
「俺も行きます!」

珠世先生は私に頷き、保健室に救援をしにきた生徒の後を追って足早に出て行った。ついでに、保健室の魔物も一緒に行ってしまった。二人でこの教室にいても気まずいというか少し怖いからそれはそれでよかったのだけれど、いざ一人取り残された保健室では寂しさに襲われた。
リレーが始まり盛り上がっているグラウンドの声が聞こえると、尚更。伊之助は善逸にリレーこそ勝てるだろうか……いや、難しいかな。善逸はアンカーって言っていたし。ごぼう抜きされないくらい差をつけておかないと厳しいだろうな……なんて外の声を聞きながら包帯を手にし、ぐるぐると巻き付けていった。

「それだとすぐ取れるだろォ……」
「……先生!」

歪ながらもなんとか膝を固定して、夏休みの少年のような足元が完成した時、足音立てずに保健室の扉から私に声をかけたのは不死川先生だった。
まさか来てくれるとは思わず、側まで駆け寄ろうとしたけど膝が緩く固定されて立ち上がれなかった。
そんな私に先生は座れ、と一言放ち、大人しく私は椅子に座りなおすと雑に巻き付けた包帯を解いていく。

「手当してくれるんですか!」
「様子見に来ただけだったけどなァ」
「先生ったらそんなに私のこと心配してくれてたんですね……!」
「自分のクラスの奴が怪我したらそりゃ心配になるだろォ」

当然だとばかりに手際よく先生は包帯を綺麗に巻いていく。そうだ、あんなに年の離れた弟くんがいるのだから、こういうのは慣れているのだろう。ただしそれは私が膝小僧を怪我する少年と同等のようで、少しばかり複雑な気持ちになったのは言うまでもなかった。

「誰か倒れたって言ってたけど、その人は大丈夫なんですか?」
「あァ、我妻が倒れた」
「え、善逸?」
「女どもの応援見て卒倒しただけだァ」
「わあ、それは安心ですね」

よくあることだった。常日頃仲良くしている私にも、最初はちゃーん、なんて言い寄ってきたのだけれど私が不死川先生のことしか見れなくなってからはまるでそう言った素振りはない。今だって、多分禰豆子ちゃんが応援団でチアの衣装を着ると言っていたからリレーの応援合戦でそれを見て卒倒したのだろう。これは風組、勝利の予感。

「先生、優しいですね」
「別に、普通だろォ」
「……みんなにも、そんなに優しいんですよね」

伊達に、先生と長いこと一緒にはいない。特に、先生が担任の先生になってもう半年が経とうとしている。これまでにクラスで言葉こそ乱暴なものの、例えば今日の体育祭に面倒だと言うクラスメイトに学校行事の良さを紐解くように唱えていた。もうこんな経験は二度とないのだから、と。
その姿をそばで見ていて、私が先生のことを好きになるのは必然のような気さえしていた。

「……どうだかな」

小さく呟くように吐き捨てて、先生は膝が曲がりやすいよう器用に包帯を巻き終えてくれた。試しに立ち上がってみると、とても動きやすい。私もリレーに出れてしまうんじゃないかと思うくらいには。

「ありがとうございます!」
「あァ」
「先生のそういうところが好きです!あ、そういうところ”も”!」

笑いかければ、先生は一つ息を吐いた。外では一層盛り上がりがピークに達した声が聞こえ、リレーが終わったことを知らせる。どうだっただろうか、勝てただろうか。ここから見えるわけではないけれど、窓の外が気になった。

「俺は戻るから、お前はそこにいろよ」
「え、おんぶしてってくれないんですか!」
「アホ。お前が消えたら心配されるだろうが。戻ってくるまで保健室いろよ」
「……はーい」

残念。どさくさに紛れて先生におぶって貰おうと思ったのに。と言っても、自分で歩けないわけではないけれど。
先生の言う通り珠世先生を心配させてはならないので私は一度椅子に座りなおした。

「先生」

簡潔に先生らしい用事を済ませて保健室を出て行く背中を呼び止めた。足を止めてくれることに、それだけで今の私はなんだか心地が良かった。

「なんだよ」
「……なんでもないです!」

愉快そうな表情を見せていた私に、先生は顔を顰めていたけれど、特に追求せずに背中を向け保健室を出て行った。
一つ、私の中でふと芽が出たこの感情、まだわからないけれど大事にとっておくことにしよう。






「…あ、」
「……」
「無視かよ!」
「リレーか、頑張れよォ」
「……あんた、大人ならの気持ち応えてやれよ。余裕そうにしやがって」
「……」
「都合が悪いことは無視かよ」
「余裕そうに見えんのならそら良かったわ」
「……、は」
「じゃあなァ」
「……泣かせたら許さねえからな!」

有一郎くんが保健室を出て行った時に、そんな会話があったことを、私は知る由もなかった。