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コーヒーの香りにいつもなら癒され心を落ち着かせていたはずが、今はそんな余裕すらなかった。
炭治郎くんはいつだって私のことを想ってくれて、考えてくれて、自分のことなんて後回しにするような人なのに、離れてしまった後のことを考えて、信じ切れない自分が本当に嫌になった。
あんな奴に唆されて、私は何を言ってしまったのだろうか。炭治郎くんがああ言ったのだって、何も不思議ではない。別れた方がいいって、私が言ってしまったようなものなのだ。

「向日葵描いて~!」

メニュー表が広げられるカウンター越しで注文されるラテアート。クリスマスやバレンタインは季節ものの絵のリクエストが多かったけど、この人たちはいつも向日葵だ。
気に入ってくれているのは心から嬉しいのに、今日は上手く描けない気がして、マリーさんへ任せてしまった。こうして気持ちに左右されてしまっては、やりたいことがあっても民尾の言う通り、すぐに諦めるのではないかと腑に落ちてしまう自分がいた。
どうでもいいと思っている男の言葉がこんなにも頭の中に響いて浸透しているなんて、馬鹿みたいだ。
バイト中、何回溜息を吐いたかはわからない。何かあったのと聞かれてしまって、あからさまに気にしてほしい雰囲気を出してしまっていたようで心苦しかった。
下手くそな作り笑いを浮かべて、カフェを後にし、夕食も食べずにベッドへ横になった。手にしている携帯、一向に炭治郎くんからの連絡は来ない。
怒っているに決まっている。いくら炭治郎くんと言えど、人間なのだ。

「……会いたい」

無意識に呟いた一言を拾ってくれる人は、誰もいない。自分で行動しなければ、何も変わらない。
でも、纏まらないこの気持ちをどう伝えていいかもわからなかった。

「……、」

暗くなった画面に映る自分をぼんやりと眺めていれば、着信画面に変わり胸が飛び跳ねる。
その瞬間、炭治郎くんかと思ってしまったけど、そんなわけはなくて。それでも、普段かかってくることのないような人からの電話に身体を起こしながら通話ボタンを押した。

「こんばんは、甘露寺さん」
「おはよう~!突然ごめんね?」

電話をかけてきた相手は、甘露寺さんだった。ついつい時差があることを忘れてこっち目線で挨拶をしてしまったけど、向こうは早朝だ。
私が電話に出やすい時間にかけてくれたのかと思うと申し訳なく思った。
またこちらに来る予定があるのだろうか、大丈夫です、と返すと甘露寺さんはあのね、と朗らかな声色を変えて話し始めた。

「炭治郎くんと、何かあった?」
「え……」
「いきなりごめんね!宇髄先生が今そっちに行ってて、炭治郎くんと炭治郎くんの彼女のちゃん、すごくラブラブなんですよ~って伝えてたんだけど、喧嘩してたっぽいぞって連絡があったから……」

宇髄先生、確か、炭治郎くんと甘露寺さんが通ってた高校の美術の先生と話していたっけ。かっこいい人だと。
私はその宇髄先生とはまるで面識が無いから、炭治郎くんが宇髄先生と会って、私のことを話したのだろうと推測できる。なんて、話したのだろうか。
頭に浮かんでくるのはマイナスなことばかりだった。面倒臭くてもう付き合えないとか、別れたいだとか、今まで私が振られる時に言われてきたようなことばかり。このまま私が何もしなければ、きっと振られてしまうのは時間の問題だとも思っていた。

「あ、わ、私、お節介よね!?でも心配で……!」
「いえ、そんなことないです。嬉しいです」

炭治郎くんの周りの人たちは、こうして本当に温かい人が集まるのだろう。今の私は、その恩恵を受けているようだった。
反応のない私に甘露寺さんは不安に思ったのか慌てた口調になるけど、首を横に振りながら答えた。

「……大丈夫?」
「……、」
ちゃん?」
「私、炭治郎くんのことが、好きなんです」

込み上げてくる感情を抑えながら、ポツリポツリと電話越しに呟いた。今更、何を分かりきったことを言っているのかと思うかもしれないけど、甘露寺さんはそのまま黙って聞いてくれていた。

「それなのに酷いこと、信用してないようなことを、言っちゃって……」
「……うん」
「でも、向こうに行っちゃったら、本当にそうなっちゃうんじゃないかって、思わずにはいられなくて、そんな自分が嫌で」

炭治郎くんは何も悪くないのだ。全部私が悪くて、全部私の問題で。私が一人で、この気持ちをどうにかしなくてはいけない問題で。
改めて、わかっていたことを口にしようとすると手が震えてしまう。私は、弱いままだ。現実を受け入れたくなくて、いつも逃げ腰で生きてきた。

ちゃん」

私の話を静かに聞いてくれていた甘露寺さんの声が携帯越しに聞こえてきた。随分と落ち着いて、穏やかな話し声に嫌な動悸があった私の胸は幾らか治まってくる。

「あのね、言葉ってアートなの」
「……はい、」

表情はわからないけど、ふふ、と小さく息を漏らす音が聞こえて、きっと目を細めて頬を緩ませているのだろうと想像できた。
甘露寺さんが私へ伝えようとしていることの意図がわからず、ただ、そのおかげでどくどくと響かせていた胸の音は落ち着いた。

「絵を描いていてもね、人によってその絵を見て感じ方は違うと思うんだけど、でも、一番伝えたい人に一番伝えたいと思って描いたことって、絶対に気持ちが伝わるのよ」
「……」
「それはね、言葉でも同じだと思うの。私は、何かを上手く人に具体的に伝えることって苦手なんだけど、でも、上手く話せなくたって、気持ちは絶対に伝わるから」

自分の中で、どうすべきなのかはわかっている。炭治郎くんへ謝らなければいけないのも理解している。
ただ、その後が怖かった。その後のことを気にしてしまうと、今しようとしていることは無駄になってしまうのではないかって、後ろ向きな考えばかりだった。向こうに行っても、私のことをずっと想っていてほしい。でも、言葉にしてしまうと足枷になってしまうのではないかって。私よりも、ってずっとそのことが頭の中から離れなかった。
口を噤む私に甘露寺さんはそのまま続けた。

ちゃんは、炭治郎くんのことが好きなんでしょう?一番に想っているんでしょう?」
「はい」
「うん、そうよね!ラブラブで幸せそうだったものね!その気持ちさえ一番に伝われば、きっと上手く話せなくても、大丈夫」

胸の中できつく絡まった糸が、スルスルと解けていくようだった。自分の想いを素直に伝えたいということに、難しいことはないのだと。どんな伝え方をしてもきっと伝わるからと、大丈夫だと背中を後押ししてくれたのが、心強かった。

「炭治郎くんとちゃん、もう本当にほわほわー!ってした雰囲気で、素敵だなあって思ったのよ~!炭治郎くんのちゃんを見る目もね、すっごく優しくて、私二人の絵を描いてる間、ずっとキュンキュンしてたんだから」

穏やかだった声が、そのまま優しくはあるけどいつもの甘露寺さんの陽気な声に戻っていた。楽しそうに話してくれている様子が頭の中に浮かんでくる。
震えていた手もいつの間にかに止まっていて、私は一度息を小さく吐いた甘露寺さんの名前を呼んだ。

「ありがとうございます。少し、気持ちが楽になりました」
「本当?よかったわあ!二人ならきっと大丈夫だから!そうそう、喧嘩するほど仲が良い、とも言うしね!しすぎは良くないと思うけど……、でもお互いを知るのにはそういうのもあると思うから」
「はい」
「じゃあ、二人が仲直りする報告、待ってるわね!」

できたら良いけど、でも、できるように精一杯思いを伝えたい。纏まらないけど、炭治郎くんが好きだって気持ちは変わらないから、それを伝えて、謝りたい。まずは、私と会ってくれるか、という段階からなのだけれど。
甘露寺さんとの電話を切って、一度深く息を吸った。
ふと、部屋の戸棚に飾ってあった、甘露寺さんが描いてくれた絵が視界に映る。
ベッドから立ち上がって、キャンバスに描かれた自分を手に取った。甘露寺さんから見て、というのもあると思うけど、それにしても、随分と幸せそうに笑っているなと胸が熱くなった。
零れ落ちそうになる涙を拭って、意を決して炭治郎くんへ電話をかけた。コール音が止み、控えめに私を呼ぶ声が聞こえてくる。

「……こんばんは」
「うん。こんばんは」

とにかく何か一言発さないと、と口にしたのは他人行儀な挨拶だったけど、返ってきた穏やかな声に、炭治郎くんも様子を窺っていたのだとなんとなく察せた。
普段だったら、私は今頃炭治郎くんの元にいるだろう。こうして電話をすることさえ、なんだか久しぶりな気がした。出会った頃のような感覚を思い出す。
そうは言っても、たった数ヶ月前のことなのだけれど。でも、時間は関係なくて、それほど炭治郎くんと密度の濃い毎日を過ごしていて、私はそれを手放したくなかった。

「あの、会って話したくて……」

怒っていなかったことに安堵しつつも、炭治郎くんは根本が優しさで形成されているような人だから、私に気を遣っているという可能性も拭えなかった。
もしかしたらもう、怒りを通り越えて吹っ切れてしまったのかもしれない。
緊張に嫌な汗を掻いてしまうけど、電話の向こうで優しく頷く声が聞こえてきた。

「俺もそう思っていたんだ。場所、指定していいか?」
「……うん」

いつも通りな声に、さっき拭った涙が頬に伝ってしまった。指定された場所を聞いて、泣いているのがバレないよう声を振り絞って時間を決めて、また、と電話を切った。
真意なんてわからないけれど、当たり前のように触れていたその優しさが、いつも以上に心に沁みた。
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