花の都
正直、散々だった。
長男であることに託けてなんでもできるとここぞという場面では自分を鼓舞しながら生きてきたけれど、いつでも後ろをアヒルの子のようについて来て『おにいちゃん待って』と可愛らしい声を上げる妹や弟もここにはいない。
花の都、なんて自分には全く似合わないと思った。実際やっていることと言えば朝は日本といた時と変わらないくらいの時間に起きて仕事に行って帰る。ただそれだけだ。
もう一年半はこの生活を繰り返している。一年目はただひたすらに本場のパンというものを腕に叩き込んでいた。二年目にやっと自分が考えたパンを店に並べられるかと思いきや、俺はずっと、『足りないものがある』と言われている。店に自分で考えたパンが並べられないのはそのせいだ。

「美味しいとは思うんだけどな……」
「あ、たーんじろー!」

知り合いの伝手で立地も申し分なくいいところに住まわせてもらっている。
アパートの階段を降りてそろそろ太陽が顔を出し始める藍色の空の下、石畳の細い道を歩いていると前方から見知った声が聞こえた。溜息まじりの嘆きに口を閉ざし、前を向くと目一杯手を振って掛けて来たのは、アパートの管理人さんだ。飼っているプードルの散歩中らしい。

「おはよ~う!」
「おはようございます!」

管理人さんは俺の元まで近づき、頬を擦り寄せる。最初に来た時は知らなかったわけではないけれど、やはり戸惑うところはあった。今は慣れたものだけど。

「あと半年しかいないのよねえ、寂しいわあ」
「はは、そう言っていただけて光栄です」

日本を出る時から、期限は決めていた。だらだらといても仕方がないのと、そんなに長くは実家のパン屋を離れることはできない。
今は母さんがいるから俺は手伝いだけで店が成り立っているけど、俺が後を継がないことにはあの店は終わってしまう。修行をするなら今のうちだと、高校を卒業してからの一年でフランス語をある程度身に付けながらこっちでどうしたいのかとか、色々と模索して単身飛び出してきた。

「順調?」
「……は、はい」
「ああ、順調じゃないのね」

こっちで自分が考案したパンを出す。それが目標ではあったけど、そう簡単ではなかった。俺のことはボスと呼べ、と俺がお世話になってる店のパン食職人・ブーランジェは普段は本当に明るく大らかなのだが、褒められたことは数知れず。このままだと俺は中途半端に日本へ戻ることになってしまいそうだった。
誤魔化しがバレたらしく管理人さんは苦笑する。そして俺の背中をバンッと思いっきり叩いた。

「大丈夫よ!半年もあるんだから!」
「……ですよね!」

さっき半年しか、って言ってなかっただろうか。まあ、それはさて置き。確かにまだ後半年もある。たかが半年、されど半年。
両耳に花の耳飾りがついたプードルを抱き上げ、前足を俺に向けて振りバイバイ、と愛嬌たっぷりの管理人さんに俺も手を振って背を向けた。アパートでは管理人さんがいくつなのかは聞いてはいけないという暗黙の了解になっているらしい。

電車に乗って駅の改札を通る。朝早いからいつもそこまで混んではいない。と言っても、ピークの時間でも日本ほどは混んではいないのが事実。駅から店までは程近い。だから、何事もなければ家族のことを思い浮かべていたりすればすぐに到着する。
何事もなければ。

「炭治郎!」
「……ああ、おはよう」

店でもよく聞くその声は、この辺りに住む店のアルバイトの子だ。因みに日本語が流暢で来たばかりの頃、俺はかなり助かった。どうやら日本の漫画やアニメが好きらしく、日本語でアニメをそのまま見たいからと学んだらしい。
その子は俺の隣を歩いて腕を絡ませる。一体どういう風の吹き回しなのだろうか。

「ちょっと話があるんだけど」

幾分低くなったその声色に俺は歩みを止めた。ガラス張りの店が立ち並び店の中では開店の準備をしているのがその子の後ろに映る。
俺の腕を握っている手に若干の力が込められた。そしてにこりとしたお客さんへ見せる機械的な笑顔を浮かばせた。

「ヨリを戻してほしいの」
「え、誰と誰の?」
「今この場に誰がいるのよ。私と炭治郎の、よ」

俺が思わず口走った疑問に笑顔は一瞬で崩れ、眉間にシワを寄せさも不機嫌そうな表情を浮かべた。日本人とは違う美徳があるのかもしれないが、この子は可愛らしい女の子だと思う。だから、俺に拘る必要もないと思うのだが。そもそも、

「君、俺に飽きたって言ってなかったか?」

別れ際、なんか飽きちゃって、と悪びれもなくそう言われたのは数ヶ月前だ。今までそんなことを言われたことがなかったから自分はおもちゃのように飽きて捨てられるのかと、かなり胸が痛んだ。その時は。ボスさんに打ちのめされている真っ只中ということもあり、踏んだり蹴ったりだった。

「そうなんだけどー、でも今の彼氏にも飽きたの」
「今の彼氏っていうことは別れてないってことだよな?」
「後で別れるわよ。やっぱ炭治郎みたいな個性はないけど優しい方がいいかなーって、思い直したの!ごめんね」

片目を瞑り舌を出して謝るその子を前にして、無意識に溜息を吐いていた。それが気に障ったのか、頬を膨らませる。
生まれつき人の匂いでその人が何を思っているのか、細かくはわからないけれど察してこれた。それもこの子には特に役に立ったことはない。こうしてすぐに表情に出るから。

「戻さない。もう付き合わないよ」
「ええ!日本人なんだから流されなさいよ!」
「どういう意味だそれは……。そうやって日本人だから~って決めつけて人を判断するのは君の悪い癖だぞ」
「うるさいな」
「確かに傾向は多少あるかもしれないけど、その人じし、」
「あーもうお説教は良いって!本当そういうところ嫌い!」

だったら、なぜヨリを戻そうだなんて言ったのか。耳を塞ぐようにして首をブンブンと横に振っている。
思い返せば確かによくこの子の言うお説教、はしていたかもしれない。人をよく見かけで判断していたから。
ここでこんなことをしていたら出勤時間に間に合わなくなる、と一応行くぞと声をかけて止めていた足を動かした。

「ちょっと待ってよ!私の何が駄目なのよ、こんなに可愛いのに!」
「うん、確かに可愛いと思う。でも付き合わない」
「……~!!」
「、やめないか!」

一向に望む返事をしない俺に痺れを切らしたのだろうか、俺の前に立ちはだかり、背伸びをして挨拶のキスではなく唇を合わせようとして咄嗟にその口を手で覆った。
恋人同士ならこの国では人前でキスをしようと誰も何も思わないが、俺たちはもう恋人ではない。

「いい加減にしないと……」


ーーバシンッ


本気で怒るぞ、と、続けようとした言葉は、彼女の平手打ちによって遮られた。気持ちのいいくらいに街中で響いた音。
何をされたのかすぐに理解ができない俺にその子は言ってのけた。

「私の魅力がわからないなんて!」

最低!と、捨て台詞を吐いて店とは逆方向へ走って行ってしまった。ええー……。
呆然とその後ろ姿を見送っていると、知らないビジネスマンに肩を叩かれ憐れみと慰めの目を向けられた。

「あ、おい!」
「!なにっ?」

我に返り、じんじんと痛む頬を抑えながら後ろ姿に声をかけるとすぐに振り向いた。花開いたような笑顔をしている。澄んだ空気をす、と吸い込んだ。

「休むならちゃんと連絡入れないとダメだぞ!」
「……このクソ真面目!!」

悪態を吐いて、今度こそ曲がり角を曲がって去って行った。本当に、もう本当に散々だ。
平手打ちをする女性の魅力は多分、俺には一生わからないと思う。後、無断欠勤は良くない。言葉遣いも悪い。
俺の隣にいたお兄さんにどうも、と頭を下げ、一つ息を吐いて店へ向かった。

「おい炭治郎、あいつ毎日のようにシフト入ってたのに今日休みだってよ、なんか知ってるか」
「いやあ、ハハ……」

店について休憩スペースで着替えていると俺がここへ来てからずっと俺のことを見てくれているボスさんが不思議そうに俺に聞いてきた。どうやら彼女は無断欠勤ではなかったらしい。しっかり連絡はしていたようだ。言ってよかった。
仕事に就く前に、携帯の画面を明るくする。画面に設定しているのは家族写真。どんなに嫌なことがあろうとも、帰った時のことを思い浮かべて乗り越えてきた。だからきっと何とかなる。何とかしてみせる。
何故なら、俺は長男だ。妹も弟もここにはいないけど長男であることに変わりはない。

「よし!俺はやれる!今までだって頑張ってきた!今日も俺は、「おい炭治郎早く準備してこい!」はいすぐ行きます!」

帽子を被り、形見のピアスもメッシュの中へしまい込んでボスさんが呼ぶキッチンへ足早に向かった。

「炭治郎、今日あいついないから自分で試食配ってきていいぞ」
「え、本当ですか!」

窯から焼きたての香ばしい匂いが漂いそろそろお店の開店時間だということを知らせる。超有名人気店……とまではいかないものの、ここもかなりの人気店で、開店前には人が並ぶ。 普段、その人たちへ向けて待っている間に試作品を配るのだけれど、その役目は今日急に休みを知らせたあの子だった。
けれど、実際に自分が焼いたパンを美味しいと直接目の前で言ってもらえる機会はキッチンにいる限り早々ないので、喜んで引き受けた。
バスケットに一口サイズへカットしたパンを詰め込み、店の扉を開き爽やかな風が流れる外へ出た。

「あ、炭治郎くんおはよう~!」
「おはようございます!」
「炭治郎くんが配るの珍しいわねえ」
「担当の子が休みで」

周りのお店も所々開店しているようだった。薄い丸看板にアートが描かれたアンティーク風なお店や、黒板に白いチョークで本日のコーヒー、と記されている向かいのカフェはテラスで脚の細い椅子に腰掛け新聞を読む品の良さそうな男性もいる。
この地特有の景色の中でそれに紛れてパンを配っている自分がいるのは、今は少し笑ってしまう。

「炭治郎それ頂戴」
「炭治郎わたしにも!」

今はこうして、俺が作るパンを欲しがるお客さんたちも、開店して店に入ると多分、このパンのことなんて忘れてしまうのだ。
人気の名物パンもあるし、中に入り色とりどりのパンが陳列されていると誰だってそうなるのはわかるけれど。
美味しい、と、そう言ってもらえるのは本当に嬉しい。嬉しいのだ。けど、俺が考えたパンを、誰かに認めて欲しかった。

「美味しい」

何度も聞いているその言葉。けど、不意に聞こえたそれに声の主を辿った。
久しぶりに、日本語でその言葉を聞いたのだ。一番最後に並んでいた子だった。いや、並んでいたのかはわからない微妙な距離だったが、どうぞとバスケットを向ければもらってくれた子。日本人だとしても、この時間にここにいる人は元々こっちに住んでてフランス語が堪能な人たちばかりだったから、日本語が聞こえてきたことに思わずじっと見ていると、目が合った。

「ありがとうございます」

笑って、俺も母国語でそう返すと、その子も多分、さっきの俺と同じような表情をしていたと思う。瞬きを数回繰り返すその子の元へ歩み寄った。

「観光ですか?」
「……違います」

綺麗な子だと、素直にそう思った。多分、同い年くらいな気がした。なんとなく、仲間意識で折角だから色々と話したいと思って声をかけたけど、ぽそりと呟き目を逸らされてしまった。

「炭治郎そろそろ戻れ!」
「はーい!よかったら寄ってってくださいね!」

美味しいパン沢山あるので、と付け足し、店の中へ戻った。
でも、今日も俺が作るパンは店には並ばない。
花の都