タルト
大きな水出しコーヒー抽出器がカウンターを飾るカフェで働いていた。
学校からも程近く、治安も気を付けていれば悪くない。パリで何かしらのイベントがある日はこの前のようにキッチンカーを出し外でコーヒーを出すこともあるらしいけど、それがイレギュラーだっただけで普段はこうして木の温もりが落ち着いた雰囲気を演出するアットホームなお店で接客をしていた。
夫婦で経営しているこのカフェのマダムはとても気さくなバリスタだった。

「ほら、できた」
「わ、すごい……」

お客さんもまばらな昼下がり、いつもオシャレなラテアートを描いていて、じいっと見つめていれば一杯飲む?何を描く?と言われたので、咄嗟に思いついたものを口にすれば、キャラメル色のラテに綺麗にミルクスチームで向日葵が描かれていた。
飲むのが勿体無いと思うほどに繊細なこのアートはSNSによく載せられているらしい。

ちゃん、向日葵好きなの?」
「え、えーと……、はい」

控えまに白いマグカップに口をつけてラテを口にすると、マダムのマリーさんが私にふふ、と口元を抑えながら上品に聞いてきた。
一度目を泳がせてしまいながらも頷いた。正直、折角だから何か好きなものを……、と考えたけれど咄嗟に思い浮かぶものもなく、それどころかものでもない人がでてきてしまったのだ。
私にとっては眩しいその人を連想して、向日葵と答えた。流石に、随分と影響されてしまっていると胸の中で嫌な汗をかいていた。
綺麗だ、なんて。今まで、何回かは言われてきたことはあるけど、それは社交辞令であって。それなのに、その人にはどきりと胸が音を立ててしまった。
それだけでなく、あんなにストレートに魅力的だなんて言う人も初めてだった。
でもそれを、きっとその人は色んな人にも言っているのだろうと思えば、胸が痛くなる、そんな穏やかでない毎日を過ごしていた。

「あ、お客さん。いらっしゃいませ~」

ガラス張りで外の景色がわかる開放的なこの空間は、お客さんがお店に入ることがすぐに見てとれる。
日本のようなサービス精神たっぷりの接客はいらないと言われたけれど、それでもアットホームなこのお店ではお客さんを大事にすることには変わらないようで、マリーさんは今入ってきたお客さんへ向け笑顔を向ける。遅れて私もそちらを見れば、目を見張った。

「やあ!」
「いや、やあ、じゃないよ、なんで知ってるの」

透明な扉をカランカランと音を立てて入ってきたのは、私が今まさに向日葵を描いてもらう由縁となった人だった。
はい差し入れ、と見たところ三つくらいパンが入っていそうなベーカリーの紙袋を私へ差し出す。

「この前コーヒー出してた時、お店のカードが置いてあったじゃないか」
「……そっか」

カウンター越しに炭治郎くんは何食わぬ物言いをする。
学校が近いこの場所は、つまり炭治郎くんが働くベーカリーも近くて、来ても不思議ではなかったけど、タイミングの悪い突然の来訪に私は口をぎゅっと噤んで瞳を伏せた。
その様子を見たマリーさんは不思議そうにしながらも炭治郎くんへ是非ラテを飲んでいって、と勧めて炭治郎くんも是非、と答えていた。
おぼつかない手つきで私が会計を済ませると炭治郎くんはお礼を言って空いている席に腰掛けた。

ちゃん」
「はい、」
「恋人?」
「ちっ、違います」

おそらく聞かれるとは思っていたのに、マリーさんはカップにエスプレッソを淹れながら私に尋ね、あからさまに動揺してしまった。これでは、意識しているのがバレバレだ。
くすくすと笑みを零す傍で、私は火照る頬をなんとか冷まそうと両手で抑えていた。

ちゃん」
「なんでしょう……」

もうこれ以上掘り下げないでほしい。炭治郎くんが座っているところの死角に入りマリーさんの手つきを凝視していれば、顔をこちらへ向けにっこりと微笑んだ。

ちゃん描く?」
「え、いやいや、できないです」
「ここまでやったから、文字ならできるでしょう?」

面白そうにしていた。マリーさんの手元にはミルクが注がれ中央に楕円が描かれている状態。ここから何を描いても、味が変わるということはない。
ちらりと私は炭治郎くんが見えるところへ移動して様子を覗けば、真剣な表情を見せながら携帯の画面をスクロールしていた。何かの勉強をしているのか、まじまじと見ていれば、視線に気付いた炭治郎くんがこちらを向いたので、私はまた死角に逃げた。

「ほら」

マリーさんは私にピックを差し出す。時間を置くのはあまり良くないと一丁前にそんなことを思った私はピックを受け取って、文字を綴った。

「あら、いいじゃない」
「当たり障りのないもので……」
「そうなの?」

描いた文字は『Amour』だった。愛。太陽を意味するのも一瞬頭を過ったけど、私の中の炭治郎くんのイメージを本人へ提供するものに描くのは抵抗があった。私の中では、これが当たり障りのない、この国らしい言葉だと思ったのだ。
マリーさんは私に首を傾げる。

「彼が好きなんじゃないの?」
「えっいや、」
「違うの?」

ニコニコと穏やかに笑うマリーさんに悪気はない。ただ、そんな人へも丸わかりなように私の炭治郎くんへの思いが漏れてしまっているのだ。
好きかどうか、は、まだわからないことにしておきたい。……まだってなんだ。
それもこれも、この前私の心を揺さぶるようなことを言った炭治郎くんのせいだ。炭治郎くんは優しいからこそ、私はその気にはなりたくなかった。
お出ししてきます、と呟いて私はカウンターから出て炭治郎くんの元へ向かった。

「どうぞ」

口元に手をあて携帯をじっと見つめている炭治郎くんが座るテーブルへ静かにカップの乗った丸皿を置いた。
私に気付いた炭治郎くんは携帯から目を放し私へ視線を送る。

「ありがとう!美味しそうだな」
「美味しいよ」
が作ったのか?」
「ううん、私は文字だけ」
「そっか。それ、ここの制服だよな?似合ってる」
「……、ありがとうございます、では」

どうしてそういうことがすんなりと、面と向かってこの人は言えるのか。恥ずかしさに居た堪れなくなり、ラテの文字にも深掘りされたくなかった私は颯爽とカウンターの死角へ逃げた。
今日はお客さんが本当に少ない日だった。ブラウンの店内は炭治郎くんの他に二組のお客さん。とても上品な夫婦と、ビジネスマンが一人だけ。そんなこともあってか、マリーさんは私を呼んだ。

「これ二人で食べていいわよ」

ショーケースから取り出したのは、フルーツが宝石のように散りばめられたタルトだった。まな板の上に置いてカットされるタルトに、やった、なんて思いながらサイズのちょうど良さそうなお皿を選び脇に置いた。

「さ、どうぞ」
「え?」
「あの彼と」

フォークを用意して、さあ食べましょうと準備ができていた私にマリーさんは頬を綻ばせていた。対して私は持っていたフォークを落としそうになった。

「二人って、」
ちゃんとあの彼に決まってるでしょ、もう」

差し入れもくれたんだから、と。それはわかるのだけれど。二人って、てっきり私とマリーさんのことかと思っていたのに、見当違いだった。つくづく、この人は愛というものが好きなのだと目の当たりにした。この人に限ったことではないのかもしれないけど、もしかしたら私はこれからこの人に炭治郎くんのことを根掘り葉掘り聞かされてしまうのではないかと、そんな予感さえした。
もう切ってもらってしまったからには食べないわけにはいかない。
持っていたスプーンをお皿の上に乗せ、再び私は炭治郎くんの元へ歩み寄った。
先ほどまで真剣な表情をしていた炭治郎くんだけど、今はテーブルに頬杖をついて携帯の画面を見ながら目を細めて小さく笑っていた。何を見ているのか気になったけど、構わず私はテーブルへタルトの乗ったお皿を置き、私も向かいの席へ座った。

「二人で食べていいって」
「えっいいのか?」
「うん」

一瞬驚いた炭治郎くんだけど、私が頷くとカウンターにいるマリーさんへありがとうございますと会釈をしていた。礼儀正しい人だ。私の中の炭治郎くんがどんどん神格化されていく気がした。お陰様で、私にはほど遠い人だとも思い知らされる。ぐるぐると複雑な思いが頭の中をはり巡る。そんな、考えたってどうしようもない、どうともならないことなのに。
フォークを手にしてタルトの先の方にサク、と切れ目を入れた。

「……何かあったのか?」
「?」
「匂いがした」

甘酸っぱい味が口いっぱいに広がる。私にはこの採れたてフルーツの匂いしかしないのだけれど、顔を上げて炭治郎くんを見れば眉を下げ首を傾げていた。

「匂い?」
「俺、匂いでわかるんだ。人が喜んでるのとか怒ってるのとか」
「へえ……」

不思議には思ったけど、なんとなく、疑いはしなかった。確か、池で話していた時。私が自分のことを話したくないと思っていたら炭治郎くんは見透かしたように話したくないならそれでいいと言っていた。だからそういうのがわかるのだろうと、納得した。

「匂いでわかるって、どんな感じなの?」
「えっどんな感じ?そうだな……」

何かあったのか、の質問には答えずに、今気になったことをそのまま問いかけた。
炭治郎くんは眉間にシワを寄せて真剣に考えてくれている。

「ふわーっと香ってくる」
「ふわーっと?え?」
「すーってきて、ふわふわー、って感じだ!」
「……ふっ、」
「なんで笑うんだ!」

随分と悩んでくれたから、もっと具体的な言葉で返ってくるのかと思ったけどあまりにも抽象的で思わず吹き出してしまった。

「説明下手くそ」
「……よく言われる。でも笑ってくれてよかったよ!」

口元を抑える私に、炭治郎くんは満面の笑みを見せた。一瞬だけしかその笑顔は見れそうもなくて、私はひたすら甘酸っぱいタルトを頬張っていた。
タルト