日が沈んでとっぷりと暗くなり人々が寝静まる中、それに反して鬼という生き物は影から姿を現し人を喰らう。今にも、いつも通りに日の出が辺りを照らす朝が来ることを当たり前に感じている人たちが襲われているのかもしれない。それなのに、鬼の消息はいつでも矢継ぎ早に感知されるものでもなく、こうして指令がない間は鍛錬を積み重ね、強くなっていく他なかった。
善逸と伊之助との稽古が終わり、呼吸の精度を高める為一人集中できる屋根の上へ登り瞳を閉じていた。最近はのことばかりであまりこういう時間を取れていなかった。
一度深く深呼吸をして夜の空気を吸い込む。
「手紙ィー!手紙ィイー!!」
「うわあっ!」
肺に神経を集中させようとしたところ、唐突に現れた烏に瞼を開け後ろへ仰け反った。滑り落ちそうになるのを瓦に手をついて耐える俺の目の前でバタバタと羽根を揺らす鎹烏。足には手紙が括られている。
「取レ!早ク!」
「ああ、ありがとう」
体勢を立て直し、手紙に手を伸ばし結びを解くと黒くて艶のある羽根を揺らして去っていった。ひらひらと目の前に黒い羽根が舞うように落ちていく。突然現れた烏に圧倒されてしまっていたが、冷たい風が吹き羽根が飛ばされたことで我に返る。
端が整えられ、綺麗に折られた縦長の手紙を開いていくと、珠世さんからのものだと字でわかった。
右上から目を通して行き、読み終わると溜息が溢れていたことに自分でも驚いた。わかってはいたものの、唯一の頼りどころである珠世さんから“鬼が消滅すればさんも元に戻るでしょう”とはっきりと綴られてしまえば、希望は見出せなかった。
でも、一つだけ。もしそうであるならば、それは事実であってほしいと願うものも手紙には記されていた。
「あ、炭治郎いた!」
「、」
後ろから聞こえた朗らかな声に振り向くと、手紙の内容の当事者は梯子を伝って来たのか屋根の上によじ登っていた。
膝と手で身体を支え、少しずつ屋根を登り俺の元へ近付く。
「危ないぞ」
「大丈夫だよ。もし落ちても平気」
日に当たってしまったことがあっても、は自分が怪我してしまうことに特別怖がりはしていないようだった。それが俺には危なっかしくて不安だった。
俺が制したところでは聞かず、一歩一歩ゆっくりと屋根の頂上まで歩み寄るに手を伸ばした。
俺が支えていれば、落ちてしまうことはない。
手元を見ながら歩みを進めていたは目の前に俺の手が降りて来たことに気付き顔を上げ、明るい表情を浮かばせ手を取った。
ぐ、と腕に力を込めると軽々引き寄せることができ、懐にすっぽりと身体が収まる。収めるつもりはなかったのだが、が瓦を蹴って勢いをつけたのも原因だ。
「またここで眠ってたの?」
「眠ってた?」
「目閉じてたでしょ?隣で見てたから、私」
俺の胸元から顔を上げて目尻を下げるを見て思い出した。が猫である時、『集中するから大人しくしているんだぞ』と声をかけていた。屋根の上までついてくるとは思っていなかったが、その身軽さを考えれば不思議ではないことだった。意図は通じてはいなかったらしいが。
今は身軽というわけでもないのにやることは同じなのだと、改めてこの子は猫であるなのだと思い起こされる。
「寝てたわけじゃないよ」
「そうなの?」
「うん」
ならば何をしていたのかという眼差しを向けるの頭を撫でる。頬を緩ませ瞳を閉じてから、気持ちよさそうに身を寄せた。
今日のような少し冷える日は、猫であった時に同じ布団で寝ていると自身のそのふわふわとした温かさを感じていた。
けれど今は、それよりも温かい。温かいのにどこか心の中は、冷たい夜風に身を震えさせていた。
「……それ手紙?」
暫くその温もりを自分の中に閉じ込めていると、が俺の手元に気付き視線を向けた。
読み終わった後にが来たから簡単にしか折り畳んでおらず、文字が若干だが見えている。それを隠す様に更に小さく追って懐に忍ばせた。
「ああ、この前珠世さんに送っただろう?その返事」
「へえ、なんて?私のこと書いてくれたんだよね?」
弾むような笑顔を見せるに、手紙に綴られていた内容を思い出す。
いずれは猫に戻ってしまうこと。そして戻った時に、はおそらく、人間であった頃のことを覚えていないだろうということ。
“憶測ですが、猫に戻った時に人間だった頃の記憶はない可能性が高いでしょう。
術が解けるとは、全てが術にかけられる前に戻るということなのです。
人間が洗脳されているならまだしも、そもそもの話ですが、人間と猫。生物上の違いから見てもその可能性が高いのです。”
珠世さんからの手紙には、こう綴られていた。
可能性の話ではあるが、そう聞かされると、今まで俺は考えもしなかったがその通りなのではないかと思った。そして、それが事実であってほしいとも思った。
「炭治郎?」
「ああ、うん。大丈夫」
「?」
「大丈夫だよ」
聞かれたことには答えずに、月明かりに照らされた瞳に俺を映すの後頭部に手を回し抱き寄せた。
記憶がなくなるのであれば、きっとは猫に戻った時、悲しむことはない。
今、この瞬間のことさえ忘れてしまうのだろうと思うと、胸が焼き焦がれてしまうような感覚がするのだが、にそれがないのなら、それでいい。それが一番は傷付かない。
「汗の匂いがする」
柔らかくてふわふわとしている髪の毛に口元を寄せようとすれば、すぅ、と深く空気を吸っては呟いた。いや、正確には空気ではなく、俺の匂いだ。
瞬間、の両肩を掴み咄嗟に引き離した。は突然離されたことにきょとんと目を丸くさせている。
「ごめん、あまりいい匂いじゃないだろう」
「……ううん?好きだよ」
汗の匂い、当然だ。つい先程まで俺は善逸と伊之助と稽古をして全身に汗をかいていたのだから。軽く拭ったところで匂いは取れないし、自分の匂いというものは、鼻が効いても慣れてしまっていて敏感にはなれなかった。
気にせずは俺にいつものように擦り寄ろうとするが、一度指摘されてしまえばが良いと言われても俺が気にしてしまう。
自分から抱き寄せたくせに、肩を掴む手を強めてが近付くのを阻んだ。
「俺、身体洗い流してくるから、先に寝ててくれ」
「私も一緒に入る」
「それはできない」
俺の後にが続けた言葉に、驚きはしなかった。そう言うだろうとは頭に浮かべていたからだ。
口を噤んで眉を下げるのも想定内。でも、さすがにこの件に関して俺は首を縦には振れない。
「どうして」
「それは……、」
ただ、なんと説明すればいいのかは整理できていなかった。俺がのことをそういう好きであるならば、なんの問題もないことなのだろう。
口籠る俺には俺の腕をギュッと掴んだ。
「いつも洗ってくれたでしょ」
「それはが猫だったから」
「人間になったら駄目なの?炭治郎が善逸たちと一緒にお風呂入ってるの楽しそうだった」
垂れた耳が見えるくらいには落ち込んでいる様子に胸が痛くなった。
言動は本当に子供のようなのだが、それに反して身体は予想以上に一人の女性である。何度もこうして身を寄せられていることでそれは十分なほどに理解してしまっている。
だから、無邪気にしているには悪いが、絶対に一緒には入れない。罪悪感に苛まれる。
「また身体洗ってほしい。あ、私にしてくれたから、今度は私も炭治郎のこと洗えるよ!」
「絶対駄目だ」
「どうして!炭治郎私のこと好きって言ってくれたのに」
目尻に涙を溜め、今にも溢れ出してしまいそうなそれを堪えながらは訴えた。滲むその瞳を見て思い出した。俺は、猫であるも人間であるも好きだと最初に縁側で話していたことを。それは嘘ではない。嘘ではないが、そういう“好き”ではないのだ。
けれど、そのことでを勘違いさせてしまっているのであれば、正直に話さないといけない気がした。
小さく息を漏らし、を真っ直ぐ見据える。
「それは、が俺に対して思ってくれている“好き”とは違うんだ」
「……違うって、炭治郎は私に恋してくれてないってこと?」
「……ごめん」
ずっと、有耶無耶にしていた俺が悪かった。だから君とはそういうことはできない。ただ、がみんなにやろうと思っているような愛情表現なら、俺は受けられるから、それは俺だけにしてほしい。
存外俺も我儘である。それならば、一緒にお風呂に入ることだって同じだろう。
これは、俺の中の線引きに過ぎなかった。俺がを、縛り付けている。だから君は、猫のままでいた方が自由にやれる。そう考えてはいるのに、この子の、人間であるの温もりに触れていたいと思ってしまっている俺が、一番不透明な存在だ。