しのぶさんが用意してくれていた部屋に禰豆子を連れ帰ってから屋敷の廊下を歩いていると、白米が炊き込まれる匂いと魚を焼いている匂いが香ってきた。
アオイさんが朝食の支度をしているみたいだけど、三人の手がなく一人で大丈夫だろうか。気になって厨房へ顔を覗かせると、そこにはすみちゃんがアオイさんとは別で何かを作っているようだった。
「おかえりなさい炭治郎さん。猫を連れて帰って来たそうで」
「ああ、そうなんだ……」
人数分、大きい鍋から湯気の立つ味噌汁をお椀へよそいながらアオイさんは俺を横目で見た。アオイさんへは既に話が通っているらしい。しのぶさんへは俺が伝えるとは言ってあるけど、三人が先に話してしまうだろうか。ただ、アオイさんと違ってしのぶさんは猫とか毛の生えた動物が嫌いなようですんなり受け入れてくれるのかが不安である。
「すみが魚を持っていくって言っていたので、炭治郎さんの朝食の分を使わせてますけどいいですか?そもそも、朝帰ってくるとは思っていなくて」
「大丈夫!ありがとう」
すみちゃんが今底の深い木皿で何かを擦り合わせているのは、あの子用のご飯のようだった。俺は藤の家でお婆さんから朝食は頂いて来たし、俺の分を使ってくれて問題ない。むしろ、今後も俺の分から抜いてくれて構わないしそうしてほしい。
「ご飯できましたよ炭治郎さん!食べさせに行きましょう!」
「うん」
誰かの世話をすることがこの子たちは楽しいのだろう。それも自分たちよりも小さい動物だし、女の子たちはこういう小動物が好きなのだと生き生きとしている様子を見て思った。
俺の手を引っ張りながらすみちゃんはあの子の手当てをしている部屋へ向かう。畳の上に柔らかい布団を敷き、その上で傷があった箇所は包帯で巻かれているその子が横たわっていた。
「さ、ご飯ですよ」
すみちゃんが持っていたご飯を口元へ持っていくと、ぴくりとその子は耳を動かしてからゆっくりと顔を起こし鼻を近付けた。
「わあ、起きました!」
「しーっ、驚いちゃいます」
なほちゃんが人差し指を口元に当てる。その猫は特に驚く素振りは見せずに、木皿を前足で自分の方へ傾け魚のすり身をパクパクと食べ始めた。
その様子に三人が喜々として目を丸くさせ、食べ終わるのを静かに待っていた。前足を使っていたから全く動けないということもなさそうだということがわかった。回復するのもそんなに時間はかからないだろう。
全て食べ終えた後、その猫はまだないのか、と言わんばかりに空になった木皿の底を舐めてから、俺の方へ視線を向けた。
「もうないんだ、ごめんな。昼まで待ってくれたら俺が、」
「私の分をあげます!」
「私も!」
「私もあげたいです!」
猫の頭を撫でながら謝ると、それを見ていた三人が次々と口にする。その場から立ち上がって、足早に厨房へと駆けていった。
残された俺はその猫の頭を撫でた手を離すと、その子はむくりと起き上がってふらついている足取りで俺の膝元へ身を寄せた。野良猫だと思っていたけど、もしかして捨て猫なのだろうか。自分からすり寄ってくるのは飼い猫であった可能性が高い。だとしたら、突然一人になって、野に放たれ、随分と心細かっただろう。
身体を撫でるとゴロゴロと喉を鳴らす。元気になっても、この子は一人でやれるのだろうか。
お腹が空いているとは言え、一匹では到底食べきれないであろうご飯を持ってこられ、一先ずその不安は頭の中から拭いすみちゃんたちへ今度からは交代で、と促した。
「それで?飼うつもりですか?既に三人が気に入ってしまっていますが」
「いえ、それは俺の一存では決められないので……」
朝からこんなに騒いでいたら、言わずともバレることは目に見えていた。ご飯をあげている最中に部屋の扉から顔を覗かせ、ちょいちょい、と目を細めたしのぶさんに手招きされた俺はおずおずと廊下に出て今までの経緯を話した。
しのぶさんは頭に手を当てながら深い溜息を吐く。
「何者にも優しいのは貴方のいいところです。ですが、一匹でも助けることなんてしていたら、これからもずっと出会った猫にはそうしていかねばなりませんよ」
「はい……」
「炭治郎くんがいいならいいのですが、負担は貴方にかかりますからね。それはこの件に限った話ではないですが。私は貴方のそういうところが少し不安です」
難しい問題ですが、と、しのぶさんは口を尖らせながらも俺のことを心配してくれているのだろう。飼うか飼わないかは決まってはいないが、あの猫は屋敷から離れなさそうな気もしていた。だからそういう猫が増えてしまったら俺が全て面倒を見ることになる、と。拾ったのだから当たり前だ。責任を持って世話をしなければならない。途中放棄なんて言語道断だ。
「残念ながら、私はああいう類の動物が苦手なので世話はできませんが、自由にしてどうぞ」
「……はい、ありがとうございます!」
萎れている俺を見兼ねてかしのぶさんが続けた言葉に、顔を上げてお礼を口にし、頭を下げた。
しのぶさんが許してくれた通り、俺はその猫の面倒を見ることになり、一先ずは俺の部屋で一緒に暮らすことにした。
「みゃう」
「なんだ、ついてきたのか」
数日後の夜、善逸たちとの鍛錬の後に風呂に入ろうとしたところ、カリカリと扉を引っ掻く音がした。
扉を開けると、鳴きながら俺を見上げるその子がいた。まだ傷は消えないが、普通に歩ける程度には回復している。
「一緒に入るか?」
猫は、水場は嫌いだろうか。ただこの子は軽く濡れた手拭いで身体を拭いていたくらいで全身を洗ったことはない。洗えばきっともっと毛並みがよくふわふわになりそうだ。
俺が話しかけるとその子は俺の横をすり抜け風呂場の水を飲み始めた。嫌い、ということはなさそうだった。
俺も服を脱いで身体を流してから、足元に寄ってきたその子へぬるま湯をかけてみると逃げようとはしない。そのままその小さい身体を洗っていくと抵抗どころか気持ち良さそうにしていて思わず笑みが溢れた。
風呂場から上がってその子をしっかりと手拭いで乾かしていく。
迷惑になるから、あまり俺の部屋以外を歩かせたことがないが、この子は俺のそばからは離れなさそうだ。今も俺についてきてしまうくらいには。
そう判断して、その子は抱えずに風呂場の扉を開けて屋敷を歩いた。やはりこの子は俺の元からは離れずに足元を彷徨いている。好かれている、というのもあるにはありそうだが、単純に不安なのだろう。
「今日は少し冷えるな。君は風邪を引いたりするのか?」
「みゃ~」
「一緒に寝ようか」
「あ、炭治郎」
夜風に当たりながら縁側を歩いていると、前方から善逸が向かってきた。今から風呂に入るようだ。善逸は俺の足元を見てから屈んで手を伸ばす。善逸の手に頭を擦り寄らせ、撫でるとまた気持ち良さそうに喉を鳴らしていた。
「もう随分元気だな」
「ああ、うん」
「お前から離れなさそうだけど、飼うのか?」
「しのぶさんは自由にしていいとは言っていたけど……」
「なら、名前つけた方がいいんじゃないか」
元々、飼う気はなかった。だがここまで人間に慣れているとも思っておらず、飼わないという選択をしても、それこそ俺が捨ててしまったような扱いになるだろう。しのぶさんは、こういうことを俺に伝えたかったのだろうと改めて実感する。
名前を付けてしまったら、本当に飼うことになってしまいそうで避けていたのだが、その必要ももうないのだろうか。
「名前、そうだな……」
この子を呼ぶ時にはいつも『君』とか人と話す時は『あの子』や『あの猫』と代名詞で呼んでいた。でも、この際名前があった方が分かりやすいだろう。
口元に手を当て、善逸の元から俺の足元へ戻るその子を見て考えていた。
「じゃあ、にしよう」
「?」
「うん。なんとなくだけど、この子に合ってるかなと思って」
みゃあ、と鳴いたその子の脇に手を入れて抱え上げ、夜空に向けて腕を伸ばした。いつもより身体がふわふわなのは、先程全身を洗ったおかげだ。君は折角可愛いのだから、こうしていつも綺麗にした方がいい。
星空を背景に、の丸い瞳に俺が映る。
「改めて、俺は竈門炭治郎。会えて嬉しいよ、」
名前を伝えながら笑いかけると、は俺から視線は離さずに、じいっとその透き通った瞳で俺のことを見据えていた。
伸ばしていた腕を戻し腕の中へ抱えると、は俺に顔を寄せて唇に鼻先をくっつけた後、ぺろりと舐める。くすぐったいけど、名前を付けたことにお礼を言われているような気がした。
それからしばらくして、ほぼ俺が飼っているような状態であったの姿が消えた。名前を付けつつも自由にしていい、と逐一話していたのは俺だけど、忽然といなくなってしまったことに少なからず心に穴が空いたような寂しさを感じていた。
「猫が突然いなくなる時は、死を悟って飼い主から行方を晦ます、と聞いたことがあります」
口元に指先を当てながら話すのはアオイさんだった。
あからさまに青ざめた俺に、アオイさんはでも、と慌てて撤回しようとした。
「は元気でしたし、見たところ二、三歳でしたし。きっと大丈夫ですよ」
「だと、いいけど……」
俺を安心させようとするアオイさんの言葉を耳にしても、心の中に一抹の不安が襲っていた。
自由にやれているのならば、それは本当にとしてもいいことで。この小さな世界で暮らすより、好きなところに元気になった足で駆け出した方が幸せだろう。その中で、たまにでもいいから俺に顔を見せにきてくれたら、俺も幸せなのだが。
そんな願いを叶えるように、しかしどういうわけか人間になって戻ってきたのは、数日後の話。