キャンバス
炭治郎くんの仕事納めの日。葉が少なく寂しくなった木々が植えられる公園のベンチで彼が来るのを待っていた。真冬だけど、今日は少しだけ暖かい。たまに吹く冷たい北風には身震いしてしまうけど、日向だとポカポカとした日差しを肌で感じていた。
足を伸ばして視線を落とし待っていると乾いた地面を蹴る足音が近付いてくる。音でわかるようになってきてしまった。
顔を上げると、『お疲れ』と優しく頬を綻ばせて声をかけた。

「お疲れ様。忙しかった?」
「クリスマスよりはそうでもなかったよ」

隣に座る炭治郎くんから香ばしい匂いが漂ってくる。キッチンにいるから体に染み付いているのだろうけど、嫌いな匂いではないしむしろそれが心地いい。ただ、シャンプーの香りも、炭治郎くん自身の香りも全部好きなのだけど。

「あ、そろそろ着くって」
「なんか緊張する……」
「優しくて明るい人だよ、大丈夫」

携帯を確認した炭治郎くんの言葉に、ドキドキと胸を脈打たせながら両手で口元を覆った。そろそろ到着するらしい。甘露寺蜜璃さん。
私に会いたいとも言ってくれているらしくて、炭治郎くんも私に会ってほしいと話していたから私が断れるわけもなく、ついにその日がやってきてしまった。知り合いのアトリエで今までお世話になっているようで、年明け前、明日帰ってしまうらしい。その中で時間を割いてでも会いたいと思ってくれているのはとても嬉しいけど、如何せん初対面の人と会うのは緊張してしまう。実際には、一方的にちらっとは見た人だけど。

「炭治郎くーん!」

けれども、そんな緊張も御構い無しにその時間はやってくる。朗らかな声を公園に響かせながらその人は手を降って歩いて来た。片手には大きめの木製のトランクケース。木の葉の隙間から差し込む日差しに照らされて見えるその表情が柔らかかった。会うことに緊張していたけど、その表情にドキッとしてしまう。
炭治郎くんの周りには、こういう人が多いのだろうかと少し不安になってしまうほど。
立ち上がった炭治郎くんに続いて私も腰を上げた。

「遅れてごめんね」
「こんにちは!いえ、大丈夫です」
「あなたがちゃん?」
「あ、はい、そうです。です」
「私甘露寺蜜璃って言います。会えて嬉しいわ!」

甘露寺さんはケースを置いて、炭治郎くんの隣で頷いた私の両手をとってよろしくね、と顔を寄せる。年上だと聞いているけど、あまりにも可愛らしい人で、そしてとても穏やかな人で炭治郎くんが『大丈夫』と言っていた根拠がわかった。
綺麗なピンク色の髪がとてもこの人に合っている。即座に、この人との浮気を疑ってしまった自分を戒めた。

「そうそう、今日はね、お願いしたいことがあって」
「なんですか?」
「二人の絵を描かせてほしいの!ほら、今日天気いいでしょう?だからアトリエ出るときに思いついて」
「え、いいんですか!」
「もちろんよ!」

私の手をとったまま、二人は会話を続ける。なんとなく察していたけど、どうやらこのケースに入っているものは画材らしい。画家さんだからいつも持ち歩いているのかと思ったけど、出る前に思いついたと言っていたから、それが少し遅れる原因にもなったのだろう。

「じゃあ二人とも、座って座って」

甘露寺さんは愉しげにケースを開きながら、先ほどまで座っていた緑色のベンチへ座るように促した。
どうするのかと思ったら、ケースから組み立て式の椅子を取り出して、キャンバスや絵の具の準備に取り掛かっている。初めて画家さんのこういうところを見るから、ついまじまじと眺めてしまった。

「甘露寺さんは絵で世界中の人を幸せにしたいんだって」

興味津々でいる私を見てか、炭治郎くんは穏やかにそう告げた。素直に、素敵な夢だと思った。世界中の人を、って、もしかしたらきっと笑われてしまうこともあっただろうに、この人からはそういうのを一切感じない。
私だったらきっと、諦めてしまうだろう。だから自分にできないことを夢にして、日本を飛び出している甘露寺さんに憧れを抱いた。本当に、炭治郎くんの周りには炭治郎くんのような素敵な人がいるのだなと改めて実感した。
甘露寺さんはパレットに絵の具を用意して、じゃあ描いていくわね、とパッと顔を明るくさせた。
事の成り行きを見守っているだけだったけど、自分のことを描いてもらう時ってどうしたらいいのだろう。
動かない方がいいのかと思って一先ずじっとしていると、甘露寺さんはくりっとした丸い目で瞬きを繰り返してから頬を緩めた。

「そんなに身構えないで大丈夫よ!折角だから、色々お話しながら描きたいわ!」
「そうなんだ、動かない方がいいのかと思いました」

隣に座っている炭治郎くんも同じことを思っていたらしい。つまり甘露寺さんに絵を描いてもらうということは炭治郎くんも初めてということだ。その事実に少しだけ安堵している自分がいる。
炭治郎くんと会ってから、私は嫉妬深い人間なのだとつくづく気付かされる。

「二人はどこで出会ったの?」
「俺が店の前で試食のパンを配ってたら、が並んでたんです。な!」
「いや、並んでないよ」
「ああ、あれやっぱり並んでなかったんだな」

甘露寺さんの質問に、炭治郎くんは私に同意を求めるようにこちらを見るが首を横に振った。
少しだけ顔を動かしているけど、甘露寺さんは特に何も言わずににこにこと微笑みながら筆を進めていた。ある程度動いても大丈夫みたいでホッと胸を撫で下ろした。よくよく考えれば、写真を撮ってもらうわけでもなかったから当然なのだけれど。

「それでそれで?どうして仲良くなったの?」
「俺が悩んでた時にちょうどとここで会って、助けてもらったんです。それで、そこからのことを知っていく内に」
「……炭治郎くん、本当にちゃんのことを好きなのが伝わってくるわ!」
「はい!とても!」

恥ずかしげもなく、堂々と言葉にできるのが炭治郎くんらしいと思った。隣でそれを聞かされている私は、結構恥ずかしくて俯いてしまいたいのを必死に抑えているのに。
リズミカルな会話の中でも甘露寺さんは筆を動かしていて、きっとそういうスタイルで絵を描く画家なのだろうと素人ながらに感じた。
甘露寺さんは炭治郎くんに向けていた視線を私へ移す。

ちゃんは?」
「え」
ちゃんは炭治郎くんのどんなところに惹かれたの?」

嬉々とした表情を見せながら、甘露寺さんは私へ尋ねた。それは答えなければいけない質問なのでしょうか、なんてことはこの和やかな雰囲気の中言える筈もなく、炭治郎くんへ目を配れば、私の答えを待っているような面持ちを見せていた。
炭治郎くんのように溌剌と馴れ初めのようなものを口にすることだって私には羞恥で憚られることなのに。
惹かれた理由。私は、私のような人と仲良くしてくれるだけで、期待してしまって、気になってしまって。
どんなところに惹かれたと改めて問われたら、徐々に惹かれていったわけだからこれといったきっかけはないのだけれど、でも今となっては炭治郎くんだから好きになったのだろうと思っている。
炭治郎くんの表情がどんどん真顔に戻っていってしまうのがわかって慌てて口を開いた。

「優しいところ……?」
「どうして疑問形なんだ」
「いや……うーん……」
「……」
「全部好きだなあって、思って……」

朝ご飯を用意してくれることも、疲れたと言えばマッサージしてくれることも、髪をドライヤーで乾かしてくれることも。そういう優しいところも勿論好きだけど、たまに頑固になったり怒ったり、周りが見えなくなったりしても、それでもそんな炭治郎くんが好きだから、多分、そういうの含めて全部が好きなのだと、そう頭に浮かんだ。
忘れかけていた冷たい風が吹いて、甘露寺さんがいる前で何を呟いてしまったのだと我に返る。人前で何を惚気たことを言っている。そして甘露寺さんがいなくとも、本人の前でこれは顔から火が出そうだ。

、」
「キュンキュンしちゃうわね!!」

そっと頬を包み込みながら炭治郎くんが私の名前を呼んだのと同時に、前方から高らかな声が聞こえてきた。
甘露寺さんは、まるで私の代わりだと言わんばかりに頬を赤らめて嬉しそうにしている。私の緊張をほぐす為の会話だと思っていたけど、甘露寺さんは元々こういう話が好きなのかもしれないと薄っすらと感じた。

「もっと教えてほしいわ、二人のこと!幸せそうなのが絵にも伝わるの!」

ふんっと息を荒くする甘露寺さんに若干押され気味になったけど、炭治郎くんは私の頬を包み込んでいた手を放して出会いを遡り始めた。甘露寺さんが割って入らなければもしかして、そのままする気だったのだろうかと頭を過った。その代わりかなんなのか、手は重ねられたけど。

「完成!」

会う前はどくどくと胸を煩くさせていたのが嘘のように、二人の雰囲気に落ち着きを取り戻して私も自然と会話に混ざれていた。
改めて遡られるここ数ヶ月の出来事にむず痒さを感じつつも、炭治郎くんは楽しそうに話してくれるからそのことが嬉しかった。だからか、絵が完成するまでの時間があっという間に感じた。
じゃーん!と満足気に見せられた絵は、可愛らしいタッチの似顔絵だった。

「うわあ、すごい!ありがとうございます!」
「記念にプレゼント。はい!」
「ありがとうございます……!」

甘露寺さんは私にそのキャンバスを差し出す。色合いが淡くて、何より私がとても笑顔であることにちょっとした恥ずかしさを覚えた。かなり甘露寺さんフィルターがかかって美化されているような気がしたけど、この絵を見ていると、それこそ幸せな気持ちでいっぱいになる。
描かせてくれてありがとう、だなんて、むしろこちらがお金を払いたいくらいのものなのに、物腰の柔らかさに感服してしまう。
ふふ、とお花のような笑顔を浮かべる甘露寺さんにもう一度こちらこそ、とお礼を言おうとした。したのだけれど、低い呻るような音が聞こえて、瞬きを繰り返した。

「きゃー私ったら私ったら!ごめんなさいお腹が空いちゃって……!恥ずかしいわあもう!!」

どうやら今の音は甘露寺さんが立てた音のようだった。顔を両手で抑えて首を左右にブンブンと振っている。髪の毛が揺れて甘い香りが漂ってきた。
炭治郎くんは俺も空きました、とフォローを入れている。本当に優しい。

「どこか食べに行きましょうか!」
「あ、でも私沢山食べちゃうから一緒に行って待ってもらうのも申し訳なくなっちゃうわ」
「大丈夫です!な」
「うん」

そんなに沢山食べるのだろうか。華奢なのに。そういう体質なのか、ちょっと気になってしまう。それでも、いやいやと首を振る甘露寺さんに私はそれなら、と思い付いた。

「うちご飯沢山あるんですけど、食べに来ませんか?」
ちゃんのお家?ええ、いいのかしら!」
「あ、いえ……」
「……?」

口走ってから気付いた。お米が沢山ある家は、私の家ではない。一緒に住んでいるわけでもないのに、なんの躊躇いもなくここのところほぼ入り浸っていたから自分の家のことのように図々しいことを提案してしまった。
口籠る私に甘露寺さんは首を傾げて疑問符を浮かばせるけど、炭治郎くんが口を開いた。

「俺が借りている部屋です。甘露寺さんも住んでた」
「きゃ、同棲してたのね!」
「そんな感じです」

同棲、は、してないのだけれど。でもほぼそのようなものだし、ここで否定をしてもややこしくなってしまうから炭治郎くんがぼかして答えてくれたことに私も控えめに頷いた。あと、私が口にしてしまったことに対しても炭治郎くんは嫌悪感は抱いていないようで安心した。
むしろ私を見て、にこりと優しい笑顔を向けるものだから胸がどくりと跳ねた。

「なんだか懐かしいわあ!」
「甘露寺さんが管理人さんに話をしてくれて、本当に感謝しています」
「いいえいいえ~!私も宇髄先生がいなかったらあの部屋に住めていないから」
「宇髄先生?」

地下鉄を降りて、炭治郎くんが住む部屋へ向かっている中で出てきた見知らぬ人の名前。
炭治郎くんは、ああ、と声を上げる。

「俺たちが通ってた高校の美術の先生。すごくかっこいいんだ!」
「へえ……」
「管理人さん、宇髄先生を街で見かけて声をかけたって言っていたわ。かっこいい人に目がないみたい。でも本当にかっこいい人だから気持ちわかるわあ」

頬に手をあてているうっとりとした顔を見せる甘露寺さん。さっき話している中で、甘露寺さんも彼氏がいると言っていたけど、彼氏はいてもこうして素直にかっこいい人のことはかっこいいと話すのだろう。
宇髄先生から甘露寺さん、そして炭治郎くん。人脈が広いとこういう形で自分の為にもなるのかと、人に優しくするのは自分の為だと話していた炭治郎くんを思い浮かべた。理に適っている。
部屋に到着して、お米を炊く為甘露寺さんにどれくらい食べますかと聞こうとしたけど、甘露寺さんが答える前に炭治郎くんは炊飯器で炊けるだけのお米を炊いた。
途中スーパーで買い込んだ食材をキッチンに立って調理する。こんなに食べるのかと不安になったけど、いらぬ心配だった。
美味しそうに平らげていくその姿に圧倒されつつも、何回炊飯器でご飯を炊いたかは覚えてないくらいには、あっという間に楽しい時間もお米も減っていった。
キャンバス