のそれは、手を伸ばすことさえできずに迷って何もできないでいる俺の背中を押しているようなものだった。だけど、すぐそこにいて、一緒に帰ろうと話していた子がもう目の前にはいない。
亡骸のような塵が風に吹かれて流れていく。
「チッ……勝手なことしやがって」
「…………だ、」
「あぁん?」
自分の都合で動物を人間にして、駒と話しながらモノのように扱って、激しい怒りと虚しさに胸の根底から抑えきれない感情が溢れ出してくる。
「勝手なのはどっちだ!!」
「っ、待て、まっ、!!」
俺を押しのけようとするその鬼の言葉なんてもう聞く気にはなれずに力の限りにその頸を撥ねた。
身体から斬り離された頸は未だ俺に対し罵声を浴びせているが、頭にはまるで入ってこない。徐々にその身も端の方から塵となっていき、俺を罵る口も欠けた後、鬼の上から退いて日が照りつける鳥居の下、がいたはずの石段へと足元をふらつかせながら歩いた。
「……」
着ていた着物さえ残らずに、太陽の下で残されていたのは、本来の姿であるだった。
石段に丸く横たわって、寝息を立てている。俺が贈った髪飾りだけが、の頭のすぐそばに残されていた。
膝をついて屈みながら名前を呼んだ俺の声に反応したのか、ピクリと耳を動かした。
「……、わかるか?俺だよ」
髪飾り以外、何も残らないのはわかっている。記憶も何もないのだと、理解はしている。でも、理解はできても納得はできずにいた。少ない可能性を信じていたかった。俺だけ取り残されることが、純粋に嫌だったのだ。
薄っすらと瞼を開いたの変わらない透き通った瞳に俺が映る。丸めていた身体を起こして、手の平を向けた俺の指先に鼻をあてた。
「みゃあ」
「……」
「みゃ~あ」
「うん、……うん、そうだよな」
変わらなかった。猫の時のと。人懐っこくてふわふわとした、可愛らしいのままだ。
前と、人間になる前の時と同じように、撫でてと言わんばかりに俺の手の平に身体を擦り付けるようにする。人間だった頃の記憶なんてないことを意味している。
本来の姿に戻っただけであるのに、悲しくて、寂しくて、胸がどうしようもなく切なくて、苦しい。
「みゃ」
ぼたぼたと乾いた石段が涙で濡れていく。ゴロゴロと喉を鳴らしていたが俺の異変に気付いて身体をぴたりを止めた。
地面についていた俺の膝の上に前足を乗せ、止まらない涙が流れる頬をぺろりと舐めた。
俺はまだ、君が作った料理だって食べていないし、羽織だって一緒に見に行けてない。いつかは太陽の下で、君と一緒に歩いてご飯を食べたいと、俺だってそう願っていた。君がやりたいと話していたことは、俺はできていない。
もっと早くの気持ちに真正面から向き合っていればと、後悔してももう遅くて。
泣き止んで、と俺を心配するように、止まらない涙をいつまでも舐め続けるの小さい身体を抱き締めた。頬にあたるふわふわの擽ったさは変わらなくて、それがまた虚しさに胸が締め付けられるようだった。
「……っ、」
太陽の下で、久しぶりに君と会った、悲しい再会だった。
▽
は、いつだって真っ直ぐだった。自分の気持ちを素直に俺に伝えることだけではなくて、俺のことを沢山考えてくれていた。それは、俺に自分のことを好きになってもらいたいという思いからだとしても、優しくて温かい心がなければ生まれてこない感情だろう。
猫に戻ったを屋敷に連れて帰ってから、俺の様子にみんなは特に何も言わないでくれている。
人間だった頃のと出会う前の生活に戻っただけだった。水も飲むし魚も食べる。縁側ではよく日向ぼっこをしながら熟睡している。
俺が屋根の上で一人いる時に登ってきたりもする。何もかもが元通りだった。
「髪飾り、つけてるんだな」
「ああ、うん。これはのだから」
縁側に腰掛けて、今日も夜空を彩る星々を眺めていると、隣に腰掛けた善逸が俺にくっついているを見てそう話した。
に贈った髪飾りは少し大きいけど、首輪と一緒に首の後ろにつけている。特に動きずらそうにすることもなく、むしろ付けた時は気に入っているような鳴き声に俺は聞こえたからそのままにしている。自意識過剰だったらそこまでの話なのだが。
「思い返すとさ、ってずっと笑顔だったんだ」
「うん、それは俺にもそう見えたよ。炭治郎の前だと特にな」
「……俺は、の前では、どうだったかな」
記憶はないにしても、あの時のは俺のことを、俺の反応を、どう思っていただろうか。ほど俺は笑いかけてはいなかった気がしてしまう。
優しいと、よく人に言われることだけど、俺の優しさなんて、中途半端なものなのではないかと自棄になってしまいそうだった。
俺の膝元に身体をくっつけているの身体を撫でると喉をゴロゴロと鳴らす。猫が人間になることなんてあり得ない。それでも、もしがもう一度人間に戻ったら、なんて考えてしまう俺は浅はかで、虚しい人間だろうか。
「炭治郎、お前さ。『俺は何もできなかった』って言ってただろう?」
ふわふわの毛並みを撫でている俺に、善逸はおもむろに口を開いた。
と一緒に帰ってから善逸に会って、一言俺が善逸に伝えたことだった。細かいことは話していない。鬼と対峙していた時には自ら猫に戻ったと、それだけだ。
それ以上聞かれることもなかったし、察したのだとも思う。
の身体を撫でる手を止めると瞼を閉じていたの瞳が俺と交わる。
「でも、が猫に戻ったのは、お前が今までずっとと一緒にいたから、がした判断なんだろう。だったら、何もできなかったっていうのは違うんじゃないか」
あの時、何が正しい選択なのかはわからなかった。でも、あの状況になる前に、早くを斬ればよかっただなんて、今更思っていない。
「うん、ありがとう善逸」
の頭を撫でた後、善逸は今度を連れて花畑に行こう、と俺の肩を叩いてその場を後にした。
花畑か。花畑も、君は好きな場所だったなと。それは人間になったからわかったことだったなと俺に身体を擦り寄せるを見て思い出した。
こうして、俺はとの思い出が記憶の中に残っている。生涯、この子とあったおとぎ話のようなことを忘れたりなんてしないだろう。
それは、の記憶にはなくとも、思いは残っていると、そう信じたい。俺のことが好きだという思いは猫であっても人間であってもきっと変わらないはずで、我儘になるかもしれないけど、俺のことをずっと思っていてほしい。
君にとって、一番の太陽であり続けたい。
「好きだよ、」
「みゃ~あ」
返事をするように鳴いた後、は俺の隣に座り直して星空を眺めた。この子は夜、こうして星空を眺めていることが多い。
乾いた風が吹いて、ふわふわの毛並みが揺れた。その毛並みに触れても、は星空から目を離さない。
お日様が、太陽が好きだと話していたあの時を思い出す。
「少し、寂しいな」
語りかけるように、けれども小さく呟いた声は誰に聞かれるわけでもなく、冷たい空気の中に消えていった。