「あ、たんじろーう!」
「?……わっ、」
少し散歩をしよう、と緑の芝生が広がる公園を歩いていれば、どこかで聞いたことのある声が聞こえて振り向いた。すると、その声の主ではなくとても大きな白い犬が炭治郎くんへ飛びかかった。
少しよろけながらもふさふさの尻尾を揺らすその犬を受け止める。
「こら飛びかかっちゃダメでしょう!」
この白い犬の飼い主、いつかぶりの管理人さんは手放してしまったリードを拾いやめなさいと叱りつけた。大きいけどこの元気の良さは生まれてそんなに経っていない気がする。
大丈夫ですよ、と笑いながら炭治郎くんは屈んでその犬を撫でる。撫でられる心地の良さに大人しくなっていく様が可愛らしかった。この人の手、温かくて優しいから犬ではないけど気持ちはわかる。
飼い始めたんですか?と世間話をする二人に挟まれている犬を私も撫でる。とてもふわふわ。それにしても、犬にも好かれるらしい炭治郎くんになんだか心が和んだ。
「
みたいだったな」
「え、どういうこと」
飼ったのではなく預かっただけ、と話していた管理人さんに手を振って見送った後、炭治郎くんは呟いた。
私みたいって、それはあの天真爛漫な犬のことを言っているのだとしたら、炭治郎くんの私に対するイメージがいささか気になるところなのですが。
「撫でた時の感じとか」
楽しそうにそう口にした炭治郎くんに、何も言い返せなかった。実際、撫でられたら心地いいよね、なんて共感したくらいである。
「炭治郎くんは本当にみんなに好かれるよね」
照れているのがバレないように、公園の小道を歩きながら話を振った。傍には四つ葉か何かを探しているような女の子たちがいる。ついこの前まで、幸せなんてないって思っていたのが懐かしいくらいには、探さなくても幸せが降ってくる毎日だった。
「そんなことないよ」
「あるよ」
「そうかな。でも……、」
歩幅を私に合わせて歩いてくれる炭治郎くんが立ち止まった。振り返った先の炭治郎くんは何かを考えている。何も私は考えさせるようなことは言ってないのだけれど、首を傾げて話すのを待っていれば、炭治郎くんは頬を綻ばせた。
「
が前に言ってたこと、本当によくわかるな」
「前に言ってたこと?」
「みんなからそう思われてるのは勿論嬉しいけど、
が俺のことを一番好きでいてくれたら、もっと嬉しい」
誰かに一番に想われたいって、そんなことを、言った気がする。何気なく放った言葉だけど、嘘ではない。本当にそう思っていた。
つくづく、好きだなあって、心からそう思った。一番に好きでいるに決まってる。
眩しい笑顔から背けるように、小道の脇の四つ葉を探すふりをして腰を降ろした。残念ながらそこには三つ葉すらなく、枯れ果てている落ち葉を拾った。
「日差し浴びすぎて枯れちゃいそう。私」
「それは、俺はどうしたらいいんだ?」
私に合わせて炭治郎くんも隣で屈む。時折吹く風にのって炭治郎くんの匂いが鼻を掠めた。シャンプーの匂いじゃなくて、炭治郎くん自身の匂い。それにとても安心する。
「……たまに冷たくなるとか?」
「冷たく?」
優しくて温かくて穏やかで、そんな、心安らぐ匂い。だからというのも可笑しい話だけど、冷たい炭治郎くん、少し見たいかもしれない。後、私は叱られたことがないのだけれど、六太くんを叱っている炭治郎くんのことも好奇心で見たさはある。ああでも、ジェラートを食べながら公園のベンチで話していた時、とっても遠回しに叱られたかな。感心しないなって。後から謝られたけど、何も間違っていないし、自分でもそんなことをしている自分が嫌いになったからその通りだと思っていた。よく思われることなんてないよなって、改めて思ったくらい。
「そんなことしたら君、またブロックするだろう」
「しないよ」
「……」
「多分」
まさかそのことを掘り返されるとは思っていなかった。わざわざ会いに来てくれたくらいだから、それほど私との関係を絶ちたくないというのが今になって改めて実感する。
もう会わないって、結構、何度も言われてきたことで。向こうから私に連絡を寄越すこともないだろうし、だから私はその履歴だって見たくないと、思い出しては泣きたくなるくらい悲しい思いをしたくないと、そういうことをしてしまった。忘れたいと思っていたのに目の前に現れた時は思わず人間性を疑ってしまったことを許してほしい。
「俺、好きな子には優しくありたい」
「……みんなに優しいくせに」
「
には特別そうしたい」
耳元で囁くように伝えられ、肩がびくりと震えた。反応してしまった私を見てか、ふっと小さく笑ったのが耳にかかって、遊ばれてしまっているようだった。
後ろ髪に炭治郎くんの手が触れる。そのまま引き寄せられるようにそちらを向かされたので、察して肩を押し返した。
「だから、外で、しかもこんな人が沢山いるところでは嫌」
「誰も見てないと思うぞ」
「女の子たち近くにいるじゃん……、あ、後ろ」
「子供じみた手には乗らないからな」
「いや、ちが、」
きっと、下の子たちからのそういう騙され方を何度も経験しているのだろう。けど私が後ろを指差したのは別に騙そうと思って言ったわけでもなんでもなく。
違くて、と、そう話そうとしたけど遅かった。私に顔を寄せる炭治郎くんの後ろから、先ほどぶりの白い犬がまた管理人さんの手から抜け出してきたのか、リードを引き摺らせて勢いよく突進してきた。炭治郎くんに。
「いっ……」
その瞬間、炭治郎くんの驚く声と共に私の額に激痛が走った。
「っすまない!俺石頭なんだ!大丈夫か!?」
態勢を崩した炭治郎くんは、私に倒れかかることはなかったものの、寄せていた顔はそのままに頭を私の額へとぶつけた。あまりの痛さに額を抑えて俯いていると、炭治郎くんに飛びかかった犬が私の顔を覗き込むように間に割って入る。
「きゃー大丈夫!?なんだか炭治郎くんのこと気に入っちゃったみたいで」
後から現れた管理人さんはリードを持ち手にぐるぐると巻きつけた。あまり人に飛びかかることなんてないとさっき炭治郎くんと話していた。だから本当に、滅多にこういうことはないのだと思う。
「だ、だい、じょうぶ、びっくりしただけ……」
頭の硬さに。後ろから押されただけだから、勢いはそこまでなかったと思うけどそれでも額がジンジンとした。
炭治郎くんは私が抑えている手を掴んで額から放した。
「赤くなってる……女の子に俺はなんてことを……」
「タオル冷やしてくるわね!」
私の手首を掴みながら、目の前の炭治郎くんは目を見開いて震えていた。そこまで自分を責めるとは思っていなくて、大丈夫、と言って聞かせようとしたけど、何か意を決したようにその場で正座をした。まさか土下座をするつもりなのかと私も目を丸くしたけど、どうやら違うようだった。
「やり返してくれ!」
「え」
「なんでもいい、平手打ちでもなんでも受ける!」
炭治郎くんは、こうして、たまに周りが見えなくなる時がある。さっきまでは私たちのことなんて気にしていなかった四つ葉を探していた女の子たちも、炭治郎くんの声に反応してこちらを凝視している。
タオルを冷やしに蛇口を目指して犬を連れていった管理人さんでさえ、炭治郎くんの声が聞こえて立ち止まっている。
「できないよ、そんなこと」
「それじゃあ申し訳が立たない!」
「いやいや、」
痛いことに変わりはないけど、もう大丈夫だからと手を伸ばせば、何を勘違いしたのか炭治郎くんはギュ、と目を固く瞑った。平手打ちをするとでも思ったのだろうか。するわけない、できるわけがない。
かといって、このまま何もしないままでは炭治郎くんは頑なにここから動いてくれなそうな気もした。本当に、譲れないところは譲れない頑固なところがある。
どうしよう、どうしたら叩かずに済むだろうか。
瞳を泳がせていると、女の子たちがいつの間にかにすぐそばにいて、こちらの様子に爛々と目を輝かせていた。
おそらく、今私が彷徨わせている手のせいで多分、そういうことをするのだろうと期待に胸を膨らませているのが見て取れた。街の至る所でそういう人たちがいるのにも関わらず、どこの国でも女の子の憧れなのだなと感じた。
目の前の炭治郎くんは未だに瞳を固く閉じている。
どうしたら痛い思いをさせずともその綺麗な瞳を見せてくれるのか、女の子たちの眼差しで複雑ながらも答えを見つけ出した私は、そっと顔を寄せた。
途端に、ひゃーという可愛らしい声が近くで聞こえる。一瞬で離れた私に炭治郎くんは瞼を開いた。
「…………」
「大丈夫だから、本当に」
呆然としている炭治郎くんに、顔を背けてぽそっと呟いた。背けた視線の先にいた管理人さんはにこにことしてからハンカチを私に振り、背を向け水道まで歩いていった。
「ねえもう一回してえー!」
「!」
もうその正座はやめて、普通にしてほしい。いつまでも固まっている炭治郎くんに言おうと思ったけど、まだ私たちのそばにいた女の子たちが楽しそうに、もう一度と指を立てた。
「いや、もうしないよ?」
「もっとちゃんとしてよお!」
「しないからね、もう終わり」
「ええー!みんなはもっとちゃんとしてるよ!」
「みんなはみんな、私たちは私た、」
「
」
懇願する女の子たちをどうにか諦めてもらうように宥めていた。あまり小さい子の扱い、慣れていないから炭治郎くんもどうにかして欲しかったのに、私の味方はここにはいないようだった。
宥めていた私の後頭部に手を回して、ぐい、と引き寄せられた。
女の子たちの喜ぶ声が耳にした時にはもう、触れるだけでないキスが落とされていた。
クローバー