珍しく、一日の始まりを知らせる目覚ましよりも早くに瞼が開いた。
ぼんやりする頭と体を起こし、充電器に挿したままの携帯で時間を確認すると、普段誰からもメッセージなんて送られてこない画面に一つ、入っていた。
送られてきた時刻は朝の5時27分。ブーランジェの朝は早いという印象を植え付けられた『おはよう!今日会えるか?』のメッセージに『会えます、おはよう』と簡素に応えて布団から抜け出した。

「ねーは好きな人いる?」

休み時間に、こうして女の子らしい和気藹々とした話をするのは久しぶりだった。
私も漸くクラスメイトと申し分ない会話ができるようになって来た頃、白を基調としたシンプルな教室の中心で異国の子達と談笑する。日本にいれば、こうして誰かに混ざって自分から話しに行くことなんてないと思うけど、ここは、会話をする理由がある。理由がある、というのは私にとって都合がよかった。なければ、誰かと楽しくお喋りをする、というのは少し苦手だった。

「え、好きな人?」
「うん、私はチャーリーがかっこいいと思うんだよね!」
「ダメ、やめた方がいいよ。あいつ街中でめちゃくちゃナンパしてるらしいよ」
「え、やめとこ」
「私はアルフィがいい!この前誰と電話してるのって聞いたら5歳の妹って言っててさ〜、あんなチャラそうなのにキュンとしちゃった!」

まるで修学旅行の消灯後のような会話だった。誰が誰を好き、とか誰にも言わないでね、とか。大学生にもなってそういう話をするとは思わなかったけど、愛に対してオープンだからだろう。
そういえば、この子たちが前にお兄さんのことを話していた気がする。そういう話題が好きなんだろうな、と二人の会話を聞いていると、で?と私に聞き返された。

は?どう?誰なの?」
「いや、私はそういう人はいないな……」
「えー、じゃあこういう人がいい!っていうのは?」
「ええ、なんだろう」

こういう会話をすることがなかった私は口籠もってしまった。漠然と、優しい人がいいとか、あまり怒らない人がいいとかはあるけど、そういうのは多分みんなも当たり前のように思っていることで、好きな人の特徴に、これ、というものはなかった。
考えていると、机に置いていた携帯の画面が明るくなる。メッセージがきていた。あちらも今は休憩中のようだ。携帯に手を伸ばして、画面の電源を落とした。

「ないの?」
「……家族思いの人は、私も素敵だなって思う」

『17時にあの公園の池のとこでもいいか?』と、時間と場所を知らせるものだった。
家族を思って、パンを作ったというお兄さんは素直に素敵な人だと思った。それを思い出して、クラスメイト二人へ呟くと、一人は目を丸くした。

「アルフィ?アルフィなの!?負けないからね!」
「いや、違うから安心して……」

物凄い剣幕で私の肩を揺らすその子へ手の平を向けた。フランス語が流暢になれるように、と思ってクラスメイトの輪に入っただけだけれど、こうして何もかも忘れて楽しくお喋りが出来ていることに、こっちへ来てよかったと感じた。

学校が終わって、前にジェラートを食べた公園に入る。大きい公園で観光地でもあるけど、普通に散歩をしに来ている家族連れも多い。
開けた道の両脇には等間隔にベンチがいくつも配置されていて、その奥のテニスコートやバスケットコートで汗を流している学生もいた。そこを通り抜け、美術館に展示されていそうな彫刻が至る所に設置されている広場に階段を降りながら出ると、まだまだ沈まない太陽の元、キラキラと眩く大きい池が広がっていた。
やることが特になく、早めに着いてしまったので鴨が泳ぐ池の際まで近づき縁に腰掛けた。家族連れが小さいヨットの形をしたものを池に浮かばせ棒でつついている。ほどよく吹く風が帆を張らせよく進んでいた。
日本で見ることはない風景だと思い、携帯のカメラを起動させた。ここへ来てから、パリの街並みの写真がフォルダに増えてきた。
増えれば増えていくほど、空っぽだった私の心の中を満たしてくれるような、けれど虚しさもどことなく感じていた。

「写真撮るの好きなのか?」

スイスイと水の上を進んでいくヨットにカメラを合わせて何枚か撮っていると、頭上から降ってきた声。手には缶コーヒーを持っている。隣に腰掛けながら私にそれを手渡したのでお礼を言いつつ受け取った。

「折角だから。私、一年しかここにいないので」
「そうなんだ!大学生だよな?何年生なんだ?」
「三年」
「じゃあ、年一緒だ!」

携帯を鞄へしまい、受け取った缶コーヒーの蓋を開けた。この前カフェで話した時に私がそのままで飲むか砂糖やミルクを入れるのか、判断してくれた上で買ってきてくれたのがわかった。何かを一緒に食べる時、とかで変わってくるけど、その気遣いがなんだかこそばゆかった。思えばジェラートもきっと、適当には選んでなかったんだなとコーヒーを一口飲んで思い返した。

はどうしてフランス語を勉強してるんだ?」

胸がどくりとした。嫌な方。こうして話していれば、いつかは聞かれると思っていたけど。そのいつかは来ないまま、お兄さんとの関係が終わることをどこかで願っていた。

「あ、教えたくないならいいんだ!」
「……?」
「そんな感じがして」

眉を下げながら、そう口にしたお兄さんに口をぎゅ、と噤んだ。どうしてわかったんだろうか。でも、私にとってこの人はいつも眩しい笑顔で笑っている向日葵のような人だったから、そんな表情をさせてしまったことにそこはかとない罪悪感を感じてしまった。
一度閉ざした口を薄っすらと開く。

「逃げてきたの、私は」
「逃げてきた?」

話し出す私にお兄さんは一度驚いた様子を見せた後、私の言葉を待った。貰った缶コーヒーを膝の上に置いて、お兄さんと目は合わせずに俯きながら呟いた。

「私はお兄さんみたいに夢があってここに来たわけじゃなくて、ただ、色んなことが嫌になっちゃっただけなの」
「……」
「やりたいこともないし、何か得意なことがあるわけでもないし趣味もない。お兄さんみたいに誰とでも仲良くなれるような人間でもないし、彼氏と思ってた人には何度だって裏切られるし。『夢もないつまらない人間だよね』って言われちゃったり」

ぽそりぽそりと、もし聞かれたら適当なことを話せばいいやと思っていたのに、つらつらと本当のことが喉から出てくる。聞いてて、楽しい話でもなんでもないだろうし、お兄さんのような人からしたら理解し難い生活を、私はしていたと思う。

「だから、自分を良く見せようと外見だけでも着飾って、わかってほしさにそういう人たち相手にする仕事をしてね。こうすればああしてくれるっていうのもそれで大体わかってきた。でも、全然本当の自分なんかじゃないのに、段々と馬鹿らしくもなってきちゃって」

風がそよぎ広場のカラフルな花々を揺らす開放的な空間には似つかわしくない話だ。遅い日の入りに、まだまだ太陽は元気に辺りを照らしていて、その下でこんな話をしている私だけが不恰好な存在だなと思ってしまった。

「私、何やってるんだろうなーってふと思って。誰も知ってる人がいないどこかへ行っちゃいたくなったの。みんなは多分、今頃就活をしてるけど、私はこっちに逃げてきちゃった。何もできないから、私は」

せめてもの償いで、取り繕った笑顔を見せた。
私の話はこれで終わり、と合図のように私は缶コーヒーをゴクリと飲み乾いた喉を濡らした。
かける言葉も、きっとないだろうし私はそれを望んでいるわけでもない。
何か他の話題を振ろうと頭を張り巡らせていたところ、隣のお兄さんは小さく呟いた。

「すまない」
「……え、何が」
「俺、前君に言ったよな。人を思いのままに動かすのが得意かどうかって。何も知らないのにそんな無粋なことを言って本当にすまない」

励まされるか、慰められるか。もし声をかけられるならば、そのどちらかと思っていた。けれど、隣でこの人は、ピアスを揺らして私にご丁寧に頭を下げている。
思わず唾をごくりと飲み込んで、私は謝るお兄さんを止めようとした。

「別に、何も悪いこと言ってないよ」
「いや、俺が悪かった!謝らせてくれ、すまない!」
「いや……」
「俺が悪い!!」

もう、このままでは土下座をされてしまうのではないかという勢いだった。
お兄さんの後ろで小さいヨットを泳がせていた家族連れ、小さい子供がこちらを見て目を丸くし口をあんぐりと開けていた。
顔は動かさずに視線だけで辺りを見回すと、ベンチに座り寛いでるカップルや夫婦たちまでもこちらを見ていた。

「わかった、じゃあ、そういうことで……!もういいよ、大丈夫」

その光景に居た堪れなくなり、一先ずそれを私が認めるとお兄さんは顔を上げてくれて、胸を撫で下ろした。それも束の間、お兄さんは膝の上にコーヒーを乗せる私の手に自分の手を重ねた。

は、何もできなくないだろう?」
「……」
「少なくとも、俺はに救われたし、そもそも何もできないんだったら、ここにも来てないんじゃないか?」

温かかった。コーヒーもそうだけど、お兄さんの手も、お兄さん自身も。
これは励まし、なのだろうか。お兄さんは私に眉を下げて笑った。

「俺、こっちに来るの結構悩んだんだからな?ふと思って来れたのはすごいことだと思う!」
「……何も考えてないだけだよ」
「でも、なかなかできることじゃない。がこっちに来てくれて、会えてよかった!」

私の取り繕った笑顔なんかじゃ足元にも及ばない眩しい顔で、お兄さんはそう話した。
こんなに穏やかに柔らかく、会えてよかった、なんて初めて言われた気がした。

「そんなこと言うの、お兄さんくらいだよ」
「名前」
「?」
「俺、名前教えたよな?炭治郎でいいぞ」

自分の知らないところで、きっとこの人は沢山の人を救ってきたんだと、名前一つでお兄さんとの距離感を気にしていた私に、池をすいすいと泳ぐヨットのように、萎れた私の帆を張って前へ進ませてくれるような、そんな気がした。

「炭治郎くん」
「うん!」

けれども、いつまでも降り注ぐその笑顔は私には眩しいままだった。