恋と願いはよくせよ

予想もしていなかった言葉に思わず目を丸くして固まってしまう。そんな俺にしのぶさんは思い出すように口元に人差し指を当て話し始めた。

「経験からすると、五感の共有ができる鬼は限られています。下弦以上の鬼でしょう」
「……」
「そんな鬼が、血鬼術で猫を媒体として生み出した人間に洗脳すらできていないということはあり得ません。単純に力が足りなかったのでしょう」

心の中の引っ掛かっていたことが、この一瞬で解けて気が楽になった気がした。嫌な音を鳴らしていた胸の音も静まっていく。
つまりを斬らなくても、この場所が鬼に感知されているということはない。

「おそらく、作りたいものが作れなかった、所謂“失敗作”ですね」

鬼にとっての存在はなんの役にも立ちませんから、としのぶさんは付け足した。鬼の役になんて立たなくていいんだ。これほどまでに、生きていて“失敗作”という響きに感謝することはなかった。鬼に感謝だなんて、馬鹿みたいな話だが。

「いいですよ。屋敷においていても。私は面倒は見ませんが」
「え、お前、のこと斬ろうとしてたのか……?」

横になっているの様子を見ていた善逸が信じられないといった目で俺を見据える。結果斬れなかったのではあるが、俺だって一隊士であるのだから仕方ないだろう。
善逸もそのはずなのだが、禰豆子を守ってくれていたことを思い出した。善逸はまず、自分のその自慢の耳で物事を判断しているのだろう。

「それはそうだろう、もしが鬼と繋がっていたら、」
「ううん……」

とは言え、もしものことを考えれば俺の言動は間違っている。それを伝えようとしたところ、しのぶさんが敷いてくれた布団の上で横になっていたが呻き声を上げた。瞑っていた瞼をゆっくりと開き、部屋の明るさに顔を顰めながらぱちぱちと幾らか瞬きを繰り返す。
のっそりと起き上がってから辺りを見渡し、俺と目が合った途端立ち上がり、両手を伸ばして飛びついた。

「よかった、炭治郎いて」

身体から伝わる胸の音に、本当に人間になってしまったのだと肌で感じさせられる。
俺に腕を回し、離れたくないと言わんばかりに力を強められる。それを見て、しのぶさんが顎に手をあて何かを考える仕草をしていた。


「うん?」
「今日から、も屋敷に住めるから、しのぶさんにお礼を言うんだ」

の中では、当たり前のように屋敷に住むつもりだったのかもしれないが、この屋敷の主は俺ではない。俺も住まわせて貰っているだけだ。かなり自由にはさせて貰っているが、人一人増えることまで俺の一存では決められない。しのぶさんが首を縦に振ることで初めてそれは許される。
は俺に首を傾げ、前髪を揺らす。言葉は堪能だけど、お礼というものは知らないらしい。そういえばさっき、俺がにお礼を言った時にわかっていないような顔をしていたのを思い出した。

「感謝する時に言うんだよ。“ありがとう”って」
「感謝って?」
「感謝って言うのは、ええと……、あ、は、俺と住めて嬉しいだろう?」
「うん!」

自分で言葉にしてしまうのがあまりにも小っ恥ずかしく感じたが、にそれを教えて、しっかりと伝わるのは今はこれしかなかった。
何かを考えていたしのぶさんは口元を抑えて笑いを堪えているようだ。

「それは、しのぶさんのおかげなんだ。誰かに対して良くしてもらったら、感謝しなきゃいけない。その気持ちを伝える言葉が“ありがとう”って言うんだよ」
「へえー……」

俺が教えると、は俺から身体を離ししのぶさんの方へ腰を降ろした。猫の姿でないからしのぶさんもからは逃げない。

「ありがとうしのぶ!」
「、」
「あ、こら!」

しのぶさんへ満面の笑みを見せた後、はしのぶさんへ顔を寄せ、頬に唇を押し当てた。舐めなかっただけよかったが、それもきっと気分なのだろう。
まさか俺以外にもやるのかと目を疑ったが、よくよく考えてみれば当たり前だ。元は猫なんだから誰にでもやるだろう。
を引き寄せしのぶさんに謝ると、いいですよ、と小さく笑われた。

、それは禁止だ」
「ええ、どうして?」
「人は無闇矢鱈とそういうことはしない。いきなりそんなことをしたら相手が驚くだろう」
「驚かない相手ならいいの?」

間違ったことは、俺は言っていない。と、思う。誰彼構わずそういうことをするのはいけない。がよくても、相手がよくないことがほとんどだ。仲良くなった相手とは言え、例えば俺にしたように唇を突然舐めるなんてことは人としてあるまじき行為だ。
だが、の言うように、驚かない相手なら、どうなのだろうか。
俺だってそういう経験が豊富なわけではない、というよりはが初めての相手であるし、俺の中での一般論を語っただけだ。
口を閉ざす俺には曇りなき眼差しで俺を見据える。

「炭治郎ならいいの?」
「……それは、」

確かに、からしたら俺は驚いていなかったのだろう。内心心臓は周りに聞こえてしまうのではないかと心配になるほどに脈打っていたのだが、驚きを越して頭が働かず呆然としていただけだった。
普段こうして俺に擦り寄ることが多いのは、それは俺のことが好きだから、ということに間違いはないのだろうが、俺は、どうしたらいい。
助けてほしさからちらりとしのぶさんを見れば、またもや口元を抑えている。
それならば、とが寝ていた布団の横にいた善逸へ目を配れば、善逸は立ち上がり、只ならぬ雰囲気を漂わせながら俺の元、いや、の元へ歩み寄った。
善逸は俺の顔を覗き込むの両肩をぐい、と自分の方へ向け、低い声を出した。

「俺も驚かないから、自由にしていいんだよ、

口を半開きにし、頭に疑問符を浮かべているようなだったが数秒後、善逸の言いたいことは理解したのか、実際にそれを試そうとしたのか、“好きな人”に分類されているであろう善逸に顔を近付けた。

「っいや、駄目だ!」

触れてしまうすんでのところで、の肩に手を回し再び引き寄せた。
さっきまであれほど俺に擦り寄っていたのに、他の人へころっと気持ちを持っていかれてしまった気がした。実際は、全く違うのだろうが。
少し苦しそうな声を出したに我に返る。
は俺を見上げて瞳を揺らしていた。

「炭治郎怒らないで。わかった、炭治郎にしかしない」

いや、そういうことでは、ないのだが。
複雑な心境を抱える俺に、お前だけずるいぞ炭治郎、と三度泣き喚く声が部屋に響いた。
小さく息を吐く俺にはふわりとさりげなく唇を合わせてから、腕を回し肩に頭を預けた。今にもまた寝てしまいそうだ。

「炭治郎くん」

善逸の泣き喚く声にしのぶさんの静かな声が混ざる。視線を向けると、先ほど笑いを堪えていた素振りはもうなく、俺を、俺たちを見て少しだけその藤色の瞳を細めていた。

「はい」
「……いえ、なんでもありません」

何かを言おうと口を開いて、一度閉じた後にしのぶさんはそう告げた。しのぶさんが言おうとしたことは、俺もなんとなくだが察していた。
この状態が続けば、多分、いつかその時が来たら。
けど、今はギュッと俺に身体をくっつけるを俺も離せずにいた。


見据えられた未来