恋と願いはよくせよ

「炭治郎、好き」

呆然としている俺に、はいつまでも俺へ溢れんばかりの思いを口にしながら背中に腕を回し身体をぴたりと密着させた。俺の肩に頭を預けているおかげでふわふわとした髪の毛が頬にあたる。

「……なあ、
「なに?」
「君が本当に猫のだったなら、人間になった時のこと、俺に話してくれないか?」

心地良さそうに、今にも俺の匂いをすん、と吸って眠ってしまいそうなの頭を撫でた。するとは顔を持ち上げ、俺を見て目を丸くさせながら首をこてりと傾けた。
今更だが、透き通った瞳の色が猫のとそっくりだ。困惑している俺の表情がその瞳に綺麗に映る。

「覚えてないよ。身体がすごく熱くなって、気付いたらこうだったの!」

嬉々として話すに溜息を吐きそうになったが、きっとまた悲しい顔をさせてしまうと考えて寸前で耐えた。

「周りに誰かいなかったか?」
「誰もいなかったよ」

この奇妙な出来事は、鬼のせいであることは明確だ。うっすらとからする鬼の匂いがそれを物語っている。
だとしたら、操作されているのかもしれない。この場所がバレているのだったら非常に不味い事態なのだが、の子供のような無垢さに気が抜けそうになる。洗脳されている、ということもなさそうだ。が本心で動いているのはわかる。

「炭治郎は嬉しくないの?」

何か不測の事態が起こってしまう前に、を猫へ戻すべきか。人間の姿になったを前にしてまだ数分というところだが、早く戻さないと、後から後悔してしまう気が既にしていた。
本体の鬼と同じように頸を斬れば戻るのだろうか。思考を張り巡らせているとは俯きがちに俺へ尋ねた。背中に回していた手で羽織を握り締めている。

「私、すごく嬉しかったんだよ。これで炭治郎と一緒だ、って。人間の女の子になって炭治郎のそばにいたいなってずっと思ってたの」
「……」
「でも、炭治郎は嫌なの?もう頭撫でたりチューしてくれないの?」

の中に、猫だった時の記憶は人間になってもそのままあるようだった。
生まれつき匂いである程度人の感情が読み取れるのだが、この子にとってはそれは意味のないほど匂いと言動が一致している。
そうあからさまに落ち込まれてしまうと、さっきまで刀に手を伸ばし刃を向けようとしていたことに罪悪感すら募ってしまう。この子自ら、猫に戻せるよう仕向けることはできないのだろうか。俯くの頬に手の平で触れると温かい。猫の時と同じ温かさだ。夜が寒い日に布団に一緒に入って寝ていた時のことを思い出す。


「?」
「俺は人間のでも猫のでも、どっちも好きだよ」
「本当?」
「ああ」

それはきっと、俺だけでなく屋敷で暮らすみんなが思うことだろう。野良猫だったとは思えないほどには俺含めみんなに懐いていた。だから、つまり、人間でなくてもいいんだ。猫のままでも十分みんなに愛されている子なんだ。わざわざ人間にならなくたっていい。

「だから、縛られることが多い人間よりも猫の方が自由に暮らせるとも思うし、猫にもど、」
「嫌」

言葉の途中では握り締めていた俺の羽織りを引っ張り顔を寄せた。既に何度かしてしまっているのだが、唇が触れそうで口を噤んだ。
わかりやすく、は今度は口を尖らせている。

「炭治郎と同じじゃなきゃ嫌なの」
「……どうして、」
「炭治郎のことが好きだからだよ」

俺のことが一番好きだと、先程は夜風に髪を靡かせながらそう話していた。それに素直に心臓が跳ねてしまったのはさておき、馴れ合いの一部だろうと思っていたのだ。
飼い猫が飼い主に懐くそれと同じように。懐に飛び込んできたり、頬を擦り寄らせたり、唇を舐めることも、本来猫であるから故の行為なのだろうと。
だから、目と鼻の先で微笑むの表情に、まさかという思いが胸の内側から湧いてくる。
何も返すことのできない俺には頬を緩めながら話した。

「こういうの、恋って言うんでしょ?」
「、」

の頬に触れたままだった俺の手をは上から重ねるように包み込む。自分の煩い音を抑え、子供をあやすように宥めていたつもりが、じわりと熱が体の芯から広がっていくような感覚がしていた。

「私、炭治郎に恋してるの」

手遅れにならない内に、元の姿へ戻さないと。そう思っていたのに、まっすぐ伝えられたその言葉に胸が騒ついた。
は口角を上げて俺に顔を寄せる。いや、駄目だ。このまま押し切られては本当に不味いことになる。
刀を抜け、頸を斬れ。
頭ではわかっているものの身体が動かず、何度目かと唇が触れ合いそうになった時だった。

「、う!」

俺に身体を預けていたの重みが消え、熱が溜まっていた身体に解放感が生まれた。何が起こったのか、密着していたが離れた分幾らか頭の回転が早くなったようですぐに理解できた。
そばでことの成り行きを静観していた善逸が俺からを引き離したのだ。
不味いと思った俺は、の腰に手を回し抱え上げる善逸に手を伸ばした。

「待て善逸!斬らな、」
「いつまでもいつまでもいちゃいちゃいちゃいちゃしてんじゃないよ!?!?俺を無視してさぁ!?」

うわああっ、とを猫のように抱えながら左右にぶんぶんと振り、声を荒げた。は嫌がるわけでもなくその揺れを楽しんで笑っている。

「俺のことも好きだよね?俺沢山夕飯の焼き魚あげたもんね?」
「うん、好きだよ」
「ほうら見ろ炭治郎!お前だけのじゃないんだよ!」
「善逸は五番目くらいに好き」
「えっそれ喜んでいいの?どっちなの?」

月明かりに蝶の羽が煌めく庭で行われる善逸との、いたって普通なやり取りを傍観していた。
今、俺はなんと言おうとした。自分で口にしてしまいそうになった言葉に呆然とした。
ただ、二人を見ていれば、害のない元猫だったその子を今痛めつける必要はあるのかと、考えが覆りそうになっていた。
善逸はを地面へ下ろし、事細かに順位を聞こうとする。素直にもそれに答えたいた。

「一番は炭治郎で、二番目は禰豆子でしょ。三番目は伊之助で四番目がしのぶ」
「え、猫嫌いのしのぶさんの下なの?俺。それに禰豆子ちゃんはよく遊んでたからわかるとして、伊之助あいつなんなの?」
「肩乗せてくれて、山に連れてってもらったの。魚も獲ってくれて美味しかったの!」
「ふー……、殺してくるか」
「善逸」

くるっとへ背を向けて静まり返った屋敷へ戻ろうとした善逸の名前を呼んだ。
ちなみに今伊之助は任務に出ていていないが、それはまあ、いい。

「嘘だよ炭治郎、そんな怒るなって」
「炭治郎怒ってるの?」
「しのぶさんのところへ行こう」

たたた、と俺の元へ駆け寄ってきたは俺の顔を覗くように腰を屈めた。心配そうにするの頭を撫でて怒ってないよ、と一言告げる。
本当は、今すぐにでも猫に戻すことが最善なのだろう。それでも、人間になれたと喜ぶこの子の気持ちを、俺は見て見ぬ振りができずにいた。


緩い爪痕