「お先です!」
前日の夜に、シフトを遅番から早番へ変更して貰えて心の寛大さと柔軟さに本当に、心から感謝しながら裏口から店を出た。
すっかり葉が少なくなってしまった木が植えられる人通りの多い通りを抜け、地元の人しか知らないような小道に入りライトグレーの看板の店を眼前にする。
ガラス扉を押してカランカランと鈴の音を立てながら入ると、その音に反応して振り向いた
と目が合った。カウンターにいる
は一瞬体を硬直させてすぐにいらっしゃいませと呟いた。他人行儀だ。
聞きたいことがあるけど、今日は前に来た時よりも人が多かった。
「ご注文は」
「前と同じので」
少し忙しいようで、マリーさんもこちらのやり取りには目を向けずにコーヒーを淹れていた。深い香りが店内に充満している中で、ほんの微かに苦い匂いが香ってきた。コーヒーではなく、
からだ。
本当に俺は、気付かない内に
に何かしてしまったのだろうか。聞き出したいけど今聞けるような店の状態でもなく、注文を済ませてカウンター近くの席に座った。
頼んだカフェラテを持ってきたのは
ではなく、マリーさんだった。そうまでして俺は避けられているのかと胸にグサリと刺さったが、どうやらマリーさん自ら来たようだった。
「今日
ちゃん早めに上がらせるわね」
何かがあったのだろうと察してくれたのか、マリーさんは頬を綻ばせながら俺に耳打ちした。
混んでいるのに悪い気がしたけど、段々と空いている席も多くなり店内にいるのは本を読んでいる男性と俺くらいになった。
カウンター近くに座っているけど
はほぼ見えない位置にいて様子も窺えない。
マリーさんが言ってくれたように、
の退勤を待っていれば、お疲れ様ですという
の声が落ち着いた洋楽にのって聞こえてきた。
姿が見えなかった
はカフェの制服から私服に戻って、俺の横を通り過ぎていく。
「……いや、ちょっと待ってくれ!」
思わずガタッと椅子の音を鳴らしながら立ち上がり引き止めれば、
は扉にかけていた手を止めた。
本を読んでいた男性もこちらを見ているのが視界の隅に映る。
「どうして何も言わずに無視して出て行こうとするんだ」
声のボリュームは少なからず下げて、
の元まで歩み寄って扉にかけていた手首を掴んだ。
俺を見上げた
の瞳が揺れる。
「だって、私に用があって来たわけじゃないでしょ……」
「用しかない」
「……お金?」
「え?」
何を思ったのか、
は俺が掴んでいた手を軽く振りほどいて鞄から財布を出した。お金って、何のことを言っているのか一瞬理解に苦しんだけど、夕食の時のことだと察してその手を慌てて止めた。
俺が掴んだ手はまたも振り払われる。あれだけずっと繋いでいたのに、もう触れるなと言われているようだった。
「じゃあ、なに」
「連絡、すぐに返せなかったのはすまない。でも怒って俺からの連絡を絶ったのはそれだけじゃないよな?俺、
に何かしたか?教えてほしい」
から会いたいと言ってくれたのに、すぐに返せなかったから多分、不安にはさせたと思う。けどそれが理由で連絡を絶ってしまうような子ではないことはわかっている。
もし俺が知らない内に傷付けてしまったのであれば、謝りたい。本来そういうのは自分で気付くのが一番だと思っているけど、情けないことに理由がわからない。
聞き出そうとする俺に、
は眉を下げて困惑したような表情を浮かべる。
「……ここだと、ちょっと話し辛いな。公園でもいい、どこか、」
「なんで」
もうクローズの時間だとはいえ、店の入り口でこんなやり取りをしているのは好ましくない。
場所の移動を試みれば、
は俺から一歩下がり距離をとった。
二人になんて、なりたくないのだろうか。
「もう会わないって、私に言ったでしょ」
呟いた
の一言に耳を疑った。理解ができずに
をただ見ていることしかできない俺に
は出て行こうと再び扉に手をかけるが、引かせまいと
の手には触れず開こうとした扉を手の平で抑えた。
「すまない、連絡できなかった時に誰かからそう聞いたとかか?」
「……自分で言ったんじゃない」
「…………」
「…………」
神妙な空気が
との間に流れる。俺、そんなことを言っただろうか。全く身に覚えがない。当然だ、そんなことは思ったことすらないのだから。
も
で困惑している俺の様子を不審に思ったのか、手にしていた財布を一度しまい、代わりに携帯を取り出し画面を俺へ見せた。
「……本当だ」
画面に映っているのは俺とのやり取りだった。俺はもう新しく登録し直してしまったからそのやり取りを遡ることはできないけど、そのやり取りの最後にしっかりと俺から『もう会わないから。店にも来ないでほしい』というメッセージが表示されていた。
「送ってない」
「……」
「これは送っていない!俺じゃない!いや、なぜか俺から送られていることになっているけど……会わないなんて思うわけない!」
必死に弁解する俺に
は瞬きを繰り返す。と、同時に苦い匂いが和らいでいくのがわかった。
もう一度
が手にしている携帯の画面をちゃんと見て、メッセージが送信された時間を確認する。俺が休憩時間を終えて二階の休憩室から出て行った後だ。
「すまない、これは多分、うちの店の子の仕業だ……」
「……」
「そうだ、
と話したことがあるとは言っていたけど、いつも店にいる販売の子で」
「……あ、前に炭治郎くんの鞄を漁ったって言ってた」
思い出したように話す
に小さく溜息を吐いて扉を抑えていた手を放した。誤解は解けたからもう俺から逃げるようなことはきっとしないだろう。
どこか場所を変えるつもりだったはずが結局ここで話し込んでしまった。
少し安堵して胸を撫で下ろしたのはよかったが、
は目を細めて俺を見据えた。ほんのりと苦い匂いはまだしている。
「ロックかけてないの?」
「……いや、かけてるけど、」
「わかりやすいの?誕生日?」
「いや……」
「……」
「…………前に、付き合ってて。それで教えて、変えるのを忘れていて……」
あまり、前付き合っていた子の話とかはしたくはなかったから徐々に声が小さくなっていってしまう。わかりやすいパスコードにしているつもりもないから、難なく俺の携帯のロックを解除できたのは、前に教えたことがあるからだ。私に隠し事はなしだよ、と、今思えば上手いこと言いくるめられてパスコードを教えた記憶が蘇る。すっかり忘れていたことに自分を殴りたくなった。
あの時、俺から逃げるように更衣室へ去っていったのは俺に嘘を吐いていることが匂いでバレたくなかったからだ。
「ふーん……」
怒っている匂いは
からはしなかった。ただ、苦い匂いはうっすらと続いている。怒ってはいないものの、扉の向こうの薄暗くなった外の景色を見ながら口を尖らせているのは、そういう意味で捉えていいのだろうか。
いや、きっと杜撰な俺の管理に情けなく思われているだけだろう。こんな時に嫉妬なんてとてもじゃないがありえない。……おそらく。
「
、どこか行かないか!」
「……、」
「
に嫌な思いをさせてしまったのは事実だから、
が行きたいところ、どこへでも連れて行かせてくれ」
携帯ごと
の手を包み込んだ。
は一瞬だけ震えたけど、先ほどのように払われることはない。苦い匂いに混じって穏やかな匂いも混ざっている。実際にこうして
自身の態度が変わったことにひどく安堵した。それだけ俺の中では
はもう大きい存在になっていて、放したくないとさえ思っている。
「……俺でよければ、になるけど」
だからこそ、嫌われたくもないから保険をかけてしまうのだが。
は俺を太陽のようだと言っていた。酔っていたから、普段もそう思っているかはわからないけど、本当に、そんなに大それた人間ではない。
好きな子相手だと、匂いでわかっているとはいえそれなりに悩むしほんの些細な言動で一喜一憂してしまうんだ。
は何か言おうとした口を一度ギュ、と閉じ、それからまた薄く開いた。
「炭治郎くんがいい」
静かに呟かれた一言に、ホッと胸を撫で下ろした。目を合わせたくないのか
はずっと俯いたままだったけど、今は手を重ねられているだけで十分だった。
「仲直りできた?」
「!」
ナチュラルに声をかけられ、思わず手を放した。周りがまるで見えていなかった。マリーさんはにこやかにカウンターから身を乗り出している。
俺の他に、店に一人だけいた本を読んでいた人もこちらを微笑ましげに見ていて、申し訳なさを感じつつ頭を下げた。
顔を上げた
を見れば頬が薄く染まっていて、俯いていた理由がわかった俺は笑みを零せば、それを見て
は眉間に皺を寄せていた。それでさえも、可愛いと思ってしまうこの気持ちを、早く伝えたかった。
とける