に合鍵を渡したけど、俺が帰ってきた時に
が部屋で待っている、ということは今のところ一度もなかった。もしかしたら遠慮しているのかもしれないと思って『今日部屋で待っていてほしい』と俺から連絡をしたけど、『予定があるから今日はいけない』と断られてしまった。
というより、ここ最近は会うことすら避けられている気がする。知らない内に俺はまた何かをしてしまったのだろうか。
炊飯器のボタンを押してそのままそこでぼーっと立ち尽くしていると、部屋にデフォルトのままの着信音が鳴り響いた。
ソファーに置きっぱなしだった携帯の画面を見ると、俺が来る前にこの部屋を借りていた人からだった。俺が立地のいいこの部屋を借りれているのはこの人のお陰だった。
通話ボタンを押して携帯を耳にあてがう。
「あ、もしもーし!」
「甘露寺さん、こんばんは」
「こんばんは!あのね聞いて、また美味しいお店見つけちゃったの~!」
楽しそうな声が聞こえてきて、電話の向こうではきっと明るい笑顔を見せているのだろうと想像できた。
少し前からこっちへ来ているのは知っていたけど、
と一緒にいる時に会いたいと思って会ってはいなかった。ただ、前に街を歩いていたら偶然出くわして、
に会ってもらいたいと色々話し込んでしまった。
後、クリスマスに会うことはできないけどプレゼントは絶対に贈りたくて、女の子が貰って嬉しいものを聞いたり。あくまでも参考に、だけど。
けど、甘露寺さんに聞いて間違いがないものはレストランだった。
は気付いていないと思うけど、美味しいものを食べている時の
は自然と笑みが溢れていて、その表情を眺めているだけでも心が和らぐ。それがもっと見たいと思っていた。
だからもし美味しいお店があったらまた教えてくださいと話していた。管理人さんが俺に教えてくれる美味しいお店も、ほぼ甘露寺さん伝いだった。あの二人は随分と仲がいいから。
「ありがとうございます。今度
と行ってみます!」
「うん!
ちゃんにも早く会いたいわあ」
「……」
「あら、炭治郎くん?」
、そこはかとなく避けられているが俺としては自慢の恋人ですと、甘露寺さんに紹介したい。でも、その前に見えない蟠りを拭わなければいけない。
急に黙ってしまった俺に電話の向こうで甘露寺さんは俺の名前をふわふわと呼び続ける。
「あの、相談があるんですけど」
「あ、良かった!突然いなくなっちゃったのかと思ったわ。なにかしら!」
「俺、
に合鍵渡してるんですけど、」
「合鍵!?きゃー!いいわねいいわね!一緒には住まないの?お部屋広いでしょう?」
「あ、はい。勿体ないくらいに」
「本当にいいお部屋よねえ!家具もおしゃれだしキッチンも整ってるから私よくパンケーキ焼いてたのよ!コンロ三つもあるから低音で長く焼いてても……」
止まらない甘露寺さんの料理トークに、俺はいつの間にかに相槌を打たされていた。勢いに乗っている甘露寺さんを止める術もなく三十分ほど経った時、あら、そういえば相談って?とやっと切り返されたので胸を撫で下ろしながら話しはじめた。
「何回も俺がいるときは来てるんですけど、
からは会いに来てくれなくて」
「うーん……、私だったら、ちょっと緊張しちゃうかもしれない。好きな人の家だもの」
「だといいんですけど、なんか、少し避けられてて……」
「ええ!それは一大事ね……!!喧嘩?」
「いえ、喧嘩はしていないんです」
まるで自分のことのように心配をしてくれる甘露寺さん。高校の時、アオイさんのお店で会ってからずっと印象は変わらない。本当に俺は周りの人に恵まれている。その人たちへ、自信を持って紹介したいのに今の状況では難しそうな気がしていた。喧嘩をしていないからこそ、解決策がわからない。
「なら、大丈夫よ!炭治郎くんが嫌われることなんて絶対ないもの」
「……ありがとうございます」
「話せば絶対炭治郎くんの思いは伝わるわよ!応援してるわ!」
きっと、手の平を握り締めていそうだなと頭の中に甘露寺さんの姿が浮かんでくる。もう一度お礼を言って、今度三人でご飯を食べに行きましょうと伝えてから電話を切った。
一度深呼吸をしてから、携帯を操作してもう一度携帯を耳にあてがう。コール音が数秒続いた後、いつもの声が聞こえてきた。
「もしもし」
「お疲れ様!明日会えるか?」
「……バイトあって、次の日学校早くて」
「なら、少しだけでいいから。最近会えてないから、顔が見たいんだ」
話したいこともある、と、そこは一先ず言わずに、それとなく俺を避けようとする
に提案すれば、了承してくれた。今
が何を思っているかはわからないけど、会えば例え嘘を吐かれても匂いでわかる。もし不安なこととか、悩みがあれば俺は
に寄り添いたいし、力になりたい。
バイトが終わる頃に迎えに行く、と告げて電話を切った。
その言葉通り
を迎えに行けば、丁度カフェから出てくるところで声をかけた。
「久しぶりな気がするな。ほぼ毎日会ってたから」
「うん、そうだね」
冷えるから、どこか中に入ろうと駅までの道を歩く中で、隣からは悲しい匂いがずっと漂ってくる。これは、俺のせいなのだろうか。
ポツポツと街灯が灯る住宅街の通りを歩きながら手を重ねると、少し冷たかった。その手を俺が温めたいと、そう思ったけど、その瞬間悲しい匂いに混ざって、疑われているような、そんな匂いが鼻を掠めた。
思わず足を止めれば、それに気付かず先を歩く
は繋いだ手のせいで少しよろけた。
「…………」
「……、あの、」
「教えてくれないか?」
こんな寒空の下で切り出すつもりはなかった。だけど、まさか、何かが原因で疑われてしまっているとは微塵も思っていなくて。だとしたらそれは、今すぐ
の頭の中から払拭したい。
「
が思っていること、教えてほしい」
立ち止まって、そう口にした俺に
は瞳を揺るがした。辺りは暗いけど、もう目は慣れてきている。
多分、俺が匂いで察したことに
は気付いているだろう。一度目を泳がせた後、瞳を伏せて小さく呟いた。
「見かけたの」
「見かけた……?」
「ピンクがかった髪の人と、歩いてるところ」
それを聞いた途端、自責の念に駆られた。偶然とはいえ、それで不安にさせてしまったことを。
「すまない、その人は、」
「違うの。別に、わかってたことだから」
高校の先輩で、ここに来ることになった時もお世話になった人で、ときちんと説明することを試みたけど、それを遮るように
が発した言葉に思考が一瞬停止した。
動かない俺に、
は手を放そうとするがもう一度強く握り締める。
「……わかってたことって、どういう意味だ?」
「……」
自分の声なのに、それは自分でもあまり聞いたことがないほど、誰かの声なのではないかと思うほどに唸るような低さだった。
が言っていることは、俺には理解できないものだったし、何より胸が痛んだ。
肩をビクつかせた
に構わず俺は続けた。
「
は、俺がそういうことをする人間だと思っていたってことか?俺、前にも同じことを言ったよな。君は俺をそういう男だと見て、」
「違うよ」
強く握った手を、負けじと強く払われその手の温もりは消えた。
は繋いでいた手を抑えながら、顔を背けた。
「炭治郎くんは、本当に、私には勿体ないくらい素敵な人なの」
背けているけど、瞳に涙が滲んでいるのがわかる。顔を背けた理由は、単に俺が鬱陶しいと思ったのではなく、それを見られたくないからだったのかと
が話す内容と合わせてそう察した。
「でも、私は、炭治郎くんのような人でさえ何かがあれば雑に扱われる程度の人間だと思ってるの」
「そんなことは、」
「あるの。あるから、私が悪いの。炭治郎くんは何も悪くないの。私が何かしちゃったのかなって」
震えながら話す
に、胸の奥底からじわじわと何かが込み上げてきた。今まで
の周りにどういう人たちがいたのかはなんとなくでしかわからないけど、それでも多分、どんな人でも
は全部自分のせいだと考えて、諦めてきたのだと想像がついた。もうそういう思いはしてほしくない。
「だから、仕方ないことだって……。面倒臭い人間で、ごめんなさい。こんなんだから、嫌われたっておかしくないと思って、」
「嫌わない。絶対に」
背けていた顔を包み込むように、腕を引いて胸の中に閉じ込めた。どこかお店に入って話そうと思っていたのに、ここで良かったと今になって思った。人が多いところじゃ、こうしてきっと
も俺の背中に腕を回していないから。
もう疑われている匂いはしない。途中、怖がっているような匂いはしたけど、その分後で沢山甘えてくれていいし、甘えられたいからそれで許してほしい。
「絶対って、そういうこと軽く言わない方がいいよ」
「でも本当だから。例え
が、その“面倒臭い人”だったとしても、俺は
が好きだよ」
「……私も好きです。浮気とか思ってごめんなさい」
「うん。俺も怒ってごめん」
控えめに顔を上げた
と瞳が交わって、笑いかけると一度目を伏せてから
は瞳を閉じた。素直に求められていると実感できて、体が震えてしまいそうなほどの満足感が込み上げる。
のこういうところが犬みたいだなと連想してしまうけど、本人は不服そうだったからもう言わないことにしている。
待ち望んでくれているその唇へ、頬を撫でるように包み込んでそっと触れた。離れた後に
は瞼を上げて、視線を逸らしながら、それで、と呟いた。
「誰なんですか。あの一緒にワッフル食べてた可愛い方は」
「ああ、ごめん。高校の先輩で、前話してた色紙に猫を描いてた人」
「え、あ、画家さん」
「うん。あの日会ったのは偶然だけど、ワッフルは色々と教えてもらってたからそのお礼で」
「教えてもらってた?」
つらつらと弁明のようになっているけど、嘘でもなんでもないし、もう今更隠すつもりはなかった。
首を傾げる
に眉を下げながら零した。
「美味しいお店と、
がプレゼントに喜びそうなものとか」
「…………」
「でも、まさか泣かせてしまうとは。本当にすまない」
「泣いてないです」
「いや、目に涙……」
「泣いてないし聞かなかったことにするから!今日の色々はもうなし!」
背中に回していた手を
は放し、俺を押し返そうとするけど腰を支えているのでそうはさせない。
意味がないと観念した
は逃げようとするのをやめて、でも、と呟いた。
「ワッフル私も食べたい。炭治郎くんと一緒に」
口を尖らせている
に、また抱きしめたくなる衝動に駆られたけど、その気持ちを抑えながら先ほど払われた手を絡ませて歩き始めた。
「今から行こう。まだ閉店してない」
美味しいものを、俺と一緒に食べているからあの笑顔が見れるのかと思ったら、後日にしようだなんて考えは俺の中には微塵も浮かばなかった。
ワッフル