月日を少し遡り、と出会ったある日のこと。
「星が綺麗に見える丘があるのよ」
頬に手を添え、うっとりとしたような仕草をしながら俺にそう話すのは藤の家のお婆さんだった。
長期戦にもならずに鬼の討伐を無事に終え、近くの藤の家でお世話になり朝方禰豆子と発とうと草鞋の紐を結んでいた時。俺に竹筒へ入った水を手渡しながら話し始めた。
「そうなんですか」
「そうそう、町を出て北西に進むと神社があるんだけど、石段を登った先ね。境内の裏まで歩くと細道があるのよ。そこを登っていくと綺麗な星空が見えるのよねえ」
『綺麗』を強調しながらお婆さんは話した。周りに何もないのであれば確かに綺麗に見えそうだと思った。ただ、帰りに寄れる場所にあるらしいが、生憎今は朝方だから綺麗な星空は拝めなさそうだ。時間的には朝日が立ち昇る頃だろう。
「知ってる人も全然いなくてね。若い頃、私旦那とそこでねえ……」
「はあ、」
「って、も~なに言わせるのよ炭治郎くんったらあ!」
「でっ!」
禰豆子をまだ背負っておらず、俺の背中はガラ空きだった。お婆さんは辱しめに頬を染め上げながら俺の背中を思いっきりバシンと叩いた。後で手形がついていそうな程の威力であった。昔、鬼殺隊で刀を振るっていたといっても過言ではなさそうだ。
苦笑いをしながら俺は禰豆子を入れた箱を背負い、お婆さんへ向かい合った。
「お世話になりました」
「もう行っちゃうの?」
「はい。長居はご迷惑になりますし」
「もう一日くらいいいんじゃない?炭治郎くん見てるとねえ、若い時に死んだ旦那を思い出すのよ」
「そんなに似てますか?」
懐かしむように俺を見て目を細めた後、お婆さんは俺の右手をとって両手で包み込む。皺は当然のように多いけど、白くて繊細な手だ。お婆さんになっても手先が器用な人なのだろうと、なんとなく頭に浮かんだ。
お婆さんが愛しい人を思い出してくれたのなら、何よりだ。似てるだろうか、俺を見据えるお婆さんに笑顔を作り出すと、お婆さんは手を放し、俺の胸に両手を当て近付いた。
「そう、似てるわあ」
「……それは、えっと、よかったです」
「炭治郎くん、私と一緒に星空を観に行きましょう」
「えっ」
「誰も来ないところで、私と二人……」
「婆ちゃん!またかよ!!」
そんなにも俺とお婆さんの旦那さんが瓜二つなのか、お婆さんは俺に顔をずい、と寄せ間近に迫って来た。流石に、俺にはそういう気はないし、ただの一隊士の身。目は合わせつつ、顔を上へ背けお婆さんから緩やかに逃れようとしていたところ、息子さんが廊下の奥から駆けてきて間に割って入った。今、また、って言っただろうか。
息子さんは俺から引き離したお婆さんを叱りつけるように人差し指を向けた。
「隊士の方にない色目使うのやめろよみっともねえ!」
「ない色目とは何さ!」
「ねえだろうがよ!爺ちゃんも死んでねえし!」
「わたしゃ老いぼれに興味ないんだよ!」
「自分だって老いぼれだろうが!」
「なあにぃい?」
唾を飛ばしながら繰り広げられる喧嘩にバチバチバチ、と俺には二人の間に火花が散っているのが見えた。
このお婆さんはどうやら男隊士にいつもあの手この手で言い寄るらしい。旦那さんを不憫に思ってしまう。動物の様に威嚇し合っているのを止めた方がいいだろうかとじっと見ていると、お婆さんは俺へ振り向いてにやりと謎めいた笑みを浮かばせた。
「炭治郎くん、どう?」
「はい?」
「わたしは若いもんには負けないねえ」
「……えっと、」
「やめろ恥ずかしい!!すみません炭治郎さん!キリがないんで、行ってください」
何が恥ずかしいのだと、息子さんを睨み付けるお婆さんに気にせず俺を送り出そうとしてくれたので、その言葉に甘えて俺は今一度頭を下げてから藤の家を後にした。
町はまだ薄暗く靄がかかっていて、通りには荷車を引いた音だけが仄かに響いている。小さな町だけど、これ以上町の人に危害が及ばずに済んでよかったと胸を撫で下ろした。この町の雰囲気は、俺が住んでいた地に似ていて好きだ。
町を出て北西に進んだ山道には炭焼き小屋ではなく、神社があるらしいのだが。
お婆さんが話していた通り、帰り際、ここへ訪れた時とは別の道を歩いていると確かに眼前に重々しい鳥居が見えてきた。石段を上り、年月の流れを感じる赤い塗装が剥がれた神域への入口を潜った。
神殿に手を合わせた後、カリカリ、と箱の中から引っ掻く音がする。禰豆子が外に出たいらしい。
朝日が出るにはまだ時間があるから一度箱を背中から下ろし蓋を開けた。
「うー」
「おはよう禰豆子」
箱から出てきた禰豆子の頭を撫でた後、辺りをキョロキョロと見渡して、身体を小さくしたまま散策し始めた。
勝手に立派に佇む境内の中へ入ってしまいそうになる禰豆子を呼び止めた後、ふと思い出した。境内の裏へ回ると、星が綺麗に見える丘がある、と。今は夜中ほど星が見えることはないだろうけど、折角だからと禰豆子をこっちだと呼び手を繋ぎながら、丘への細道を歩いた。
人が歩く道というにはあまりにも草や枝が邪魔をして行く先を阻むが、そこを抜けるとかなり開けた場所に出た。膝下辺りまで伸びている草むらが風に揺れている。
「禰豆子!あまりそっち行きすぎると落ちるぞ」
俺の手を放し駆け出した禰豆子に声をかける。端の方まで歩くと町を見下ろすことができそうだが、柵も何もないからかなり危険だ。
そばへ歩く俺に振り返った禰豆子は、ある箇所を指差した。こじんまりと設置してあった人二人分くらいが腰掛けられる椅子だ。誰かがここで星空を見たくてこっそりと設置したのだろうか。あのお婆さんなのだろうか。頭に浮かばせながら、禰豆子が声を出しながら早くここへと促すので何かあるのかと足を進めた。
「むー、うー!」
「猫……」
椅子の下、草むらの陰となっている場所には小さく丸まっている猫がいた。首輪もないし、見て取れる乾いた毛並みは野良猫であることを物語っている。そして、僅かに動いてはいるものの、今にも息絶えそうだった。
「うー……」
猫の前で屈む俺の羽織を禰豆子が心配そうに掴む。ああ、わかってるよ。俺はこういうの、見捨てられないんだ。
一度その猫へ手を伸ばして背中を撫でると、猫がピクリと動いたのが伝わった。うっすらと瞑っていた瞼が開くと、今の身体とは似つかないほどの綺麗で透き通った瞳と視線が交わる。まだ生きてる。俺のことも認識している。
一先ず、お婆さんから貰った竹筒に入った水を手の平へ溢れないように移し、猫の口元へ持っていった。
鼻先を近付け、匂いを嗅いでから水をぺろりと舐める。僅かであったが全て舐め取った後、その猫は再び瞳を閉じた。
「連れて帰ったら、しのぶさん怒るだろうか……でも……」
「むー!」
猫についての知識なんてものはなく、どうしたらいいのかは詳しくはわからない。おそらくだがこの子は餓死寸前であるし所々に傷も見える。だから屋敷まで連れて帰って面倒を見る、という選択肢しかないのだが、勝手に人様の屋敷に動物を連れて帰る、という行動に少なからず迷いがあった。
そんな俺に禰豆子は腕をギュッと掴み、何かを訴える瞳を向けていた。
「うん、そうだよな。このままここには置いておけないよな」
「むう!ふん!」
後押ししてくれてありがとう、と禰豆子を撫でてから羽織を脱いでその猫を包み込むようにして抱え上げた。普通、野良猫だったら人に不信感があり抵抗するだろうが、この子はその元気もないのだろう。
腕の中で眠る小さなその猫、それがとの出会いだった。
「わあ、落ち葉がたくさん」
「昨日風が強かったせいだね」
「三人ならすぐ終わるよ~!」
朝日が立ち昇り始める前に禰豆子を箱から戻し、蝶屋敷へ続く砂利道を歩いていると柔らかい声が聞こえてくる。おそらく、なほちゃんたちが屋敷の入り口を掃除しているのだろう。
一度立ち止まって、羽織に包まりながら多少の息をしている猫に視線を落とした。
今、俺がいつも通り屋敷の入り口を通って帰れば、三人は快い笑顔で出迎えてくれるだろう。だが、それと同時にこの子が見つかってしまうのも避けられない。あの子たちは、どう思うだろうか。勝手に連れてきて、迷惑ではないだろうか。この子を連れてくると決めた時からわかっていたことを目前にして、改めて考えていた。
一度この子がいない時に、実は、と話した方が驚かせないだろうか。
「あ!炭治郎さん!」
「!」
そんなことを考えていたら、砂利道へ出てきたきよちゃんが俺に気付き、箒を持っていない方の手を俺へ振る姿が目に入る。
手が塞がっている俺はそれに返せず、苦笑いをしながらきよちゃんの元へ歩み寄った。
「おかえりなさい!」
「うん、ただいま」
「お荷物お持ちしますよ」
「あ、ううん。荷物じゃないんだ」
俺が羽織に何かを包んでいるのを見て、荷物だと思ったらしいきよちゃんは箒を屋敷の塀へ立てかけて俺から預かろうとする。嘘を吐くことなんてできないし、そのつもりはなかった俺は何を抱えているのかをきよちゃんへ見えるようにその場に屈んだ。それを目にしたきよちゃんは一度驚いた素振りを見せたけど、瞳を輝かせた。
「可愛らしいですねえ!気持ち良さそうに寝てますね」
「いや、元気がないだけなんだ。身体に傷も沢山あるし」
「まあ!大変です!なほちゃーん、すみちゃーん!」
羽織に身体を包んでいる為、スヤスヤと気持ち良さそうに眠っているように見えてもおかしくはない。羽織から傷を見せるときよちゃんは口の横に手を当て二人を呼ぶ。
「どうしました?あ、炭治郎さんおかえりさない!」
「ご無事で何よりです~!……わあ、猫ちゃんが!」
すぐに俺たちの元へ駆けてきた二人にきよちゃんがてきぱきと説明してくれて、まずは傷の手当てですね、ばい菌が入ってしまいます、と話が進んでいった。
俺一人ではどうしたらいいのかわからなかったから、少し悩んでしまったけど最初から三人に任せる結果になってよかった。この子が元気になれば、それでいい。
「任せてもいいか?」
「はい!」
「ありがとう。しのぶさんには後から俺が伝えておく」
羽織に包まったその子をきよちゃんへ預けると、三人は早速あれが必要、これが必要、と話し合いながら屋敷へ戻っていった。
屋敷の外では涼風が吹き抜け、落ち葉がカサカサと音を立てている。三人のいなくなった後を見ながら、屋敷の入り口は俺が掃除しようと心に決めた。