ジェラート
日本に帰ったら、沢山の人を、こっちに来る前の頃よりも笑顔にしたい。うちの店のパンが一番だと、そう言ってもらいたい。
その為に、本場仕込みのパン作りを教えてもらって、自分なりに試行錯誤したパンはもう数え切れないほどある。それでもいつも言われてしまうのはお決まりだった。

「炭治郎、お前が作りたいものはなんだ?」

建物の二階の休憩スペースで耳にタコができるほどに聞かされた言葉は今日も俺の脳内に響く。帽子を外しながら椅子を引いて俺の向かいに座るボスさんの後ろでは白いカーテンが揺れている。部屋の隅には本棚が配置されいつの時代からあるのかわからない重々しい分厚い本が何冊も並べられている。

「俺は店に来てもらった人みんなに、美味しいと思ってもらえる様なパンを作りたいと思ってます」

幾度となく繰り返されてきたこのやり取りに終着点は未だに見当たらなかった。
みんなに美味しいと思ってもらって、笑顔になって、街中の人たちが幸せになってほしい、その考えはずっと変わらない。俺の答えにボスさんは腕を組んで頷いた。

「確かにそうだな。けど、オリジナリティーがない。お前には」

日本にいた頃は、よくこうすればもっと美味しい、ああしたら喜んでもらえそう、と考えて出したパンはどれも好評だった。だからこそ、こうして本場の職人に教えてもらうことは貴重なのであるが、こうも上手くいかないことが続いていると溜息も吐きたくなってしまう。
俺を指差すボスさんは更に続けた。

「もう基本はできてるんだ。よく考えろ。それじゃ自分の思う様なパンは作れない」
「はい……」
「決定的に足りないものがあるんだよ」

それがわからない限り、お前は一生一皮剥けねえな、とガタッと音を立て俺を横切り一階のキッチンへ降りていった。
半年間、ずっとこれだ。
『足りないもの』を、教えるのは簡単なんだと思うが、ボスさんはおそらく俺自身に気付いてほしいんだと思う。教えられるより、多分自分で気付くことが大切なものなのだろう。けれどそれがわからずに、迷いながらパンを捏ねている自分が情けなかった。

「はー……」

何度溜息を吐いたことか。年輪が何重にもなるテーブルに項垂れた。木材の匂いが温かい。
テーブルに置いていた携帯の画面を明るくした。家族の為に俺が挫けることはない、という使命を自分に課したことが唯一の心の拠り所となっていた。ここに、逃げ場なんてない。

「気にすることないって炭治郎!私は美味しいと思ってるよ!」

テーブルに突っ伏しながら画面をぼーっと眺めていると、後ろから声をかけられた。前に一度休んでからは常にずっと出勤している。もはや、社員なのではないかと疑うほどに。
背中を起こしてそちらを見ると、丸皿にタルトを乗せてフォークで刺しそれをもぐもぐと口にしていた。

「もう最近は休まないんだな。体調大丈夫か?」
「体調大丈夫かって……、誰のせいで休んだと思ってんのよ!」

店で出しているパンの他、洋菓子も休憩中に食べていいのはここで働いている特権だ。
にこにこと美味しそうに口にしていたのに表情はコロッと不貞腐れたような面持ちへ変わった。かなり喜怒哀楽を顕著に表に出すタイプだが、お客さんの前ではとびきりの笑顔を振るまき仕事もできるから重宝されているようだった。

「聞いてたのか」
「ボスさん仕事の話してる時怖いから近寄れないのよ、盗み聞きしようとしてしてたわけじゃないから」

俺の隣に腰を下ろしてタルトが乗った丸皿をテーブルに置く。若い子に人気だというマシュマロが乗ったタルトだった。前に、この辺りは近くに学校が多いからと同い年くらいの子に向けたパンを意識して作ったことがあるのを思い出した。それも、オリジナリティーがないと一蹴され店に並ぶことはなかったのだが。

「ん~~、美味しい!ねえ炭治郎、やっぱり私ともう一度、」
「付き合わない」

言い切る前に答えた。そもそも、俺は今いよいよそれどころではなくなっている。あと半年の猶予しかないのにそういうことにかまけている時間は正直なところないのだ。
カチカチと秒針が音を立てる花が象られたような時計を確認すると、そろそろ休憩時間が終わりそうだった。

「炭治郎」
「なんだ、俺はもう戻るぞ」
「私は炭治郎が作ったパンが世界一美味しいと思ってるよ!」

携帯をしまい、立ち上がり座っていた椅子をテーブルの下へ押し込んだ。その隣で口角をぎゅっと上げ、どこから出しているのか不思議で仕方ない声を発した彼女。

「……ありがとう」

匂いからして、嘘ではないのだろうけど白々しさも感じとれた。一応お礼を言ってから帽子を被り直し、キッチンへ戻った。
美味しいと言って貰えるのは嬉しい。実際、前に店にきた日本人のあの女の子が俺の作ったパンを販売スタッフの人に聞いてくれていたのは喜びを隠せなかった。
けど、ボスさんに認めてもらわない限りは自分が作るパンに納得ができないのだ。

「あ、パン屋のお兄さん……」

その日は珍しく遅番で、いつもよりかなり遅くマンションを出た。と言っても、早起きに慣れていて出勤までの時間、かなり暇を持て余していた。
もしかすると、このアートに溢れた世界を散策することで何か新しい発見があるかもしれないと、映画で出てくるような宮殿が聳える大きい公園の歩道を歩いていた。観光地な分、人もそこそこに多く行き交う人の中にはフランス語以外の言語も当然のように混ざっていた。
そんな中で聞こえた日本語、それも聞き覚えのある声に足を止め振り向くと、その子はいた。

「君……」

前に俺のパンがほしいと言ってくれていた子だった。あれ以来、俺は基本外にはでないから店に来ていたのかはわからない。来てくれていたらそれは嬉しいことだが。
真っ直ぐに空へ伸びる木々が等間隔で並び、生い茂る葉のおかげで日差しを遮ぎっている。公園の雰囲気を壊さないような緑色のベンチにその子は腰掛けていた。手には白とベージュのジェラートをのせたコーンを持っている。もうほぼ食べ終わりそうだった。

「こんにちは」
「こんにち……、いやちょっと待て」
「?」
「今日は平日だぞ」

さらりと挨拶をして、ジェラートを口に含んだその子へ俺も返そうと歩み寄ったが、おかしな事に気付いて歩みを止めた。ベンチまでの距離、僅か二メートルほど。
瞬きを繰り返し、俺が何を言っているのか察したその子はあからさまにふい、と顔を背けた。

「サボりはよくないぞ」

学校が近い、と、そう言っていたから学生のはず。こんな平日の昼間にここへはいてはいけない。悪いとわかっているから、今俺から目も逸らしたのだろう。

「色々あるんです、色々」
「色々?悩みがあるのか?」
「まあ……」
「聞くぞ!」

その子に問えば、逸らしていた目を俺に戻し瞬きを繰り返す。人の悩みを解決できるほど、今の自分に余裕があるのかと問われればおそらくない。けど、あの日俺が配っていたパンを欲しいと言ってくれたお礼のつもりだった。それから、こういうのは放っておけない性分だった。
反応がないその子へ、俺は僅か二メートルあった距離を詰めようとした。

「あ、お兄さん」
「ん」
「女の子の悩みを聞くときは、甘いものが必要です」

俺が近寄る前に、その子は待ったと俺に手の平を向ける。そしてその手で人差し指一本だけ立て、俺の後方を指した。その先を追うように振り返ると、これまた公園の雰囲気を壊さないような緑色の小屋風なレストランだった。店の周りには大きいパラソルが何本も立てられテラス席が用意されている。昼間からワインを嗜む老夫婦がやけに映えていた。
なるほど、この子が持っているジェラートはここで買ったのか、と理解した。

「ダブルでお願いします」
「買ってこいって言うのか?」
「私学生、お兄さん社会人」

言葉に合わせて自分と俺を交互に指差す。愉快そうだった。
まだ食べるつもりなのかと思いながらも、仕方ない、そしてこれも何かの縁だと俺はこの場所よりも日差しが降り注ぐそのレストランへ足を向けた。
ジェラート