雨のち
南向きのこの部屋は窓から差し込む日差しが部屋を明るくしてくれて、電気をつけなくても太陽が昇ることで目が覚める。
今日も勿論その日差しのおかげで俺は起きたのだが、今しがた起きた彼女はベッドで目を擦り今にも三度寝でもしてしまいそうだった。

「今日、雨降るらしいぞ」

早番ではないが、少しだけ早く家を出る日だった。一度起こしてしまってからまだ寝ていていいぞと声をかけ、腕の中で寝ていた彼女をそっと枕に預けてから朝食の準備をしていた。そろそろも起きて身支度を整えないと大学に遅刻してしまうという時間にテレビをつければ、昼過ぎから雨が降ると予報されていた。
テレビで流れていたことを寝癖がついたままのへ伝えるとわかりやすく肩を落とす。

「雨、嫌いだな……」
「好きな人は少ないだろうな」
「炭治郎くんもそう?」

三度寝はしなさそうだ。きっちりと起きていそいそと着替え始めたを確認してから火をかけた鍋に視線を戻す。

「どちらかというとそうだな」
「太陽だもんね、炭治郎くん」
「ちょっと面白がって言ってないか?」
「言ってないよ」

昨日が作ってくれていたスープが徐々に温まり香りが立ってくる。
たまに、からして俺はどんな風に映っているのかが気になることがある。太陽って、無条件に辺りを照らしてくれる温かくて優しくて、眩しさに目を晦ませる光だとは俺も思うけど、どうにも自分がそれに当てはまるとは思えない。
食器を出しながら口を尖らせると隣でグラスを用意する手が視界の隅に映る。

「俺より明るくて優しくて自分よりも他人のことを思う人、沢山いるぞ」
「私にとっては炭治郎くんがそうなの。だから、雨が降っても炭治郎くんが隣にいてくれたら……、」
「……」
「……ご飯食べよ」

そのまま続けてくれると思った言葉は途切れ、ふい、とグラスを持ってテーブルの方へと逃げられてしまった。
何を言いたかったのかは、なんとなくだがわかった。俺としてはそのまま口にしてほしかったのだが、彼女はそれが憚られるらしい。そういうところまで可愛いと思ってしまう俺も俺なのだが。
スープを器によそい俺もテーブルまで運ぶ。いただきますと手を合わせてから店で売り出しているジャムを少しだけ焼いたトーストに塗りサク、と音を立てる。
着替えた、とはいっても彼女の髪は寝起きのそのままで、一箇所ぴょんと跳ねている部分がある。これに素直に『可愛いな』なんて言葉にしてしまえば彼女は不満げにするから言わないことにしている。
たまに俺よりも早く起きていることがあって、俺の真似なのか寝癖を指摘しながら『可愛い』と言われた時はかなり複雑だったけど。女の子、それも彼女に言われるなら男としては『かっこいい』の方がいい。いつも思ってる、なんては言っていたけどそれよりも優しいとか温かいとか、そういう類の言葉の方が多い。嬉しいけど、自分ではそれは大それた気がしてならないから擽ったかった。

「俺、そろそろでるな」

朝食も食べ終えて身支度を整えてから、食器を洗ってくれているに声をかけた。
一度水を止めて玄関で靴紐を結ぶ俺の元まで歩み寄る。

「今日はなに食べたい?」
「なんでもいいよ」
「またそれ」
「今日はなんだろうなって考えている時間も楽しいんだ」
「プレッシャーに感じます。凝った料理は作れないし……」
「作ってくれることが嬉しいから」

俺の為に何かをしようと考えてくれているだけでも、その気持ちだけでも胸が温かくなるのは事実だった。
とはいえ、ある程度指定をしないとも大変だろうから大学が終わる頃までには連絡を入れておこうと心に留めて、靴紐を結び終え立ち上がる。
も十分、俺にとっては優しくて温かくて太陽みたいな存在でいるのだけど、直接伝えれば怪訝な顔をされそうだ。

「じゃあいってくる」
「傘忘れてるよ。いってらっしゃい」

雨が降るとテレビの情報を教えたのは俺の方であるのに、すっかり頭から抜け落ちていた。棚にかけていた傘をが俺に手渡す。
一緒に住んでいるわけでもないけど、こうした朝を迎えているとその都度いっぱしに夫婦のようだな、なんて思ってしまう。
父さんと母さんを思い返すと、気付けば下に兄妹がいて二人でいるところはあまり見なかったから理想の夫婦像、というのはまだこれといって思い描けないのではあるが。でも、きっとこうして二人の時間も沢山あって、だからこそそうして温かく俺たちを迎えてくれたのだと思うと、俺も父さんのように心に決めた人を愛して家族を大切にしたい。
傘を手にを見つめながら先の未来を描いていると、行かないのかと首を傾げられた。傘を持っていない方の手で、寝癖で跳ねている髪と一緒に頬を包み込んで唇を合わせた。

「ありがとう。いってきます!」

数秒だけ柔らかい唇を堪能してから、名残惜しさを感じない内に背を向け扉を開けた。まだ太陽の位置が低くて眩しさに目を晦ませた。
家だと今のようにすんなりとさせてくれるのに、外にいる時の彼女のガードの硬さは折り紙付きだ。だからその分俺も家では触れてしまうのだけど、しつこいと言われたことがないし、嫌な匂いだってからしたことはない。むしろ、焦がれるような甘い匂いをさせてくるものだから言葉数は少ないものの好きでいてくれているのが伝わって心が満たされる。
今日も早く帰って彼女が待つ部屋で温もりに浸りたい、そして素直に甘えられたい。そう思ってテキパキと事を進め、いざ自分の業務が終わり帰るとなった時、店の前で土砂降りの中壊れた傘を持ってどんよりとした空を見上げている常連さんがいた。聞けば、今しがたなんの災いか傘を開いた瞬間に強い風が吹いてパキッと骨が折れてしまったらしい。見るも無残な形となった傘は人を雨から凌ぐことはできなさそうだった。
早く帰りたい。そう思っていたけれど、この人も焼きたてのパンを持って今から久しぶりに息子さんの元へ会いに行くらしく、時間はあまり残されていないらしい。困った様子を見ていれば、何もせずに俺だけのこのこと帰るというなんてことはできそうになかった。
時間がある時に届けてくれたらいいとその人に傘を渡し、暫く店で雨が弱くなるのを待つことにした。

「ごめん、ちょっと遅くなる」

店の二階に上がり、休憩室の椅子に腰掛けてに電話をかけた。ご飯ものが食べたい、というメッセージを昼間にしてから、OKという甘露寺さんが描いた個性的な猫のスタンプが返ってきていて、それを楽しみにしていたのだがお預けをくらいそうだ。

「長引いてるの?」
「いや、仕事は終わったけど傘がなくて」
「どういうこと?」
「貸したんだ、困ってるお客さんがいたから」

今さっきあったことを部屋で待っているであろうに話せば納得してもらえた。怒る、とかは思っていなかったけど、ただいつこの雨は弱くなるかわからないし申し訳なさが募った。

「少し弱くなったら帰るよ」
「また風邪引くよ?」
「引かないように帰ったらすぐ着替えるよ」
「お風呂沸かしておく」
「うん、ありがとう」

彼女が、がいなかったら今日は寒い中濡れたまま帰って、冷えた部屋に着いて一人シャワーを浴びるだけだったかと思うと存在の大きさを実感する。
それでも、どちらかというと晴れている方が好きだとに話したけど、やっぱりそんな漠然とした答えでもなく、晴れている方が好きだ。そうすればあの常連さんだって心晴れやかにパンを持って息子さんに会いにいけたはずだ。

「炭治郎くーん」
「あ、はい」
「彼女来てるよ?」
「……え?」

頰杖をつきながら、ぼうっと窓から見える灰色の空を眺めていた。バケツを引っくり返したような雨は徐々に落ち着いてきて、そろそろ帰ろうかと思い始めていた時だった。扉の方から販売担当の人に名前を呼ばれて振り向けば、下にいるよ、とジェスチャーをされる。
店の入り口ではなく、裏口の方にいるらしい。二階まで来るように誘いはしたがそれはいいですとが首を横に振ったらしい。
階段を降りて裏口まで回ると、出入り口付近に傘を持って壁にもたれかかっているがいた。

、なんで」

名前を呼ぶとは俺に気付き髪を揺らした。
雨粒が傘の先から店の床へペタペタと落ちている。

「風邪引かれたら困るから」
「……」
「…………あと、早く会いたくて」

わざわざ雨の中、それほど遠くないとはいえ家と店を往復することになるのに。
目を逸らしながら小さく呟くの様子を見る限り、多分、後者の理由の方が大きいのだろうということは間違いではなさそうだった。
随分と冷えた日であるはずなのに、胸の芯からじわじわと熱が込み上げてくる。

「二本も傘持ってないから、一本だけど」
「……」
「な、なに……」
「いいや、ありがとう。帰ろうか」

今持っている傘は普通の傘だけど、は折り畳み傘を持っていたはず。つまりは、俺と同じ傘に入りたいということで。
小さな嘘に気付かないフリをして、眉間に皺を寄せるに歩み寄り傘を持った。
いつもは外国語が飛び交う賑やかな通りのはずが、雨のせいか人通りは少ない。いつも歩く石畳は水を吸って暗い色になっている。
信号を待っている間、後ろには何人かいるけど目の前に人気は見えなかった。
できそうだな、なんて考えていると傘を持つ俺の手を掴まれる。力を強めて濡れないようにか俺の方へと傘を傾けようとしているがそうはさせまいと俺は俺で手に力をいれて動かさなかった。
諦めかけての力が弱まった時、少しだけ傘を後ろへと傾けるとそれに気付いたが俺を見上げる。その瞬間に顔を寄せた俺から瞬時に手も放し身を後ろへ引かれた。やっぱり、外でのガードが硬い。

「隠れてるから大丈夫」

嫌だと避けられても、こうしていじらしく恥じらう様子が堪らなく可愛くて、たとえできなくてもそれが見たくて試みてしまう。
何か言いたげだったが口を開く前に断られる理由がないと告げれば、幾らか視線を泳がせた後にその瞳に俺を映した。してもいいのだと捉え、顔を寄せれば徐々に瞼が閉じていったのでそのまま俺も瞳を閉じて柔らかい唇へと触れた。

「雨、少し好きになりそうかも」

青に変わった信号に横断歩道を歩きながら、が不意に呟いた。
朝は嫌いだと話していたはずなのに。
それでも、俺が隣にいることで君の嫌いが好きに変わっていくのであれば、雨の日でも雪の日でも、この先どんな日が来ても俺はずっと君の隣にいたい。
雨のち