学校周りの散策も最近は土地勘が理解できるほどに詳しくなってきた。たまにバイト先に朝早くに顔を出してコーヒーを飲み学校へ行くのもルーティーンになりつつある。
「ねえ、彼が持ってきてくれたパンとても美味しかったわね」
暖房の効いた店内でコーヒーを飲む私にマリーさんが微笑みかけた。炭治郎くんが前にふらっと現れて差し入れに持ってきてくれたパンは、マリーさんのお気に入りになったようだった。
「
ちゃん、今日バイト前に買ってきてくれるかしら、同じの」
今日は学校終わりにバイトが入っている日だった。ここのところ、炭治郎くんが働くベーカリーを横切りはするものの中へ入ることはなかった。ガラス張りの店内をちらりと見るといつもあのマカロンみたいな子が愛嬌たっぷりの笑顔を振りまいて接客をしていることだけは知っていた。
マリーさんにお願いされたことで私は学校終わり、ほど良く人が混み入っているベーカリーに足を踏み入れた。勿論店内にその姿は見つからない。
焼きたての香りが鼻を掠める中で炭治郎くんが持ってきてくれたパンを選び、お会計をしていると、あ、という声が傍から聞こえてきた。声のした方を向くと、バスケットにパンを詰めているマカロンちゃんがこちらを見ている。
話したことはないし、なぜ今私と目が合っているのか定かではないけど一応会釈をすると、にっこりと笑みを浮かばせる。
「炭治郎に会いに来たんですか?」
「いや、そういうわけでは、」
「炭治郎は今日休みです!」
流暢な日本語に一瞬固まってしまった。
会えるだろうか、そんな期待をしていなかった、と言えば嘘になる。少ししていた。けれど、そんなことを思ったところで意味はなかったようで。
お会計を担当しているスタッフさんにその会話は勿論通じておらず、不思議そうに私とマカロンちゃんのやり取りを見ている。後ろが詰まってしまうので私はパンを受け取り、作り笑いをしてお店を出た。
日が沈む前には閉まるバイト先のカフェを後にして住宅地に聳えるマンションの一室に戻る。
実の娘のように接してくれる伯父さんと叔母さんがいるこの空間が心地良かった。
学校も、バイト先も家も、全てが私の心に暖かい光を降り注いでくれる。一年と言わず、ずっとここにいたいと思うくらいにはこの場所が好きだった。
ーー~♪
ただ、そんな中で私の胸を騒がせるものが一つあった。部屋の白いテーブルに無造作に置いた携帯が鳴り響いた。画面にはその人の名前。何度か電話しているけど、鳴るたび徐々に私の胸もうるさくなってしまっている気がした。
「もしもし」
「お疲れ!」
携帯を手に取り通話ボタンを押し、耳にあてがりながらベッドに腰を下ろした。
電話越しに聞こえる声は今日もいつも通り、温かい。私の胸も、いつも通りに戻ってほしい。
「炭治郎くんもお疲れ様……でもないか、今日おやすみだもんね」
たまにこうして炭治郎くんからかかってくる電話では、炭治郎くんがお店であったこととか今日はこういうパンを作った、とかそういう話が多かった。たまに話の合間に私のことをそれとなく聞いてきたりする。私は炭治郎くんの話を聞いているのが楽しいけど、私の話を聞くのが楽しいと思ってくれているのだろうか。一言二言返して終わってしまうけど。
「ん?」
「え?」
「今日普通に働いてたぞ?」
「え、でも休みって聞いたよ」
「店来てくれたのか?」
「うん」
携帯越しにくぐもった声が聞こえたと思ったら、どうやら今日は出勤だったようで。ただ、キッチンは広くて誰がその日に出勤しているかは販売スタッフの方からして見ればすぐにはわからないみたいで誰かが勘違いしたんだろうな、と炭治郎くんは零していた。
なんとなく、あのマカロンちゃんは炭治郎くんが出勤しているかそうでないかは把握していそうだと思っていたけど、掘り下げることでもないのでそれ以上深くは聞かなかった。
それより、と炭治郎くんは話を切り出す。
「俺、
に聞いてなかったことがあって」
「なに?」
「彼氏は?」
「彼氏?」
聞き返す私に炭治郎くんはうん、と短く返した。家族のこととか、前に聞かれたことがあったけど、次は彼氏か。でも家族のことを聞かれた時よりもじんわりと胸の奥底が火照るような気がした。
部屋の壁に掛けられた時計の秒針がカチカチと、私を急かしているように聞こえた。
「いませんけど」
「そっか!」
「え、いそうに見えた?」
「いや、見えなかった!そんなようなことも話していたし。でもちゃんと確認しておこうと思って」
はっきりと口にする炭治郎くんに少し失礼なのではと思ってしまったけど、炭治郎くんだけではなく誰が見ても今の私と関わればそういう人がいないということはわかるだろう。
彼氏がいるかどうか聞かれただけなのに、意識してしまっている自分がなんだか恥ずかしくなってしまった。
心底、電話でよかったと思った。匂いで色々と、バレそうだ。心を落ち着かせるために、腰掛けていたベッドへ寝転んだ。それと同時に、炭治郎くんの方から、あ、と何かに気付く声が聞こえる。
ベッドに寝転がったのが音でわかったのかと思えば、違った。
「ご飯が炊けた!」
「……え?」
「ん?」
「ご飯食べるの」
「普通に食べるぞ」
日本人なんだから、と付け足した。確かに食べてもおかしくはないけど、わざわざ家に炊飯器を用意して炊くほどだとは思っていなかった。こっちへ修行までしに来るようなパン職人だし。
「でもパン派ではあるよね?」
「俺はご飯派」
「…………」
「そんなに驚かないでくれ」
「なんでわかったの、電話越しなのに」
「反応がないからわかるよ」
笑いながら炭治郎くんは口にした。パカ、とおそらく炊飯器を開けた音がする。
ベーカリーで働いているのに、実家がベーカリーなのにご飯派とは思ってもみなかった。炭治郎くんは家族のこととか、友達のこととか色々教えてくれたけど今のところ今日聞いたこの話が一番衝撃をうけた。
「
はどっち派だ?」
「……秘密」
「ええ!」
驚かせた仕返しというわけでもないけど、なんとなく。炭治郎くんはなんで、どうして、と騒ぎ立てている。それが少し面白くてそのままにしていると、扉の向こうから私を呼ぶ声が聞こえた。夕ご飯ができたらしい。すぐに行くと返すと会話が聞こえていたらしい炭治郎くんはいいな、と呟いた。
「俺一人だから、家族多かった分寂しくなるよ」
「いつも一人なの?」
「最近は」
最近は、ということは、前までは一人ではなかったと、この地で彼女がいたのかと推測してしまう。炭治郎くんのような人に、いない方がおかしいとは思うけど。
ぐつぐつと嫌な感情が胸の中を沸き立たせる。
「じゃあ、今度……」
「……」
「一緒に……、」
無意識だった。沸き立つ感情をそのままに口走っていた自分の声に我に返る。何を、誘おうとしてしまっているんだ、私は。
私から会いたいと伝えてしまっているようで、炭治郎くんの反応がないのも相まって、顔から火がでそうであった。
「ええと、」
「うん、行こう!誘ってくれてありがとう」
炭治郎くんにとっては特段おかしなことでは、ないのだ。私だけこうして意識して、そういう意味で解釈してしまって、勝手に胸を焦がしている。
嬉々とする炭治郎くんの表情を思い浮かばせながら、じゃあまた、と電話を切った。
深く溜息を吐いてから、私はクリームシチューの香りが立つダイニングへ向かった。ああ、このメニューなのは、私がパンを買ってきたからだ。電話を切ったのに、夕食も私は落ち着かなそうだ。
「話があるんだけど」
次の日、バイト終わりにライトグレーの枠で囲われたガラスの扉を開けて駅まで歩く中、見覚えのあるシルエットが私を待ち受けていた。
赤いワイシャツは着ていないけど、その可愛らしい顔立ちは鮮明に脳裏に焼き付いている。マカロンちゃんだ。
「なんでここ、」
「炭治郎の鞄漁った」
「そんなことしちゃダメだよ……!」
カフェを出てすぐだったから私のバイト先がわかってここで待っていたことがわかる。薄暗くなってきた街並みにはオレンジ色の街灯がポツポツと灯り始めていた。
「そんなことはどうでもいいの!」
「いやいや、」
「炭治郎のこと好きじゃないなら、ハッキリとそう示して」
よくベーカリーで見る愛嬌たっぷりな笑顔のえの字もなかった。私に捲し立てるマカロンちゃんは目をキッとさせ私を睨むような視線を送る。
「日本人ってほんとハッキリしない性格なんだから。イライラする」
「……」
「そういうのよくないと思うよ。炭治郎にも、もちろんあなたにもね!」
ずい、と顔を寄せて私を指差した。思わず一歩後ずさってしまう。綺麗な青色の瞳には口を閉ざす私が映っている。
「好きなの?どうなの?」
「いや、まだわからな、」
「わからないなら会っちゃダメよ。男だったら『この女期待させといて!』ってなるよ?」
「……それは、炭治郎くんが私のことを好きな場合だよね?」
一瞬、この子が言うことに確かに、と納得させられてしまいそうになったけど、前提に気付いてそう口にすると、ぐ、と一度押し黙るような仕草を見せた。
それからフン、と顔を逸らす。
「炭治郎が優しいのはもうわかってるでしょ?炭治郎はあなたにそういう気はないから!」
「……」
「あなたが好きになっても脈はないってこと!傷付くのはあなただからね。炭治郎には私から言っておくよ!そうやって所構わずたぶらかすような真似するなって」
まるで誰彼構わず炭治郎くんが私のような人に対し同じように接しているような言い方だった。優しいから、そうであってもおかしくはないとは、思うけど。
何も答えない私との間に不穏な空気が流れる。それを破るかのようにマカロンちゃんの懐から洋楽が聞こえてきた。誰かからの着信らしい。
「あ、彼氏だ」
「え」
「なによ」
「なんでもないです……」
目を細めて私を見ながら、じゃあそういうことで、と私に背中を向け電話に出ながら歩いていった。炭治郎くんのことが好きなわけではないのかと疑問を抱きながらも、電話の相手にはフランス語で話しているその後ろ姿を眺めながら、やっぱり流暢な日本語を話す子だなと思った。
電話