何か、方法はないのだろうかと考えをやめたことはない。けれどもその度に、本来の姿に戻る方法はあれど、そのままでいることに希望なんて見出せなかった。珠世さんの言う通り、は鬼が勝手に人間にした猫なんだ。術が解けてしまえばは元に戻る。鬼が消滅すれば、も、元に戻る。
「どうしたの?」
夜、が待っているはずの部屋には戻らずに縁側に腰掛け煌々と光る月を眺めながら、考えていた。俺が一人ここで考えていたって、何もできないことに変わりはないのだが。
いつまで経っても湯浴みから戻ってこない俺を心配してか、俺を探していたらしいが隣へ座る。
「なんでもないよ」
「悲しそうな顔してるよ」
笑いかけたはずが、は俺が繕った表情を見て眉間に皺を寄せながら俺の頬に触れた。柔らかくて滑らかな手の平に擽ったさを感じる。
こうして触れられると、初めて人間の姿ここで会った時よりも胸が熱く煩く、苦しいような感覚に襲われる気がした。
「そう見えるか?」
「うん。なんとなく……」
「気のせいだよ」
逆に尋ねた俺には眉を下げる。俺の頬に触れている手を掴んでそっと放した。今まで気付かれなかった表情に気付き始められている。それも、屋敷でみんなと過ごしていくうちに心境も変化していったからなのだろう。
心配させないようにとの髪に手を滑らせると、そのまま頭を俺の胸に預けて寄りかかった。背中に腕が回って身体が密着する。
いつもいつも、の匂いの中にほんの僅かに鬼の匂いが混ざっていることに目を背けたくなっていた。
「あったかい」
「……」
「炭治郎、本当にお日様みたい」
腕の中で呟きながら、俺を見上げて柔らかく笑った。俺には、こそ日の光が似合うような笑い方をする子に見えた。俺はこうして繕った笑顔を向けることだってあるけど、のそれに目が霞んでしまうほどの眩さを感じていた。
目を背けようとする俺よりも前に、はもう一度俺の頬に手をあてる。これも、俺の真似だろうか。いつもしようとする時に俺はの頬に触れている。
思った通りには膝を立てて、俺との距離を埋めた。すればするほど、に対して胸が詰まる思いでいっぱいになるのに、やめられずにいた。
「んっぅ、……、」
お互いすっかりこれだけは慣れたように舌を絡ませて水音を耳に響かせる。漏れる声を聞きながら、薄く開いた視界の中で伏せがちなの蕩けた瞳を目にし、胸がじんと熱くなった。
止められる内に、と自ら勝手に唇を離すと、至近距離で目が合うからもう一度、もっととせがまれるように口付けられる。いつの間にかにあの時ここで出会った時のようには俺の膝の上に跨り俺も支えるようにの背中へ手を回していた。にも、自分がしていることにも気付かないほど、求められる熱に夢中になっていた。
「、」
「やだもっと」
「!」
続けながら、背中に回していた手を徐々に下に移動させている自分にほんの僅かに残っていた理性のおかげか我に返った。苦し紛れに声を出しながら、せがむの肩を押し返した。
月明かりに照らされているの頬は上気し、瞳が滲んでいて、その逆上せてしまいそうな艶やかな表情に視線を逸らした。
「もう、遅いから。早く寝よう」
「……わかった」
本当にこんな理由で納得してくれたのかはわからない。でも俺の言葉には頷き、俺の上から退いて立ち上がった。それに続いて俺も腰を上げ、にこりとしながら手を俺の前に差し出すの手をとった。
いつまでも、こうしていたいと思っている。隣を歩いていたいと思っている。願えば、そんなおとぎ話のようなことは叶うのかと、空に散る星を眺めた。
朝起きて、まだ寝ているを起こさないように、ずっと繋いでいた手をそっと離してから身体を起こし部屋を出た。日が入らないようにしているから、廊下の窓から溢れる日差しで朝日が昇っていることが初めてわかる。
静かな屋敷の中では厨房から僅かながらに白米を炊いている匂いがすることからアオイさんだけが起きているようだった。
何をするわけでもなく、ふらふらと屋敷を歩いていると目の前の部屋の襖が開いた。
「あら、早いですね。おはようございます」
「寝付けなくて……。おはようございます」
隊服を身に纏ったしのぶさんがいつもの笑顔で俺に声をかけた。小さく頭を下げると、しのぶさんは口元に手を当てながら首をほんの微かに傾げた。
「寝付けないのは、のことですか?」
「……」
「前に屋敷ではほどほどに、と言いましたよね」
「えっ、あ」
「せめて自室でお願いしたいものなのですが」
その笑顔の裏には怒気が含まれているように感じ取れた。匂いだけではなくしのぶさんの周りに漂う黒々とした靄がある。
見られてしまっていたことに今更ながら焦りを募らせ冷や汗が吹き出てくるような感覚がした。
「すみませんでした……」
「まあ、それはいいとして」
コホン、としのぶさんは一度話を区切るように咳をした。いいのか、と思いつつ俺へ向けたしのぶさんの真剣そうな目に自然と頭も切り替わった。
「いいのですか?伝えないままで」
「……」
「いつか、は猫に戻ります。必ず」
物腰は柔らかいけれど、冷たい声色だった。目の前のしのぶさんは怒っている訳ではない。俺を心配してくれているのだ。そしてそれは、今に始まったことではなく、初めてしのぶさんの許可をもらった日からしのぶさんも俺も、気付いていることだった。
その時はまだ、俺にとっては猫の、という認識でしかなかった。それが、今は変わってしまっているからしのぶさんも俺に憂わしげな視線を向けているのだろう。
「悲しませたくないんです。は、猫に戻ることは望んでいないから」
「その分、炭治郎くんが苦しいんじゃないですか」
しのぶさんは、見透かしていた。俺がもう、を猫としてなんて見ていないこと。昨日の夜のこともそれ以外の日でも、それらしいことをしていたのは、俺がのことを一人の女の子として好きだからだ。
可哀想だからとか、してあげないと悲しむからだとか、そんなとってつけたような気遣いでに触れているわけじゃない。
「俺は、大丈夫です」
「大丈夫なようには見えませんが……。元に戻ればの記憶もないのでしょう。炭治郎くんだけ残されてしまいます」
「わかってます」
「……炭治郎くんも、痛いほどわかっているでしょう。残されるのがどれほど辛くて悲しいことなのか」
に本当のことを伝えて、取り返しのつかないことになる前に、が自分から猫に戻るように。現状、それが最善の案だということなのだろう。それも、わかっている。頭では理解しているけど、あれだけ人間になれて嬉しいと喜びを露わにしているへそんなことを伝えたら、はどう思うだろうか。例えいつか戻ってしまっても、それは知らなくていい。
「わかってます」
「二人のことなので、あまり深く介入するつもりはありませんが」
あまり背負いこみすぎないように、と言葉を残し、しのぶさんは俺に背を向け屋敷を出て行った。
しんと静まり返った屋敷に廊下の窓から日差しが床板を照り付ける。こうして朝を迎えた時にが隣にいることに安心している毎日を送っていた。日が出ている間は鬼は活動はほぼしていない。日の届かないところで粛々と太陽が落ちるのを待っているだけであることがほとんどだから隊士との戦闘もない。つまり、その日がいなくなることはないことを物語っていた。鬼の頸が斬られないことに安心しているなんて、隊士失格だ。が人間の姿で存在しているということは、に術をかけた鬼がどこかで人を襲っていることになる。
もし、その鬼が目の前に現れたら、俺はその鬼の頸を斬ることができるだろうかと拳を握り締めた。