学校近くの閑静な街並みが、クリスマスの日までとはいかずとも淡いピンクの装飾が景観を損なわない程度に施されていた。
北風に身を震わせながらバイト先の扉を開くとチョコレートの香りが充満している。この時期限定でチョコレートラテを出しているからだった。
「え?炭治郎くんにチョコレート?」
ブラウンのラテにハートを描いてパソコンを開いている女性客へ届けた後、美味しいチョコレート屋を知っているかマリーさんへ尋ねた。
マリーさんは質問をした私に今にも質問で返そうな表情を浮かべている。
「バレンタインなので……」
私は何かおかしなことをしようとしているのだろうか。好きな人へバレンタインにチョコレートを贈るって、不思議なことではないと私は認識している。
マリーさんは丸くしている目をパチパチとさせた後、ああそっか、と頬を和らげた。
「日本はそういうものだものね!なんだか新鮮だわ」
「え、こっちは違うんですか?
「バレンタインは男の人から貰う日なのよ~、まあ、商業的なイベントだからやってる人とやってない人いるけどね。その人たち次第」
「そうなんだ……」
「でも私も自分から贈ってみようかしら」
ふふふ、とマリーさんはいつも奥で軽食を作っている旦那さんの方へ視線を運ばせた。
後から調べれば、この国ではバレンタインは男の人から薔薇を贈る、というのが主流らしいことを知った。なんとなくだけど、炭治郎くんはそういうのを知らなそうだと思った。修行しにきているわけだから当然といえば当然だけど、観光地に詳しいというわけでもなかったことからして。
今日は忙しくなりそうだから帰りが遅くなると思う、と連絡が入っていたのでバイトが終わった後、私は駅前の路面店が並ぶ大通りを歩いていた。そこかしこにフランスパンを売るお店はあるけれど、私が探しているのはチョコレート。
この時期だから普段チョコレートを売っていないお店が可愛い包装で陳列させてはいるけど、折角なので専門店で買いたい。
どこにしようか通りを彷徨いながら、ふとある人のことが思い浮かんだ。一度時間を確認して、流石に寝ているかと思ってメッセージだけいれると、思いがけず携帯が着信を知らせた。
「おはよう
ちゃん!あ、そっちはこんばんはよね!
ちゃんから連絡をくれるなんて嬉しいわあ!」
向こうでは朝方にも関わらず、弾けるような声色が携帯を通して耳に響く。
甘露寺さんがこっちにいる時に、連絡先は聞いていなかった。私から聞くなんてそんなのは恐れ多いし、聞いても連絡することはあるのだろうか、と、心の片隅で思っていたから。勿論、私はできることならしたいと思っていたけど、忙しそうだし、私はただの後輩の彼女だし、と渋っていた。
後日炭治郎くんから、『甘露寺さんが連絡先を知りたいって』と聞き、炭治郎くんを通して連絡先を手に入れた。
よくしてもらえると、すぐに私はそういう人を頼ってしまう行動にでてしまいがちだった。
うざいな、しつこいな、って、そう言われたり、態度にだされるまでは。
「朝早くにすみません……」
「大丈夫よ~!今日はちょうど早起きの日だったから!
ちゃんがくれたコーヒー豆で今コーヒーを淹れて飲んでるんだけど、とっても深みがあって美味しいわ。ね!」
電話の奥から、ああ、という低い声が聞こえた。彼氏だ。いや、旦那さんだろうか。指輪はしていなかった気がする。どちらにせよ甘露寺さんといると、とても明るい朝を毎日迎えられそうなイメージが勝手に湧いてしまう。
道端で止めていた足を進め、人の邪魔にならないように端によって壁に背中を預けた。
「よかったです」
「あ!ごめんね。私に相談って何かしら?なんでも聞くわ!」
すぐに既読がついた甘露寺さんへ送ったメッセージは、相談したいことがあって、という内容だった。
美味しいお店を沢山知っている甘露寺さんなら、美味しいチョコレートを置いているお店も把握しているかと思って。
相談できる相手が日本に、それも炭治郎くん伝いでの人だなんて、本当に自分の人脈の無さに呆れてしまう。
素直に話すと、甘露寺さんは嬉々とした声色を浮かべて私に教えてくれた。自分が好きなものを周りに伝えるのが好きな人なのだろうともこの電話で察した。
私も炭治郎くんも、美味しいお店は甘露寺さん頼みになってしまうなんて、笑ってしまう。他力本願と言われてしまうかもしれないけど、でもあくまで候補を聞くだけ。それからどうするかは自分で決めることだと言い聞かせた。
「市内だとそのくらいね!どこも本当に一つ一つのチョコレートが繊細に作られて宝石みたいなの!」
「行ってみます。ありがとうございます」
「うん!でも、きっと
ちゃんからなら炭治郎くん、なんでも喜ぶと思うわ!」
「……そうだと、嬉しいです」
と、言いつつ、私もそう思っているけど。自分のことをそんな価値のある人間だと思っているわけでは決してなくて、炭治郎くんが何かを貰って嫌な顔をするところが想像できなかった。
私が電話越しに呟くと、甘露寺さんは、あのね、と小さく切り出した。
「炭治郎くん、そっちで素敵な恋をしているんだなって、私嬉しくなっちゃったわ」
「……」
「『フランスに修行をしに行こうと思って』って宇髄先生伝いに話を聞いてね。でも送り出す前は、笑ってはいるけど結構不安そうにしていたから」
会ったばかりの頃、公園の池で話していたことを思い出した。こっちへ来るの、結構迷った、と。でもきっとその度に周りから背中を押され、自分の足で歩いてきたのだろう。私が炭治郎くんへ、素直に思ったことを言う度に炭治郎くんは、そんなに自分は凄い人ではないと話す。でも、周りに支えられるその環境を作り出していることも、炭治郎くんだからこそだと思った。
「私はそんなに頻繁に連絡はしていなかったし。でもね、あの写真あるじゃない?
ちゃんが描いたって載せてたやつ。あれを見て、あ、炭治郎くん生きてた!って思ったのよ~!しかも仲良しの女の子までいるなんて!って」
まるで自分のことのように楽しそうに話す甘露寺さん。電話の向こうでは頬を綻ばせているのだろうなと想像できて、目の前にいるわけではないのにこちらにまで移りそうな気がした。
「私は、二人目ですけどね」
私に会う前も、パンを捏ねることに明け暮れる日々を送っていたと思うけど、それなりにそういうこともちゃんと楽しんでいたと、思う。聞かないし聞きたくないけど。
「あら、炭治郎くん前にも恋人いたのね?」
「あ、はい」
言ったら不味かった情報だろうか。でも私のことをみんなに話すくらいだから、甘露寺さんに話していないだけでマカロンちゃんのことも禰豆子ちゃんや善逸くんたちには話していてもおかしくはないと思った。
そうなんだ……と小さく呟いたのが聞こえた。
「炭治郎くんのところのパン屋さん行っても、いつも禰豆子ちゃんと花子ちゃんが『お兄ちゃんパリジェンヌの恋人作ったかな』って零してたから、いないのかと思ってたわ」
「……そう、なんですね」
炭治郎くんが紹介した恋人が、パリジェンヌでなく私でごめんなさいと心の中で謝りつつ、疑問が一つ浮き出てきた。
私はどうして、恋人はおろか付き合う前からみんなに話されていたのか。
炭治郎くんの中の蟠りがなくなって、気持ちが落ち着いていた、というのが答えだろうか。大変な時期だったから、必死であまり連絡を取ってなかったっていうのもあるかもしれないけど。
炭治郎くんの行動に対し不思議な思いを抱えつつ、パスタが茹で上がったわ!と甘露寺さんの嬉しそうな声が聞こえたので電話をそこで終わりにした。朝からパスタか、なかなか重い。
壁に預けていた背を持ち上げて、さっき甘露寺さんが教えてくれたチョコレート専門店の名前を入力する。開くと、確かに宝石のようだと思った。
「歩きスマホはよくないぞ」
不意に斜め後ろから聞き慣れた声がした。私が振り返る前に、チョコレートが一覧になっている画面を映していた携帯が奪い取られる。
携帯を奪ったその手の持ち主は、私に口角を上げていた。辺りが暗い分、画面が明るくてチョコレートがよく見える。
「だ、だめ返して!」
思わず慌てて炭治郎くんの手から携帯を奪い返す。即座に画面を暗くして鞄にしまった。その様子に勿論炭治郎くんは首を傾げてピアスを揺らすけど、今取り乱した件については触れられまいと私が先に口を開いた。
「遅くなるって言ってたのに、早いね。同じ時間」
「うん、思ったより早く色々進んで」
私が先に帰って夕ご飯を作って待っていようと思ったのに、今日も炭治郎くんは俺も手伝う、と隣に立ちそうだ。私が言えば黙って待っててくれる日もあるけど。ただ背中に視線をとても感じるから、やっぱり一人でいる時の方が手元が狂わない気がした。
「
は何してたんだ?」
「え?えーと……買い物をしようとした」
嘘ではない。実際に買い物をしようとこの駅前を歩いていたのだから。嘘を吐いているとは感じ取られていないはず。一瞬だけ、今だけ風邪を引いてくれないだろうかと頭を過ぎる。
「何を?買っていかなくていいのか?」
「今は大丈夫」
「ふーん……?わかった。じゃあ帰ろう。今日大分冷えるから、ずっと外にいたら風邪引くぞ」
目をパチクリとさせたものの、深くは聞かれなかったことに安堵した。
炭治郎くんは話しながら、首元に巻いていたマフラーを解いて私へと巻きつけた。コートにファーが付いてるから心配ないのだけど、首回りが更にモコモコになって暖かい。
「寒くない?風邪引かないでね」
「俺は着込んでるから平気だよ。ああでも……」
着込んでいるのは、私も同じだ。でもその親切心を蔑ろにはできないので素直にご好意に甘えることにした。
炭治郎くんは斜め上辺りを一瞬眺めてから、再び私を見て口角を上げた。
「そうなったらまた甘やかしてくれるんだよな」
「……返答に困る」
甘やかすに決まっている。甘やかすけど、言葉にすると風邪を引けと言っているようにも聞こえてしまう。ぼやく私に炭治郎くんは小さく笑みを零してすまない、と謝った。それから私の冷えた手をとって歩き出す。
空いている方の手でぐるぐると巻かれたマフラーに触れる。口元を隠すと炭治郎くんの匂いが香ってくる。
「これ、名前入ってたんだね」
「ああ、うん。店の人と話してたら入れてくれたんだ」
マフラーの端には、まるでブランド名かのように『Tanjiro』と筆記体で刺繍されていた。お店の人と話してたというか、きっとその場で仲良くなったのだろう。私にはできない、炭治郎くんだからこそできる芸当だと思った。
「それより、帰りあまり遅くならない方がいいぞ」
「……だから、私は子供じゃないってば」
「だから子供として扱ってるわけじゃないって言ってるだろう?最近変質者が出るって言われているらしいし」
「それはこの辺りじゃないし、暴力とかではないっぽいし」
「暴力じゃなくても
が嫌な思いをするのは俺が嫌だ。許せない」
地下鉄のホームに最近変質者がでているとこの辺りでも噂になっていた。ニュースになっているわけでもないからそこまで気にすることではないとは思うけど、炭治郎くんは炭治郎くんで過保護なまでに私を心配する。勿論、嬉しいことに変わりはないけど。
横目で見た炭治郎くんは不満げに顔を顰めていた。
「私が嫌な思いをしたら、怒ってくれるの?」
「怒るよ。当然だろう」
「どんな風に?」
「え、うーん……、ぐわあっ……って」
「ふ、」
「わざとだな!」
恥ずかしげに頬を染めているのが街灯の明かりに照らされてわかった。くすくすと口元に手をあてて笑っている私を見て、炭治郎くんは不服そうにしながらも口元を緩める。
「ちょっと見てみたいかも」
「そんなこと言わないで早めに帰ってくれ」
「うん、そうする」
幸せだと思った。こんなに幸せでいいのかと、幸せなことに不安になってしまうくらいには。
いつまでも続けばいいと、差し迫る日に今は見ないフリをしていた。
chocolate