「爽やかな日本人がいるパン屋さん?」
「アルバイトの子のガードがすごいんだって」
クラスの隅に座って窓の外の整備された庭を眺めながらクラスメイトの会話に耳を澄ませていた。
『爽やか』『日本人』『パン屋』の単語は聞き取れた。色白でスタイルも良くて彫りの深いあの子たちはフランス語に慣れるのも早くて羨ましい。私はまだまだ単語一つを聞き取ることに精一杯だった。
ただ、誰も知らない人がいるこの世界は幾らか私の心の中を穏やかにさせた。日本じゃ朝に帰って夜に起きる、なんて不規則な生活を送っていたけれど、こっちに来てからは意味もなく早起きをして瑞々しいフルーツを摘んでいる。
そんな生活を始めて数週間が経ち、朝早く起きて三割くらいしか理解ができていないテレビをぼーっと見ているだけなのも勿体無いと思い立ち、いつも家を出る時間よりも随分と早めに深緑色の扉を開けた日だった。
「あ、炭治郎くんおはよう~!」
「おはようございます!」
「炭治郎くんが配るの珍しいわねえ」
「担当の子が休みで」
宝石のような彩り豊かなパティスリーや丸テーブルが外に並ぶカフェが続くいかにもな通りは、この時間でも開店前のお店に人が並んでいる箇所が所々あった。耳に大きなピアスをした上品なマダムもいれば私のような学生もちらほら見えた。
そんな中で通りかかった十字路に面したお店。入口からお店沿いに十数人が並んで開店を待つ中、入口からお店の人が出てきた。制服が作る側の人のようだ。パンを作る人。確か、ブーランジェと言ったはず。
「炭治郎それ頂戴」
「炭治郎わたしにも!」
何度も何度も口にしている『タンジロウ』というのはその人の名前なのだと、それだけは理解できた。
お店の前で待っていたお客さんたちが全員と言っていいほど声をかけていた。
「どうぞ!」
思わずその人気っぷりをまじまじと見ていると、突っ立っていた場所が列に並んでいるのかそうでないか微妙な位置だった私にも笑顔でパンを差し出してきた。名前でわかっていたけど、やっぱりこうして近くで見ると日本人だということがわかる。おでこに火傷の跡のようなものがある。ただそれよりも、真紅の瞳がとても綺麗だと思った。
流されるように一口サイズに切られたそれをバスケットから一つ貰う。今お客さん達がこのタンジロウさんに連呼しているのはおそらく『美味しい』という単語なのだろう。やっぱり、家にいるよりこうして外に出た方が早く語学が身につく気がする。そんなことを考えながら、貰ったパンを口に含んだ。
「美味しい」
思わず、声に出てしまった。頬っぺたがとろける様な感覚とは、まさにこのことだと実感した。今ガラス張りで中の見えるお店の前で立ち並ぶお客さんが揃って口にしているのはおそらくではなく、本当に『美味しい』であることが私の中で確信に変わった。
どんなお店なのだろうか、気になって店内を覗き込もうと足を動かそうとしたけど、どことなく視線を感じた。
目線だけそちらへ向けると、タンジロウさんがその綺麗な瞳に私を映していた。面を食らった様に固まったいたけれど、くしゃりと私へ笑みを零した。
「ありがとうございます」
周りには色素の薄い髪色の人たちが横文字を並べている中での、私たちにしかわからないやり取りだった。
その人は再び私へ歩み寄り、太陽をバックに底抜けに明るい笑顔を見せた。
「観光ですか?」
眩しかった。お兄さんの後ろから顔を覗かせ始めた朝陽が眩しいのか、お兄さんが眩しいのか。多分、両方だった。
「……違います」
感じ悪くしてしまったかもしれない。けれど、その瞳に私が映っていることに居た堪れなさを感じ、つい目を逸らしてしまった。
逸らした先で、このお兄さんと同じ格好をした男の人が店から顔を覗かせていた。タンジロウ、と呼んでいる。
目の前のお兄さんが頭上で返事をしたのが聞こえる。
「よかったら寄ってってくださいね!美味しいパン沢山あるので」
感じは悪かったのに、お兄さんは私に優しく声をかけ店へ戻っていった。その背中を見て思い出した。クラスメイトが『パン屋』『日本人』『爽やか』の単語を重ねていたのを。学校もここから近いし、絶対にあの人だと思った。
元々、散策予定だっただけであまり所持金も持ち合わせていない私はどこかに入るつもりはなかったけれど、外から見えるベーカリーの中の様子と香ばしい匂い、あとお兄さんが寄っていって、と私に声をかけてくれたことで、折角なのでお店に入ることに決めた。
「何買ってく~?バゲットは絶対だよね」
「クロワッサンも買っていこうよ、チョコクロワッサン」
お店が開いて、ぞろぞろと試食を口にしていた人たちが雑談をしながら入っていくのと同じく私も中へ入った。当たり前だけどお兄さんはいない。
パン屋、ではあるのだけれどイチゴが盛り沢山に並べられたタルトやガトーショコラなど、洋菓子も充実していて見ているだけで心の中が満たされていく気がした。
ただ、さっきお兄さんが店前で配っていたパンが気になっていた。お店で一番に陳列されているパンが人気なことはそこに人が沢山集まっていることで理解はできたけれど、何かの縁だと思って、それっぽいパンを探した。けれど、一向に見当たらない。
「あのー……」
端から端まで回って見たけれど、なかった。片言だったと思うけど、赤いワイシャツに身を包むスタッフさんへおそるおそる、なんとか聞いてみれば、フランス語が流暢ではないと察され、英語で優しくNO、と返された。置いてないらしい。
なら仕方ないと、お昼に食べようかとこのお店一番らしきバゲットを一つだけ買って外へ出た。
すぐの信号を待っている間、携帯を取り出して紙袋に書かれたお店の名前を検索してみると、やはり人気店のようだった。折角だから写真を撮っておこうかと、信号を渡って少し離れてからお店へ振り返り、一階だけ緑色で装飾された外観の建物へ携帯をかざしていると、画面に入口から誰かが出てくるのが映った。キョロキョロしているのは、あのお兄さんだ。
何をしているのだろうか、写真撮れないから早く退いてくれないかな、なんて携帯を構えながら失礼なことを考えていたら、その人はこちらへ顔を向けた後、何かを見つけたように駆け出してきた。私の後ろにはクラシカルな洋楽が流れるカフェしかないけれど。
画面越しに近付いてくるお兄さんは私の目の前で止まった。画面には真っ白な制服しか映らない。顔を上げると、お兄さんは私の手元を見ていた。まるで、心外だとでも言うような面持ちで。
「君、俺が作ったパンが気になるんじゃなかったのか!?」
「……え」
「それ」
手元、というのは携帯を持っている手ではなく、私が先ほど調達した今日のお昼だった。
「だって何も買わないのは……」
気が引けるし、と、続けようとしたけど、今更ながらお兄さんが手に持つ小さい紙袋に気付いた。多分、朝お兄さんが配っていたパンだった。わざわざ持ってきてくれたんだと理解して、携帯を鞄にしまう代わりに財布を取り出した。
「ありがとうございます、買わせてください」
お昼がパン二つ、というのは気が進まなかったけれど、これが食べたかったのは事実。いくらですか、と尋ねれば、お兄さんは慌てるようにそれを止めた。
「これは品物ってわけじゃないから、いらないよ」
「……」
「初めて言われたんだ、俺が作ったやつを食べたいって。嬉しくて飛び出してきた」
そもそも俺は普段外には出ないんだけど、って眉を下げて笑うお兄さんは、私にはやっぱり少しだけ眩しい気がした。
きっと、偶然なのだろう。実際パンは美味しかったから、食べたいと思っても口に出さない人やスタッフさんに聞かない人だっていただろうし。
お兄さんからありがたくパンをを受け取った。それから、気になっていたことをお兄さんへ伝えた。
「後ろ」
「?」
「さっきお兄さんのこと呼んでた人、すごい笑顔でこっち見てますよ」
お兄さんの後ろを指差した。少し前から、お店を飛び出してきたこの人の行く末を見守るように、続いてその人はお店から出て腕を組んでこちらを見ていた。
「うわあ!ボスさんすみません!すぐ戻ります!」
流暢にフランス語を話していてすごいな、と飛び切りの笑顔を向けるその人へ声を張り上げるお兄さんを見て思った。一年以上はここにいそうだ。後、聞き取れた名前が少し気になった。
「ボス?」
「ん、ああ!そう呼べって。上司とかそういう意味じゃなくて、昔からそう呼ばれてるんだって」
「へえ……」
フランスでは、目上の人をそう呼ぶ習慣があるのかと思ってしまったけどどうやら違うらしかった。けど、ボス感のあるその人にはぴったりだと思った。未だにお兄さんを笑顔で見守っているところを見ると、大層可愛がられていそうだ。そのお兄さんは、よかったら、と口を開く。
「また来て欲しいな!」
「……学校近いので」
「今のところ俺が作るのは全部タダだから!」
それはほぼほぼ自虐だと思うのだけれど。爽やかというか、なんというか、少し印象が私には違って見えてしまった。
バゲット