三が日が終わっても、観光地とはいえまだまだclosedの札が掛けられたお店がほとんどだった。炭治郎くんが働いているベーカリーもまだ休み。ビジネスマンが街を歩き始める頃に合わせて営業開始するらしい。
そんな中で、私がバイトをしているカフェは今日から営業を開始していて、コーヒーの深い香りに懐かしさを覚えつつ、今日もキャラメル色のラテに絵を描いていた。
甘露寺さんのように、色んな色を使って大きいキャンバスに描くわけではないけど、自分で描いたものを喜んでもらうのは素直に嬉しかった。
休憩中、他愛もないけど今日描いたものを炭治郎くんに送ろうと思って携帯を開くと、思わぬメッセージが入っていた。『すまない、今日会えなくなった』『本当にすまない』『ごめん』『突然で申し訳ない』と、続け様に一方的に謝られていて、それはいいのだけれど、理由が気になった。
「……言いたくないのかな」
自分で淹れたカフェオレの匂いが広がる小部屋で呟いた。例えば、また私に黙って何かを考えているとか。でも、それにしては唐突すぎる。炭治郎くんに限ってそんなことがあるようには思えない。
教えたくなければそれでいいのだけれど、聞かずにはいられなくて、一先ず『仕事?』とメッセージを送ってみれば、数分後に返信が返ってきた。
「
ちゃん、今日炭治郎くんと会うって言っていたでしょう?よかったら林檎持っていって」
「あ、いや、あ、ありがとうございます」
「?たくさんあるからお家の人にも」
携帯の画面と睨めっこをしている私の背中にマリーさんが声をかけてきた。お店も人はそんなに多くなくゆったりとした時間が流れている。
ダンボールにいっぱいの林檎をテーブルの上に置いて、好きなだけ持っていってみんなで食べて、と言ってくれるけど、炭治郎くんとは今日、会えない。多分。
「炭治郎くん、風邪引いたみたいで」
「まあ、大変。熱は?」
「少しあるみたいです」
「じゃあお見舞い行かなきゃね!」
当然のように話すマリーさんに気付かされた。そうか、普通恋人が風邪を引いたらお見舞いに行くのが世の理だ。ちょうど林檎もあってよかったわ、となぜかマリーさんがるんるんとしている。
そういえば、私の家に来た時に寒い寒いと言っていたけど、もしかしてあれは本当に肌寒さを感じていたりもしていたのだろうか。
マリーさんが部屋を出ていくのを見送った後、『
は体調平気か?』と、送られてきた。私の身を案じるということはやはりそういうことなのだろう。
“平気。自分の心配して”
“ごめん、ありがとう”
多分、私に心配をかけたくなくて最初に理由を言わなかったのだとわかった。例えそれが文面上でも嘘は吐けない人なのだ。
その心遣いは本当に優しいと思うけど、ただ少しだけ寂しかった。
マリーさんは、お見舞いに行った方がいいと私の背中を押したけど、改めて考えるとどうだろうか。迷惑でないだろうか。行きたいという気持ちは十二分にあるけど、炭治郎くんは一人で安静にしていたいタイプかもしれない。
逆で考えてみると、私の場合は炭治郎くんが来てくれたら嬉しい。けれどもそれは私自身の考えでしかないので、数分止まっていた会話に再びメッセージを入れてみた。正直に『お見舞いに行っても大丈夫?』と。
ただ、その返事はバイトが終わる頃にも返ってこなかった。見た形跡もない。
どうしようか迷ったけど、行くだけ行って、そっと入って、寝ていたら林檎だけ剥いて出て行こうとバイト先を後にした。
コツコツと階段を登り、扉の前に立つ。渡された合鍵を取り出したけど、一応新しく連絡が入っていないかを確認する為に携帯も取り出した。すると、入っていた連絡に数秒固まった。
『移るから大丈夫!』『ありがとう』と。今もう目の前に来てしまったのに、炭治郎くんは一人で安静にしていたいタイプなのだとわかる。
元々、寝ていたらそっと入ってそっと帰ろうと思っていたので、手にしていた合鍵をしまって来た道を戻り階段を降りた。
「…………」
降りていく途中で、ふと、きたメッセージについて考えた。移るから大丈夫って、そんなに酷い熱なのだろうか。熱は少しあると言っていたけど、本当は、もっとあるんじゃないかと、頭に過ぎった。
降りて来た階段の先を見上げると、夕焼けが差し込んで目が眩む。
一度考え直して、私はもう一度階段を上った。炭治郎くんの部屋の前で再び合鍵を出して扉を開けようか開けまいか、今更ながら躊躇している。
炭治郎くんはきっと、帰れなんてことは言わないだろう。それが余計に私を迷わせていた。迷惑になることはしたくないから。
それでも、いやでも……と一人で扉の前で考えていると、ガチャ、と鍵の開く音がした。音がしたのは、目の前のこの扉。
ゆっくりと開かれるそれにぶつからないように後ずされば、顔を火照らせている炭治郎くんがいた。
「……来てくれたのか!」
「ごめんね、押しかけて……」
「いや、ありがとう。
っぽい足音が聞こえるなと思ってたんだ」
声色はいつもと変わらなかった。優しくて包み込んでくれるような声。でも、額には汗を掻いているいるし、何より呼吸が荒い気がする。
頬を緩める炭治郎くんの額に手をあてた。
「全然、少しじゃないでしょ、熱」
「……朝は少しだったんだ」
「今は?」
「…………」
嘘を吐けないから、そのかわりにこの人は黙るのだ。
炭治郎くんから手を放し、部屋に上がって荷物を降ろした。なぜか立ったまま私の様子を見ている炭治郎くん。
「何か食べた?」
「いや、あまり」
「何か食べないと。お粥食べられる?」
「うん」
「じゃあ寝てて」
いつもより随分と弱々しい炭治郎くんをベッドで寝ているよう促した。布団に戻るのを見てから私はキッチンに立つ。病人食なんて、作ったことはほぼないけどできることがしたいと思った。
炭治郎くんはよく、私に甘えさせてくれるけど、私が何もできない人だと思っているのだろうか。自分がそうしたいだけ、とは言うものの、炭治郎くんが大変な時に何もできない彼女にはなりたくない。何かあった時に、頼ってもらえるような人になりたい。
出来上がったお粥を器に移してから炭治郎くんの元へ持っていくと、起きていたらしく目を丸くした。
「なんで起きてるの」
「いや、寝てたよ。いい匂いがしてきたなと思って起きたんだ」
炭治郎くんは重そうな上体を起こして私に笑いかけた。時に、効きすぎる鼻は厄介なものだと心の中で溜息を吐いた。
ベッドの端に座って、すぐそばの戸棚にお粥を置いて蓮華で掬う。
「はい」
「えっ」
炭治郎くんの口元にそれを運ぶと、わかりやすく戸惑いを露わにする。
きっと私が風邪を引いた時に炭治郎くんはやってくれるだろうから、それを想像して真似てみている。
目で訴えていると、口元に薄っすら笑みを浮かばせた後、口を開いたのでそのまま流し込んだ。
「美味しい?味わかる?」
「うん、わかるよ。美味しい。ありがとう」
その言葉が聞けただけで、帰らなくてよかったと安堵した。
きっちり全部食べ終えた後、貰ってきた林檎を用意してそれも食べてもらった。私も食べたけど、どこのかは聞いてないし多分教えられてもわからないけど果汁の中に甘みが沢山たっぷり入っていてとても美味しかった。炭治郎くんが風邪であるということを一瞬忘れてしまうくらいには炭治郎くんも喜んでくれた。
諸々片して、今度こそ炭治郎くんは後は寝るだけとなったので荷物を持って炭治郎くんの側まで歩み寄った。
「帰るね」
「……うん、来てくれてありがとう」
「熱ちゃんと計ってね。ここに置いておくから。冷却シートもここ」
「うん……」
ベッドからすぐ届く場所に置いてある体温計を指差すけど、歯切れの悪い返事が返ってくる。具合が悪くなってしまっているのだろうか。帰ろうにも、心配になる。
手を伸ばして、炭治郎くんのふわりとした髪に触れた。
「辛い?」
「あ、いや……」
辛いことには変わりはないのだろうけど、悪化しているわけではないみたいで、炭治郎くんは髪に触れている私の手をとった。いつもより温かいというか、熱い。
「
が来てくれてよかった」
さっきも聞いたけれど。改めて心から言われると、私まで外側から与えられるそれに顔が火照りそう。
私の手を自分の頬にあてる。今はそんなに冷たくはないと思うけどそれが心地いいのか瞳を閉じた。
「素直に甘えればよかった」
「……うん、なんでも言って」
そう思ってくれていてよかった。最初はやっぱり、心配をかけたくなかったのだろう。この人は、大家族の長男だから、そういうのを無意識に我慢していたのかもしれない。それが当たり前であるかのように。
炭治郎くんは伏せていた瞼を開いて、まっすぐとその瞳を私へ向けた。
「帰らないでくれないか」
「……」
「そばにいてほしくて」
弱々しかった手が、強く握られる。行かないでほしいと、言葉だけでなく示されている気がした。
そんな手を振り払えるわけもなく、私は荷物を置いて炭治郎くんが寝ているベッドに腰を下ろした。
「うん、そばにいます」
私が笑えば、炭治郎くんも柔らかい笑みを浮かべて、ゆっくりと瞳を閉じた。
繋がる手の力が徐々に弱まってきて、規則正しい寝息が聞こえてくる。その頬を撫でてから、帰らないでと言われたので床に腰を下ろして、繋がれた手はそのままにベッドに頭を預けて意識を手放した。
次の日、目を覚ますとなぜか私がベッドに寝かされていた。バッと起き上がって周りを見渡すと、いつものように炭治郎くんが朝食を作っていた。
私に気付いた炭治郎くんはおはよう、と爽やかに声をかける。
「もう大丈夫なの?」
「お陰様で!」
ハツラツとした声は、いつもの炭治郎くんだ。結構熱はあったのに、一日で回復してしまうことに少しばかり目を疑った。
炭治郎くんがスープをよそっている傍で、私は残っている林檎の皮を剥き始めた。沢山貰ってきたし、美味しかったからまた一緒に食べたい。
「
」
「ん?」
「昨日、
がキッチン立ってるのみて、いいなって思った」
思わず、林檎の皮に刃を入れている手を止めた。それでも、やっぱり深く聞くのはやめておこうと思って意識しないようにしていたけど、全然上手く剥くことができなかった。昨日はちゃんと剥けたのに、上手くできない人だときっと思われていそうだと、ばれないように小さく息を吐いた。
林檎