ふらっと澄んだ空気を吸い込み街中を歩いていたあの朝から、時たま朝早くに家を出て学校の周りを散策する日が続いていた。
あのお兄さんがいるベーカリー以外にも色々なところを回っていれば、フランス語を理解しなければいけない場面にも度々直面し、徐々に慣れてきた。
だからこの前、あの公園でおじいさんに絡まれてしまった時、何を話しているのか理解できてしまってつい会話をしてしまったのは反省すべき点だった。でも、お兄さんのあの面白い顔が見れたから結果オーライということにする。
竈門炭治郎、くん。いや炭治郎さん、だろうか。名前は教えて貰ったけど、今後また会うことがあるのかな、なんて考えを持ってしまうのはお兄さんとの決定的な違いだなと思った。
そんなことは、お兄さんは考えないのだろう。思いつきもしないだろう。だからこそ外にあまり出ることがなくともあのフレンドリーさで人を引き付けてしまう魅力があり、人気者であったのだ。
「炭治郎この前の美味しかったわよ~!」
「本当ですか!ありがとうございます!」
「私また買ってっちゃうわ」
「嬉しいです!」
学校をサボるな、と言われてから、なんとなくで休むこともやめた。今日気が乗らないな、なんて太陽をたっぷり吸い込んだふかふかの布団で眠りについた日は特にそんなことを思っていた。けれどその度に頭の中で私に指を立て学校に行きなさい、と怒るお兄さんがいたのだ。
二回しか会ったことがないのに随分と影響されてしまっているな、と溜息を吐きながら渋々と学校へ向かい、石造りの校舎のアーチ状の入り口を潜り抜け、どこか散策してから帰ろうと思っていた矢先だった。
学校が近いので、お店に入りはしないけど何度か目の前を通ったことはこれまでにもあった。けれど開店前でもないこの時間にお兄さんが外にいるということはまるでなかったのに、今日は外に出てまた試食らしきパンを配り、あの日と同様パリジェンヌに囲まれていた。
「それも新作なの?」
「はい、さっき焼き上がったんでよかったらどうぞ」
「うん、これも美味しいわね」
「ありがとうございます!」
「炭治郎こっちにも頂戴よ」
「勿論です!……あ!」
相変わらずの人気っぷりを遠目から眺めていれば、今しがたお兄さんを呼んだ人の延長線上にいた私を見てだろうか、綺麗な瞳を更に輝かせ、嬉々とした表情を見せた。
一応、私にあててなのか定かではない為周りをキョロキョロと確認する。
「なあ、今日待っててくれないか?向かいのカフェで」
「わっ」
周りでお兄さんに反応している人はいない。多分私を見て、ということが判明したところでもう一度お兄さんの方へ顔を向ければいつの間にか目の前にいたお兄さんは私に声をかける。バスケットの中から焼きたての香ばしい匂いが漂ってきた。
お兄さんが指差したのは、お兄さんが働くベーカリーの向かいのクラシカルなカフェだった。
「はいこれ」
エプロンのポケットから取り出して、私にひらりと一枚の紙を差し出す。お兄さんが指差したカフェでのコーヒー一杯無料券だ。大方、このお兄さんファンのマダムの方からもらったとか、そんな感じだろうと推測。
「そろそろ退勤だからさ。渡したいものがあるんだ」
「渡したいもの?」
躊躇いがちにそれを受け取ると、お兄さんは大きく頷いた。とても嬉しそうで、徐々に冷えてきた気温の中では不釣り合いなほどに温かい笑みを浮かばせる。
「炭治郎!そろそろパン焼けるよー!」
「わかったすぐ行く!」
受け取ったからには待っていなければいけないけど、返事をしない私とお兄さんの間に名状しがたい空気が流れている時だった。ベーカリーから顔を覗かせ声をかけた可愛らしい子。前に来た時はいなかった。遠目からでもわかる瞳の大きさに感銘を受けた。
お兄さん越しに目が合い一瞬顔を歪ませたように見えたけど、すぐににこりと微笑みかけられた。
……彼女、かな。一瞬の顰めっ面はそういうことかもしれない。けれどもマカロンみたいな甘いお菓子が似合うような印象の子だと思った。
「じゃあ後でな!」
ほぼ一方的に約束を漕ぎ着けられ、お兄さんは私にこぼれるような笑顔を向けてお客さんがパンを吟味しているお店へ戻って行った。
言われた通り、特に散策以外は何もする予定のなかった私はベーカリーの向かいのカフェへ入った。
オレンジの丸い照明が等間隔にぶら下がっている温かいお店だった。ウイスキーやリキュールが陳列されているバーカウンターもあって、夜はバー形態であることが窺える。
お兄さんから貰ったチケットをお店の人へ見せ、それだけだと申し訳ないのでショーケースに並んでいるキッシュを指差して注文した。
少しだけ時間を置いてからカップから湯気が立つコーヒーと一緒にカウンターに出される。それを受け取って空いている席に座りコーヒーを一口飲んだ。
一息吐きながら耳を澄ませると、周りの人たちの会話が聞き取れるようになってきていることに気づく。程よい明るさの店内が心地良かった。
集中しやすい雰囲気だった為、キッシュを食べ終えてから鞄からフランス語の教科書と辞書を出して文章を訳していると、前の椅子がガタッと引かれたのに肩を揺らす。
「もう慣れてきたか?」
ピアスを揺らしながら、お兄さんは私へ声をかけた。テーブルに置いたアイスティーの氷がカラコロと音を立てている。
前から思っていたけど、珍しいピアスをしている。後、お兄さんのような人がピアスをしていることに少し意外性を感じた。
体に穴を開けるなんて親不孝だ、と言いそうな人だと想像していたから。
「……綺麗なピアスですね」
「ん?ああ、ありがとう!形見だからこれは渡せないけど」
「別に貰おうだなんて思ってません」
はは、と零れた笑い声。そっか、形見だからしていたのか。そうでなければ、きっとそういうアクセサリー類は身につけない類の人間だろうと、勝手に納得した。
木製の丸テーブルに広げていた辞書と教科書を鞄にしまう。慣れてきたか、の問いに答えるのを忘れていた。
「これ、渡したかったんだ」
今更答えるべきだろうか、なんて考えていれば、どうやらお兄さん的にも特に気にはしていないようで、ベーカリーの紙袋をテーブルに置いた。
「これ、店に並んでるんだ。俺が考えたやつ」
「あ、じゃあお金、」
「いや、君が教えてくれたから、いらない。お礼なんだ」
前と同じように、お金を払おうとする私をお兄さんは止めた。ジェラートを買わせておいて今更だけど、こんなに貰いっぱなしで気が引けた。そもそも、あの時は本当に買ってきてくれるとは思わなかった。面倒臭い女だなと、買いに行くフリをしてそのままどこか行ってしまうだろうとも、八割がた思っていた。
けど、話しててそういう人ではないということはもうわかった。
「笑顔にさせたい人を思い浮かべて作ったんだ。具体的に」
「……彼女?」
「いや、家族」
そう言って、お兄さんはポケットから携帯を出して私へ画面を見せた。お母さんが生まれたばかりの赤ん坊を病室で抱いて、周りにお兄さんたちがいる写真だった。みんな、幸せそうだ。
「全員兄妹ですか?」
「うん、六人兄妹なんだ」
「へえ……」
「ずっと、何かが足りなくてオリジナリティーがないって言われてたんだけど、
のおかげでわかったよ」
声色が温かくなる。少しだけ伏せた瞳に映るのは多分、家族だ。写真からしてお兄さんが一番上だ。どうりでお兄ちゃん気質が全身から滲み出ているわけだ。
こんなに思われている家族はきっと、幸せだろうなって、そう思った。
「勿論、みんなを笑顔にしたいっていうのは変わらない。でも、特定の人を思って何かをする方が、思いの強さがのるんだな。家族を思って作った、俺だけしか作れないものなんだ」
「……それは、美味しいはずですね」
「ああ!だから
にも食べてほしくて」
お兄さんは、いつも優しくて温かい笑顔を浮かべる。眩しいなって思う。
紙袋の端を掴んで持ち上げ、潰れないように鞄を少し整理して詰め込む。
「ありがとう。帰ったら食べます」
「感想聞かせてほしいな」
お兄さんは目を細めて頬を綻ばせながら、首を少しだけ傾ける。
私には、テレビでよく見る芸能人の達者な食レポのようなものはできないけど、いいのだろうか。多分、『美味しい』としか出てこないけれど。
「伝えておきます」
「
」
食べたら明日の朝、美味しかったですと赤いワイシャツの販売スタッフの方に伝言をしてもらおうと考えていた。
既に、ごく自然と何度か呼ばれている呼び捨てられた名前。私は未だにお兄さんのことを何と呼べばいいかわからずいるのに、人の懐に入るのが上手い人だ。
お兄さんは無造作に置きっ放しにしていた携帯を手に取り私へ向けた。
「連絡先、教えて欲しい」
「……」
「この前、名前だけじゃなくて連絡先も聞けばよかったって後悔していたんだ。つい飛び出してしまって……」
ガラス越しに見える外の光景は薄暗い中に街灯が灯り、併設されているバーカウンターにも人が座り始めていた。
夜の閑静な雰囲気の方が、私は落ち着くはずなのに、落ち着かないのは何故だろう。
「今日、会えて本当によかった。でも、また会いたいんだ」
普通にしていたら、私とこのお兄さんが出会うことなんてそうそうないだろう。試食だって普段はなかなか配っていないようだし私も頻繁にあのベーカリーへ足を運ぶわけではない。実際、言ったらこのお兄さんは怒りそうだから言わないけど他のベーカリーにも今まで結構足を運んでいた。
公園で会ったのも、ほんの偶然だ。
携帯を私へ向けるお兄さんに、断る理由もなく私も鞄から携帯を出した。連絡先を教え合うと、お兄さんはそうだ、と声を上げる。
「俺、彼女はいないぞ」
「……そう、ですか」
あのマカロンちゃんは違ったようで。どことなく、心が騒ついている理由は、未だにわからない。
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