カチカチと刻む時計の秒針の音と、唇から漏れる吐息と水音だけが耳に響いていた。
唇を啄まれながら、捲られた服の中に手が入り込んでゆるゆると腰回りを撫でられるのが擽ったくて身を捩る。
「あの、」
「……ん?」
壊れ物を扱うかのように優しくソファーに押し倒されながら、私の背中を支える手でホックを外された。
そのままソファーに沈み込み、そっと胸に触れ私を見据える炭治郎くんへまごつきながら口を開く。
「あまり、その……」
「……」
「期待はしないでね……」
頭に過ってしまったのは、炭治郎くんの元カノだった。服の上からでもわかる身体のラインはしっかりしていた。それと比べてしまったら、私は足元にも及ばない。おそらくだけど。あと可愛いと思われるようなことだってできない。言われたことがないから多分そう。がっかりしてほしくなくて保険をかけるように目を逸らして呟いた。
炭治郎くんは空いている方の手で、私の頬に触れて目を合わせてくれと言わんばかりにそっちを向かせる。
「するに決まってる」
「、」
「
のことをもっと知れるんだ。しないわけない」
愚問だった。私の意図は炭治郎くんには伝わっていない。それどころか、そんなこと炭治郎くんの頭の中には一ミリも存在していない考えなのだ。
目尻を下げて微笑みながら、服をたくし上げる。腰回りを撫でていた手が上がって手の平で包み込むように触れられる。身体が火照りはじめて、段々と変な気分になってきた。
「ったん、じろう、くん」
「ん、」
胸を弄る手と、もう片方はさり気なくスカートの中へ入り太腿を撫で回していた。
息は正直に上がってきてしまっているし、ここで止めてしまうのはそぐわないことだとは理解している。ただ、押し進められるわけにはいかない。
「待って」
内腿を這う手の指先が下着の上から触れそうになったところで、申し訳程度に押し返した。
炭治郎くんは私を見ながら唇を噛み締める。
「ごめんね、シャワー浴びたい……」
呟くようにそう零せば、炭治郎くんは何かに気付いたかのような面持ちを見せてから、服の中で触れていた手を引っ込めた。
「……そうだよな、うん、すまない」
「……」
「今更できないと言われるのかと思った……」
胸を撫で下ろすように、俯きながらそう呟いた炭治郎くんに少しだけ安堵した。そんな素振り今まで見せていなかったのに、そう思ってくれているのが嬉しくて。
私こそ、マカロンちゃんのことを思い返していないで早く伝えればよかった。
炭治郎くんは少しだけ乱れた私の服を直し、私の上から退いて起き上がらせてくれた。
「もう一つ、お願いしてもいい?」
「うん、なんだ?」
「電気は消してほしい」
もう既に、上は見られてしまってはいるけど。
こんな明るいところで炭治郎くんの前に全部曝け出せる勇気はない。
聞いてくれないことはないと思ったけど、炭治郎くんは難しそうな顔をしている。
「……ああ、そう、だよな。うん、電気……」
「……」
「消さないと駄目か……?」
「……消してくれないなら、今日は、」
「消すよ!消す!」
遠回しに誘ったのは私の方なのに、それを棚に上げて拒否することを仄めかせば、慌てたように声に出した炭治郎くん。
思わず笑ってしまいそうになるのを堪えた。
複雑そうな表情を見せた後、こっち、と案内してくれたのでそれについていく。
シャワーはここを捻ればでる、この辺りのシャンプーも適当に使って大丈夫、タオルはこれ使って、と説明されるけど、本当に掃除が行き届いていてそっちにばかり目が奪われていた。
「聞いてるか?」
「あ、ごめん。うん、大丈夫。髪の毛一本も落とせないなって思っただけ」
「気にしなくていいよ」
「ええ……」
絶対気にする癖に。きっと最初だけだ。今後私が杜撰なことを続けていたら注意が入るだろう。なんとなく、そんな気がする。
一瞬、その“今後”を嫌な方向で考えてしまったけど、匂いで勘付かれそうだったので振り払った。幸せでいたいし、きっとそうしてくれる。
「じゃあ何かあれば呼んでくれ」
「うん、ありがとう」
脱衣所から出て扉を閉めていった炭治郎くんの足音を聞いて服に手をかけた。
言われた通りお言葉に甘えてシャンプーを使ったけど、今自分が炭治郎くんと同じ匂いをさせていることにふわふわとした感覚がする。
でも、自分に身に付いている匂いって慣れていて気付かなかったりするのだろうか。用意してくれたタオルで髪が吸った水分を拭き取りながら部屋に戻ると、炭治郎くんは部屋着へと着替えていた。ゴシゴシと髪を吹いている私を見て、あ、と思い出したように声を上げる。
「ドライヤーあるぞ!」
「あ、そうなの?」
今日は残念ながら自然乾燥で頑張るしかないと思っていれば、この部屋にはドライヤーがあったらしい。炭治郎くんは部屋の隅の戸棚からドライヤーを持ち出し近くのコンセントへ電源を繋げてソファーへ座り直す。手招きされたので察した私はいいよ、と首を横に振った。
「面倒臭いでしょ」
「いや、やりたい」
「炭治郎くんが入ってる間に乾かしとくから」
「俺がやりたいんだ、座って」
穏やかにそう話してはいるものの、私が何を言っても譲らない気がした。少し頑固なところがあるのかもしれないと、新しい一面を知れたような気がする。
おずおずと炭治郎くんが座るソファーの前へ腰を下ろせば、カチ、と音がして温かい風が髪を靡かせる。髪に触れる手付きが心地いいけど、それは多分、炭治郎くんが手慣れているからだ。
「よくこうやって禰豆子と花子の髪を乾かしてたよ」
「やっぱり」
「ん?」
「なんでもないです」
たまに、こう、女慣れしているようなところが節々で垣間見えることに何も知らなければ疑惑が募るだろうけど、仲の良すぎる兄妹が理由だと知っているので安心している。ただ、それがあって妹のような扱いをされてしまうこともあるのは少しだけ不服であった。
「髪サラサラだな。俺とは全然違う」
お陰様で、随分と乾いてきた髪を炭治郎くんが指で梳きながら呟いた。
失礼ながらその心地の良さにうたた寝を始めそうだった私は意識を取り戻す。
「炭治郎くんは癖っ毛だもんね。梅雨とか大変そう」
「うん。そういう時期とか、たまに今よりもっと短くしたくなるな」
「坊主?」
「その勇気はないな……」
「似合うかも、ちょっ」
さらさらと私の髪を梳いていた手でぐしゃぐしゃとかきまわした。オシャレとかそういうのにあまり拘りはなさそうだけど、坊主は嫌なようだった。乾いたけど、ボサボサだ。ドライヤーを止めた炭治郎くんへ顔を顰めながら振り返ると、ごめんごめんと頭をポンポンされた。嬉しくないわけではないけど、こういうのが妹扱いされているように感じてしまう。
ぐしゃぐしゃにした髪を手櫛で直して、そのまま私の頬を撫でるように包み込む。持ち上げられるように上を向かされ、ふわりと唇が重なった。軽く触れただけで離れて、物足りなさを感じつつも、待ってて、と言われたので炭治郎くんがシャワーを浴びてくるのを大人しく待っていることにした。
元々ここに用意されていたものなのか、やけにオシャレな木製のローテーブルに頬杖をつきながら携帯を眺めていると、そこに置いてあったままの炭治郎くんの携帯の画面が明るくなった。
反射的に見えてしまったメッセージは善逸くんからだった。
“早く
ちゃんを紹介しろ!”と、会ったことはないけれど、炭治郎くんから聞く話やこのメッセージで人となりが見えてきた気がした。
炭治郎くんの携帯へ手を伸ばし画面を下にして、私は自分の携帯の写真フォルダを見返していた。
部屋へ上り込む前までは緊張していたのに、それがもう一切ないのは炭治郎くんから滲み出る穏やかな優しい雰囲気が理由だろうか。だからか、写真を見返している手がいつの間にか止まり、意識がふつりと途切れた。
ふと、大きな音に目を覚ませば、肩にはブランケットがかけられていた。
「……え」
「あ、起きたか?」
大きな窓から薄いカーテン越しに見える外の景色は真っ暗だった。鳴っていた音は炭治郎くんがつけていたドライヤーの音だった。炭治郎くんが上がってきたら私がかけようと思っていたのに、その髪はもうすっかり乾いている。
「ごめん、やってもらったから私がかけたかったのに」
「いいよ、それより起きてくれてよかった」
ドライヤーをテーブルにコト、と置いて炭治郎くんは私の隣へ座る。お風呂上がりで火照っているその表情に胸が熱くなる。
それと同時に、このまま寝て過ごしてしまうところだったと申し訳なくなった。
「すみません……」
「謝らなくていいよ。多分俺、寝てても手は出してたから」
そう言いながら、顔を寄せて優しく口付けた。繰り返される温かいキスに浸っていると、身体が一瞬宙に浮いたような感覚がして思わず炭治郎くんの首に腕を回した。軽々とお姫様抱っこの要領でベッドまで運ばれ、降ろされた先で耳にした軋む音に胸が焼き焦がれそう。
パチっと音がした後に暗くなって、目がすぐに慣れず何も見えなくなったけど、顔のすぐ横に手が降ってきて組み敷かれていることはわかった。
「炭治郎くん、意外と力あるよね」
「意外とってなんだ」
どくどくと心臓の音が外にまで聞こえてしまいそう。緊張しているのがバレたくなくて、迫る炭治郎くんへ呟いた。
「私あとどのくらい太れそう?」
私の手をとり指を絡めながら近づく炭治郎くんにギリギリのところで尋ねれば、ご丁寧に間近で目を伏せ少しだけ考えた素振りをする。
けれどもすぐに目を細めて微笑んだ。
「幸せ太りならいくらでも」
だったら、私はどこまでも太ってしまう。そう思ったけど、もうそれ以上は喋れなくて、代わりにその幸せで包み込まれた。
真っ白な世界の中で、ふわりと香ばしい匂いが漂ってきた。
どこか遠退いていた意識が戻ってくるような感覚に、ああ、寝ていたのかと瞼を開けようとする前で、頭を誰かに撫でられる。誰かじゃない、炭治郎くんだ。
頭を撫でられるのにすっかり心地よさを覚えた私はそのまま寝たフリを決め込んでいると、唇に柔らかい感触が降ってきた。昨日、散々、もっと甘いのも何度もしたのに、離れてしまうそれが寂しくて、ベッドから降りてどこかへ行ってしまおうと背を向けた服へ手を伸ばし、くい、と引き留めた。
「起きてたのか、おはよう!」
「……おはよう」
香ばしい匂いがしたのは、パンを焼いていたからだったようで。先に起きた炭治郎くんは朝食の準備をしてくれていたらしい。
ベッドから起き上がって目を擦る。ごわつく感触に昨日、終わった後に寒いからと貸してくれたトレーナーの袖に手が隠れてしまっていることに気付いた。
「起きるの早くない?遅番でしょう?今日」
「はは、癖で」
確かに、いつも朝早い時間に連絡が来ていることもしばしばだけど。
炭治郎くんはベッドに腰掛けて私の頭を包み込むように撫でる。
「そうだ、聞けずじまいだったよな」
「?」
「パン焼いてるけどご飯もあるぞ。朝、どっち派だ?」
日の出が遅くて、窓からはまだ日が差し込んでいない。それなのに私の視界には眩しい笑顔があって、心の奥底からじんわりと温かくなっていく。
至近距離で赤い瞳に見つめられていると、昨日のことを思い出してしまい耳元で揺れるピアスへと視線をずらした。
「朝は、隣にいてほしい派」
拗ねるように呟くと、炭治郎くんは頭を撫でていた手を一瞬止め、それから手を放しベッドから立ち上がりキッチンの方へ歩いていった。隣にいてほしいと言ったのに、なんの意地悪かと思ったら、火を消しに行っただけらしい。
じゃあもう少し寝ていようかって、そう言いながらベッドに入る炭治郎くんに私も横になってくっついた。
漸く朝日が立ち上る頃に起きて顔を洗いに洗面所の鏡を見れば、ダボついた服のおかげで首回りにゆとりがあり、見える痕の数に一人で赤くなった。
朝