音色
「炭治郎」
「はい!」
「できたか」
「はい、もう少しで、」
「女」

昼のピークも過ぎ、次は夕方に備えて窯で焼きあがったパンへ仕上げを施していたところだった。思わず手を止めてボスさんを見れば、綿棒を片手にキッチン台へ身体を寄りかからせながら口元を浮つかせていた。

「え、」
「あの子か?日本人の」
「いや、違います!」

できたか、と問われればできていないから一先ずそれは否定した。この人に限ったことではないが、恋愛事情にはやけに勘が働くし、世話したがるのか俺が前まで付き合ってた時もやれどこへ行っただ誕生日はどうしただの、陽気に肩を抱いて聞いてくるものだからその度苦笑していた。
ハン、と鼻で笑うボスさんを横目に止めていた手を動かした。

「でも……」
「お?」
「あ、いえなんでもないです!」

ふと、こうしてついつい口走ってしまうから前もあれやこれやと世話を焼かせてしまっていたのだ。あまり言わないようにしないとこの人は多分、その子が店に来るたびいらないことを言いそうだ。
仕上げたパンを店に並べてもらい、お疲れ様でしたとキッチンを出た。
現状、気になる子がいる、というのが事実。勿論それはのことで。
連絡先を教えて貰ってから、数回会ってたまに電話したり、そんな関係が続いていた。池で話した時以来、はあまり自分のことを話そうとしないから俺がほとんど話しているだけになっているけど。
ただ、多少なりとも人となりが見えてきた。は親戚の家に住んでいるらしい。だからカタコトであるけど元々少しはフランス語が話せたとか。
俺よりフランス語の覚えが早いことを聞けばそう話してくれて腑に落ちた。でも、それに便乗して家族のことを聞いたのは地雷だった。反抗してでてきた、と言っていたから。
自分で稼げるだけ稼いだお金はもうゼロに近いと苦笑していた。
もっと色々知りたいけど、難しい。

「あ、炭治郎」

着替え終わって裏の入り口から出て行こうとしたところ、呼び止められた。さっき俺が仕上げたパンを補充していたのか、手にしているトングにはパンが挟まれたままだ。

「さっきの話だけど」
「さっきの?」

俺は今日、この子と何か込み入った話をしただろうか。思い起こそうと眉間にシワを寄せる俺に、パンが挟まれたままのトングを俺へ向けた。

「好きな子でもできたわけ?あの日本人?あの女、誰。何者」

矢継ぎ早に言葉を口にする。接客している時のキッチンまで聞こえる明朗快活な声色は皆無だ。

「何者って……」
「私炭治郎のこと諦めてないからね」

トングを更にずい、と俺に近付けた。焼きたての香ばしい匂いが鼻を掠める。我ながらこれも上手くできたな、なんて場にそぐわないことを考えていた。
何も言わない俺にトングで挟んでいたパンを手に取り一口齧り付く。落としたらどうするつもりだと頭に過ぎらせていたが、自分で食べる用だったらしい。

「美味いか?」
「うん、美味しい……、じゃなくて!」
「君は俺に飽きたんだろう?」
「でも炭治郎が他の人を見るのは嫌なの!」

俺のことが好きで付き合ってほしい、と言っているわけではないことはわかっていた。匂いがそうだった。実際、この子は俺のことが好きだからもう一度付き合ってほしい、とは一言も口にしていない。自分は好きではないけど俺には好きでいてほしいんだと、多分そういうことなのだろう。
すみません、と店内でお客さんが呼んでいる声が聞こえて、店へ戻るよう促して俺も店をでた。
白い格子状の窓が均等に設置されたクリーム色の建物が続く道を抜け、大通りに出る。この辺りで、そういえばあの子に平手打ちをされたのを思い出した。心の中で苦笑しながら駅まで歩き、いつもとは逆方向の電車へ乗る。
今日会えるかどうか聞けば、今日は無理だと言われた。理由を聞けば、コーヒーを売りにいく、と文面からでは一瞬で理解できない内容が昼間に届いていた。場所を聞けば退勤した時には連絡が返ってきていたからその場所へ向かっていた。
会えるかはわからなかったが、その駅へ降りて改札を通り外へ出ると、コーヒーを売る、の意味が漸くわかった。
駅前の広場には調理施設を備えたフードトラックが立ち並び、よく耳にする名店のサンドウィッチやワッフル、肉料理までもが売られていた。
こっちへ来てからというもの、観光目的で来ているわけではなくこういうものには無頓着だった。クレープを手にしながら歩いている近くのカップルの会話を聞いていれば、今日はそういうイベントの日らしい。
中途半端な時間なのが相まってか、思ったほど人はいない。ランチの時間は凄そうだが店仕舞いを始めそうな雰囲気の店も見て取れた。
コーヒーを売っている、と言っていたからそれっぽい店を探していると、暇そうにカウンターで頬杖をついている姿を発見。



コーヒーの匂いを辺りに充満させる黒いトラックに白いカウンターで仕切られた小さいキッチンカーだった。名前を呼ぶとは一度肩を震わせ、肘をついていたカウンターから背筋を伸ばし俺へ顔を向けた。

「お疲れ様!バイト始めたのか?」
「うん、貯金ゼロなので」

ゼロに近い、と前話していた貯金はもうゼロになってしまったらしい。
学生だし、家は親戚の家だしでそんなにお金を使うことはないんじゃないかと思ったけど、女の子だから多分、色々あるのだろう。
禰豆子も高校生になった辺りから休みの日には化粧をするようになっていたし。

「後、カフェで働くの、ちょっとおしゃれだなって思ってたんだよね」

先ほどまでが肘をついていたカウンターには、このトラックを出している店のカードが束になって四角い箱に入っていた。
どこか遠い場所を見つめながらそう話すに、日本にいた頃より少しはこっちでの生活が楽しめていることが感じ取れた。匂いが穏やかだ。
店のカードを一枚とって、に一つ注文する。

「一杯もらってもいいか?」
「飲んでいくの?」
「ああ!」

頷く俺には大層驚いている。の中で、俺はどういうイメージなのか疑問になったけど、紙コップに手際良く並々注がれたコーヒーを受け取った。
それからどこへ行くわけでもなく、その場でコーヒーを飲みながら今日あったボスさんネタを話していれば不意に聞こえてきたハーモニカのような音色。
音のする方へ視線を向けると、ハーモニカではない、アコーディオンだった。
音楽は詳しくないけど、辺りに響き渡る音はその場を更に彩ってくれるようで心地良かった。
話をやめて、表現豊かな音色を奏でるそれを聞きながらちらりとを見ると、とても自然な、柔らかい笑みを浮かべていた。

「……?」
「、!」

思わずそれに見入ってしまい、俺の視線に気付いたと瞳が合わさるが、あからさまに逸らしてしまった。心なしか顔に熱が走っている気もする。
ボスさんが変なことを言うから、意識してしまった。
いや、別に変なことでも、ないかもしれない。

「いいよな!ああいうの」

折角アコーディオンの演奏で麗しげな雰囲気だったのに、気まずい空気が流れそうだった為声高に演奏者を指差した。後、顔を見られない為でもある。

「うん、ここは夢で溢れてる人で沢山だね」

儚げだった。が見せる表情は、こればかりだった。
もっと、心の奥底からの笑顔を浮かばせてほしい。そんな表情が見たい。俺はアコーディオンはできないから音楽でにさっきのような表情を出させることはできないけど、それでも俺がのことを笑顔したいと、そう思った。

にだってできるよ」
「……」
「いや、夢を無理やり作れって言ってるわけじゃないからな?」

何もない、と言っていたけど、多分、諦めてるわけじゃない。なんとなくそう思った。なんとなくだけど、合ってると思う。
は俺を見てふ、と息を吐いてあそこ、と指をさした。駅前の広場の中央辺りで絵を描いている画家だ。

「すごいよね。後、あの人も」

そこから少し指をずらし、今度はフードトラックの写真を何枚も撮っている写真家を指差した。

「すごいな、私にもできるかなって、思いはするんだよ。でも、すぐ諦めちゃう。どうせ私には無理だからって。つまらない人間なの。だから夢を追ってる人は素敵だなって思う。炭治郎くんも素敵人だなって思ってるよ」

淡々と続けるを見て、つまらない人間だよね、と言われたと前にも話していたことを思い出す。ただ、は諦めてはない。見つけられていないだけだ。そして、見つけたいと思ってる、この子は。

「自分のことを、そんな風に言ったらダメだ」
「……そんなことを言われても、」
「夢を持ってない人が素敵じゃないってわけでもないと思う!それには綺麗だし、十分魅力的な人だよ」

思ったことをそのままに伝えると、面を食らったように目を丸くして瞬きを繰り返す。それからほんのり頬を染めて俺から目を逸らした。

「これは繕ってるの。見た目だけでも、って。化粧ってすごいんだよ」

バイトの理由は、こういうところなんだろうなと察してが零すぼやきに目を細めて無意識に笑みを浮かばせれば、そんな俺に口を尖らせ複雑そうな面持ちを見せた。

「ていうか、この話の流れで外見だけそんなこと言われても嬉しくない」
「うん、俺のことまだよく知らないから」
「……」
「だから、知っていきたいな!」

俺が聞くんじゃなくて、今のようなすぐ諦めてしまうとか、そういう話でもいいから、からもっと話してほしいと思った。

「……炭治郎くんって」
「なんだ?」
「人タラシってよく言われない?」

そんなこと言われない、と口にしようとしたけど、言われたことがないわけではなかった。ぐ、と喉奥で堪えるとはそれに気付いてほんの微かに笑った。
音色