窓の外へ耳を傾けると、善逸の間延びしたような高い声が病室まで聞こえてくる。
刀鍛冶の里では守りたいものが守りきれない喪失感を一度味わったが、燦々と照りつける太陽の光の下でも禰豆子は凛々しく立ち留まっていた。
その時は太陽を克服したこと、元の人間だった頃のように日中でもで歩けることに感極まっていたが、蝶屋敷へ戻って目を覚まし、いつも通りの天井を見ながらぼんやりとした頭で思い浮かんだのはのことだった。
すぐに戻ってくるとは話していたものの、結局随分と日が経ってしまった。それに、今まですぐ近くにいた自分と同じ境遇の子が、太陽を克服したことにがどう思うのか一抹の不安が過ったのだが、は依然として俺に笑顔を向けていた。
『禰豆子、太陽の下歩けるようになったんだね』と、心から祝福しているようだった。
「禰豆子ちゃんほらほら~、蝶だよ蝶。綺麗だねえ可愛いねえ」
昼間に庭でみんなの声が飛び交うのはいつもあったことで、何も不思議なことではない。それなのに、病室で横になっている俺には四六時中一緒にいるわけでもなかった。手伝いをしていたりと、それも何らおかしな話ではないのに、俺だけが暗雲がただようような不安が募っていた。
屋敷ではの匂いが染み付いているから探そうにもすぐに鼻は上手く効かない。外にはいないはずだからいそうな部屋の襖を一つ一つ開けながら姿を探していた。
「……」
「?……炭治郎!」
日の光が届かない部屋の襖を開けると、薄暗い中丁寧に洗濯物を畳んでいるようだった。
手にしていた敷布をパッと放して呟くように呼んだ俺へと軽快に駆けてくる。もしかしたら、は一人で、どうして自分は太陽の下を歩けないのかと悲嘆に暮れているかもしれないと考えていたけど、その心配はないようだった。
「もう大丈夫なの?」
むしろ、俺の方が気にしすぎていた。いつも通りであるに心底安堵した。俺に頬を擦寄らせた後にはこてりと首を傾げた。
「うん」
「よかった」
「は?」
「?」
「は、大丈夫なのか?」
自分で、何を聞いているのだろうかと思った。それでも口に出すことはできずに、俺の言葉には更に疑問を持った面持ちを浮かべた。
何も危険なことなんてなかったはずだから当然の反応だ。俺にこんなことを聞かれるだなんて、思ってもみないだろう。
「なにが?」
「太陽の下、歩きたくないのか?」
こんな言葉、に猫に戻れと言っているようなものだ。戻ってほしいわけではない。いや、戻ってほしいのだろうか。自分の気持ちが揺らいで、自分で決められずにいる。
俺が決めることではないとに判断を委ねている。本当のことはは何も知らないのに、随分と卑怯だと思った。そもそも、はおそらく、戻りたいだなんて言わないだろう。
呟いた俺には睫毛を揺らした。
「どうして?太陽の下で一緒にお弁当食べたいって言ったから?」
「……」
あれ以来、は俺の前で日に当たりたいなんて言葉は一切声に出さずにいた。あの時俺に言ったように、俺といれたらどこでもいいなんて、本当にそう思っているわけではないだろう。
唇を噛み締めた俺には何かに気付いた様子で眉を下げて笑った。
「本当はね、禰豆子みたいに歩きたいって思ってるよ」
「……うん」
「でも大丈夫だよ。私だけみんなと違うの、慣れてるから大丈夫。今は前よりみんなと同じだから嬉しいんだよ」
強がりとか、虚勢を張ったりだとか、そんな風には見えなかった。ただ、自分がどうしたいかというよりも、心配そうにしてしまった俺を安心させる為のようにも見えた。
一緒に暮らすようになってから、当初よりも随分と”普通の女の子”のように変わった気さえする。
戻れなくなりそうだった。戻れなくなりそうなのに、はいつかは、俺の前からいなくなってしまう。何か方法があるのかもしれないという期待なんて、考えられなかった。禰豆子とは違って、この子は元は猫なんだ。ずっと今のままではいられないはずなのに、このままでいたいと思ってしまっている。きっと、もうとっくに手遅れだった。
自分ではどうすることもできない先行きも、気持ちも、全てを時の流れに委ねるしかない歯痒さも、もどかしかった。
「炭治郎?まだ具合悪い?」
黙っているばかりの俺には顔を覗き込むように大きな瞳を揺らしながら見据えた。
本当のことを話せば、この透き通った瞳は何を思い浮かべるだろうか。戻りたくないと願うこの子に、いつか元に戻ってしまう現実を伝えたら、この子の世界は何色に映し出されてしまうだろうか。それさえも、俺は怖くて何もできずにいた。
ただ、要らぬことを口走ってしまった自分を棚に上げて余計な心配だけはかけたくないと、の頬に触れようとした。
「あっ、づ!」
無機質な廊下がいつも以上に暗く冷たく感じていたのは俺の独り善がりだけではない。窓の外で太陽が分厚い雲に覆われていたからだ。
日が差して、丁度日が当たる角度にいたの顔半分と右手からじわっと痛ましく焦がれる音がする。
俺が触れようとしていた手は宙を彷徨い、日が当たらないよう俺から距離をとったとの間に窓から差し込んだ日が線引きをしているようだった。
日陰に入りは焼き焦げてしまった顔をさすっている。それから手を引いた俺を見て、困ったように笑みを浮かべた。
「ここ、日あたるんだった」
胸が軋む音がした。こうして、一緒にいることを望んでも、彼女は変わらず傷付いてしまうのではないか。行き場の失った拳をぎゅっと握り締めた。
爛れてしまった皮膚は一瞬だったから、徐々にゆっくりと戻りかけている。皮膚は元に戻る。でも、心に負った傷は、時間が経っても元に戻らないことだってある。
それならば、この子が元に戻ってしまった時に人間だった記憶がないのは都合がいいことだと思った。
「炭治郎、どうしたの?大丈夫?休む?」
「……俺は大丈夫だよ」
「……そう?」
俺が手を引っ込めたのとは対照に、は俺に手を伸ばそうとしたが、日に当たることができずに焼かれてしまう寸でのところでぴたりと思い出したように止まる。
立ち竦む俺には伸ばしかけた手を胸の前に戻す。
「でも、いいな」
微妙な距離感が生まれている先で、日の光の奥では息を吐いて柔らかく笑った。
「こういう時にそっちに行けるんだもんね」
何も言えなかった。なんて言葉をかけたら正解なのかわからなかった。ただ、その穏やかな笑い方は、俺が見たい笑顔ではない。そんな風に、諦めたように笑わないでほしい。
君がそっちへ行けないのなら俺が行くから、だからいつものように無邪気なままでいてほしい。
「たんっ、」
握り締めていた拳を開いて、日の光で引かれた線を超えて華奢な身体を包み込むように抱きしめた。
好きになるのが怖いだなんて、この子への冒涜じゃないのか。例えこの先俺だけ置いていかれようとも、今この子が俺に向けている思いを蔑ろになんてできないし、俺だって向き合いたい。
柵や蟠り、足枷があったって、この気持ちは本物だ。
「」
「……、」
さっき触れることのできなかった頬に撫でるように触れると、まだ少しざらざらとしている。
俺の様子に瞬きを繰り返すにゆっくりと顔を寄せると、その瞳を閉じた。俺にしてやれることなんて、これくらいしかない。これくらいしかないけど、それが君にとって満ち足りるものであるならば、受け入れたい。違う、受け入れたいだなんて建前だ。
ここに来て、まだ怖がっていることに自嘲しながら待ち侘びているへ影を落とした。