ふと空を見上げれば、今日は雲一つない穏やかな日だった。下ばかり向いていたから気付かなかった。
穏やかな川の流れや微風が吹き木々を揺らす音が心地いい。
橋の塀にもたれ掛かりながら手にしていたパンを口にする。相変わらず美味しいのだけれど、改めて私を想って作ってくれたパンだと知ると少しばかり擽ったい気もした。
隣で私と同じくパンを頬張る炭治郎くんに視線をそっと向けると、瞳が交差した。何も言わずににこりと微笑まれてしまい、顔はそのまま、目だけ周りへ逸らした。
「パン屋さんみたいになってるね」
「うん、みんな笑顔で嬉しいよ」
橋の上では木の暖かい匂いに混じり、香ばしい匂いも鼻を掠めていた。さっき、周りが見えていなかった私たちのやりとりを目撃していた乗船場に並ぶ人たちから温かな言葉を贈られ、炭治郎くんは律儀に頭を下げていた。つられて私もぺこりと頭を下げつつ、到底一人では食べきれないほどの抱えていたパンを目にし、周りの人へ配るよう炭治郎くんへ提案したのだ。
私は初対面の人へそういう声をかけるのは苦手だったけど、炭治郎くんは流石というべきか、私の言葉に頷いた後、よかったら、と声を張り上げてパンを配り始めたのだ。お陰様で、今この橋の上ではみんな揃ってパンを頬張っている。
炭治郎くんの言う通り、みんな笑顔だ。沢山の人を笑顔にしたいって、炭治郎くんが話していたのを思い出す。誰かを想って気持ちが強く込められた、炭治郎くんにしか作れないパンでこうして沢山の人を幸せにして、それに少しでも私が役に立てたのであれば、心から光栄なことだと思った。
「おーい君たち!」
手にしていたパンも食べ終え、特に会話をすることもなく周りの景色や音、匂いに身を委ねていれば聞こえた声。人混みに紛れて私たちに手を振り駆けてきたのは、見覚えがあるようでハッキリしない。炭治郎くんを見ても私と同じような反応をしていた。
「さっきのキス!君が取り返してくれたカメラで撮ったよ!」
意気揚々と炭治郎くんに携帯の画面を見せる金髪の女性。首には立派なカメラを提げている。『カメラ』『取り返した』の単語で漸く誰なのか気付いた。民尾が盗んでいたカメラの持ち主だ。
炭治郎くんの横で私もその画面を覗き込むようにして見てみると、言葉通りさっきキスをしていた場面を丁度撮られていた。
ただ、それが太陽に反射して煌いている川の流れや遠目で見える塔など、周りの風景も相まってあまりにも綺麗な写真なことの方に驚きが隠せなかった。
「しかもすごい反響!」
「反響?」
「ほら!」
炭治郎くんが聞き返すと、その人は携帯の画面を操作し再び私たちへ向けた。
今しがた載せたばかりなのだろう、にも関わらず、その写真が投稿された画面の数字が見事なまでにぐんぐんと今も伸びていっている。
“アジア人が大喧嘩してたけど仲直りしてました”“いい場所にいい雰囲気だったので”とか、そんなような言葉も一緒に。
顔は炭治郎くんが私の頬に触れているからあまりわからないからいいのだけれど、特徴的なピアスでわかる人にはわかるのだろう。私に知り合いはあまりいないし、顔も鮮明にはわからないからいいのだけれど、炭治郎くんはよかったのだろうか。
「その写真貰ってもいいですか?」
「もちろん!良い写真撮らせてくれてありがとうね」
不要な心配だったらしい。炭治郎くんは嬉々としながら携帯を取り出しその人から写真を貰っていた。
カメラをこの人へ取り返したのは偶然に近いけど、人のために何かをすることは自分の為にもなると話していた炭治郎くんの言葉が骨身に沁みた。
「綺麗な写真……」
「
もいるよな?」
「うん」
自分がキスをしている場面であるのに、綺麗な写真だという感想が真っ先に出てくるのはやはりプロの腕があるからだろうか。
炭治郎くんから貰った写真を私も自分の携帯に映す。ロック画面、は流石に恥ずかしい気持ちが勝るけど、ホーム画面にしたいくらいには素敵な写真だ。
「もうあまり喧嘩しないようにね!」
「はい、最小限に努めます!」
最後にもう一度お礼を言って、その写真家の女性も風に綺麗な髪を靡かせながら笑顔で背を向けて去っていった。
その姿が見えなくなったところで私は炭治郎くんの袖を摘んで緩く引っ張った。
「しません、とは言わないの?」
口を尖らせながら、ジト目で見据えた。喧嘩をしないように、と指摘されて返していた言葉に引っかかってしまった。そこはズバリとしない、と宣言してほしいところだったのだけれど、喧嘩することは前提なのだろうか。
炭治郎くんは私に目を丸くさせた後、ふわりと頬を綻ばせた。
「何かあったら、我慢しないで怒ってほしいから」
「……私が?」
「ああ。
、あまり怒らないだろう?」
「え、怒りっぽいよ、私。心の中で怒ってる」
「怒ってたら匂いでわかる。怒るというよりは、諦めるだろう?」
袖を引っ張っていた手を放して温かい手に包み込まれる。
私より、私のことをわかっているのではないかと思わされる。強くしっかり握られた手から体温が伝わる。
「喧嘩はしたくないけど、例えしても好きなことに変わりはないし」
「……うん、」
「嫌なことがあれば怒っていい。怒っていいから、俺、
に一番に想われていたい」
そんなこと、もうとっくに実現している。私には炭治郎くんのことしか見えていない。いつもふとした時に考えてしまうのは炭治郎くんで、美味しいものがあったら一緒に食べたいなとか、綺麗な景色があれば隣で二人で見たいなとか、一人でいることが当たり前だったのに、ずっと炭治郎くんのことを考えている。
「沢山知っていこう」
「うん」
「俺の恋人になってくれてありがとう」
目尻を下げて私に微笑む炭治郎くんに、返事をする代わりに繋がる手の力を強めた。
そのまま炭治郎くんは逆の手で私の頭を撫でて顔を近付ける。もう唇が触れても周りは何も反応しないし、私も人前であるにも関わらずそれに慣れてしまった。
目と鼻の先で視線がぶつかる炭治郎くんの瞳はいつだって真っ直ぐで揺らがない。その綺麗な瞳に私が映ることが居た堪れなくなってしまう時もあったけど、炭治郎くんも、ずっと、私しか見ないでほしい。
「あ、」
「ん?」
もう一度、炭治郎くんが触れようとしたところで思い出した、大事なものを。
私が手を放して鞄の中を漁ると炭治郎くんも私から手を放す。取り出したものを炭治郎くんの前へ差し出した。シンプルなラッピングだけしてある小さい包み。
「お花ってお祝い事だけじゃなくて、誰かに謝りたい時にって聞いて、その通りだなって思ったの」
クリスマス間近、花屋のお姉さんが口にしていた言葉。謝りたいから、贈ろうと思って今日を迎える前に探し出したもの。もしかしたら、渡さないことになるかもしれないなんて思ってはいたけど、そんな心配いらなかった。
炭治郎くんは私が差し出したそれを受け取って中身を取り出す。
「お花そのものを贈ろうとも思ったけど、もう行っちゃうでしょ」
「……ありがとう!」
それほど高いもの、というわけでもないけれど。制服に付けられる、向日葵のピンブローチ。私に向日葵のピアスをくれたから、私も同じ花を贈りたかった。
喜んでくれるその表情に自然と私も笑みが溢れてしまう。
「
」
「うん?」
「毎日電話しよう」
「……してくれるの?」
「会えないんだから声くらい聞かせてほしい」
「……うん」
誰かに、こんなに想われることなんて、なかった。真っ直ぐこうして私を見てくれる人なんて現れないんじゃないかって、そう思っていた。
こっちへ来て、本当に良かったと心の底から身体中に染み渡る。
塀に預けていた背を起こし、柵に手を置き川を流れる船を瞳に映した。
「そうだ、聞きたかったことがあるんだ」
「何?」
「夢、あるのか?」
ゆらゆらと一定のスピードで船が橋の下をくぐっていく。その光景を見ながら、炭治郎くんがなぜそれを聞いてきたのか思い返す。喧嘩をしてしまう前に、夢がどうたらと話していたのだ。
「夢っていうと、ちょっと大袈裟な気もするけど……。勉強したいこと、かな」
諦めたくない、本気でやってみたいことが少し前からできていた。言葉にしてしまうと、それが自分の中で確固たるものになってしまう気がして誰にも話してはいなかった。話す人もいなかった、というのも勿論あるのだけれど。
いつも逃げ腰だったから、誰にも何も咎められないように口には出さずに、結局途中で諦めて。でも、そんな自分を変えてくれたのはこの人だから、包み隠さず話したい。
「それは?」
聞いてほしい、という気持ちを汲み取ってくれた炭治郎くんは私に目を細めながら首を傾げる。
爪先立ちになって炭治郎くんの耳元へ口元を寄せた。
「俺の店でやろう!今よりもっと一番の人気店になりそうだ!」
囁くように伝えた後、私の好きな眩しい笑顔を向ける。
帰る場所も、待ってくれる人もいないはずだったのに、炭治郎くんは私へ帰る場所までもをくれるのかと、その降り注ぐ日差しのような温かさに胸がいっぱいになった。
向日葵