いつもいつも、どこかで待ち合わせする時は炭治郎くんの方が早く到着していた。最近は私が落ち着かないばかりに家を早く出て待ち合わせに向かっているおかげで時間を持て余すことがほとんどで、今日もそうだった。
炭治郎くんが指定してくれたのは、秋に私が炭治郎くんへ好きだと酔った勢いで伝えてしまった場所。そして、この間私がキスを拒んだ橋の上だった。
永遠に結ばれるだなんて、巷で言われている迷信のようなものだとは理解できたのに、私とではないって、咄嗟に撥ね退けてしまった。
橋の上の丁度真ん中辺りに設置されている木製のベンチに腰掛けて、炭治郎くんを待った。橋の塀の向こうには変わらず船がいくつも進んでいて、その船へ乗るための人たちの列が乗船場からこちらの橋まで延びていた。
「
」
炭治郎くんが来たら、まず謝ろう。話はそれからだと、時間が近づくにつれ早くなる胸の鼓動を抑えるように深呼吸をしていると、聞こえた声に肩を震わせた。
「たん、う、え」
謝らないと、そう思って私が立ち上がるよりも早く、ガサッと紙の擦り切れるような音がして、香ばしい匂いに包まれた。ベンチに座る私に押し付けるように手渡された、両手で抱えるほどの大きい紙袋いっぱいに詰められたパン。焼き立てなのか、温かい。
温かいしいい香りなのは確かな事実なのだけれど、意図がわからず、困惑しながらそれを私へ差し出した炭治郎くんとパンを交互に見比べた。
「全部だよ」
「え、?」
「
に会ってから、
のことを考えて作ってきたパン全部だ」
穏やかな日差しが降り注ぐ中で吹いた風にピアスを揺らしている。
全部って、本当にこれ全部、だろうか。いくつあるのかわからないし、そんなこと聞いたこともなかった。でも、いくつかお店に並べてあるパンも袋の中に入っている。
私を見据える炭治郎くんの瞳はいつにも増して強さを感じた。
その表情を見て、あっけにとられて薄く開いたままだった口をそのままに謝罪でもない言葉を口にする。
「こんなに、食べられないよ」
「だろう」
「?」
「俺、このくらい
に対して重い愛があるんだ」
瞳を揺らす炭治郎くんに私は黙ったまま、無意識に紙袋をギュッと抱え込んだ。どこかに置いたりしたら、そのまま倒れて溢れてしまいそうだった。ずっと手にしていないと、逃げていってしまう。それほどまでに袋一杯に詰められていた。
「一緒に連れて帰りたいと思ってる」
心の準備はしていたのに、実際に炭治郎くんを目の前にしていること、予想だにしていなかった言動に胸がどくどくと跳ねている。
炭治郎くんは眉を下げて、バツが悪そうに口を噤んだ後、一度瞳を伏せてから口を開いた。
「本当はそう思っているんだ。心の底から。でもそんなことはできないし、俺は君のことが心配で心配で堪らない」
「…………」
「誰にもとられたくないんだ。形だけでもそうしたいのに、君は俺が贈ったピアスは一向にしないし」
「え、いや、それは失くしたくなかったからで、」
「失くしたらもう一度贈る!俺のものだって思いたいんだ」
大切だと思っている人から、プレゼントを貰ったのは初めてだった。だから、大事に、絶対失くしたくないと思ってずっと部屋の引き出しに仕舞ったままだった。いつかが来た時、あの時だけでも私は誰かから愛されていたと、それを見れば思い出せるから。悲しい思い出になってしまうかもしれないけど、忘れたくない人だから。
「……炭治郎くんのものにしていいって、言ったじゃん」
謝るつもりだったのに、私は離れていてもずっと炭治郎くんのことが好きだと、そう伝えるつもりでいたのに、あまりにも突拍子もない炭治郎くんの勢いに口から予定していなかったことが溢れでた。
「そんなこと、できるわけないだろう」
「どうしてよ、私が良いって言ってるでしょう」
「
はものじゃない」
「俺のものだって思いたいって今言った!そうしてよ」
「それは俺の我儘なだけであって、そんなことは許されない!例えそれでそばにいてもそれは俺が縛り付けているだけになる!」
「そんなことない!私が許してるんだからいいでしょ、どうしてそんなに頭硬いの!」
「それは生まれつきだ!」
「そうじゃない!」
喧嘩なんてするつもりでなかったのに、なぜか口喧嘩になってしまっていた。
声を荒げながら、分からず屋のこの人の前へパンを抱えたまま立ち上がった。冷静で入られたら、きっと周りにいた人たちがこちらへ視線を向けているのにも気付いていただろうけど、折角のいい景色も何もかも、まるで見えていなかった。
パンを抱えなおして、私は香ばしい匂いが入り混じる空気を吸い込む。
「私の方が、心配してる」
「……いや、俺の方が、」
「炭治郎くんはモテるじゃない!」
炭治郎くんの言葉を遮って言い切った私に、炭治郎くんは目を丸くさせながらも全く心当たりがなさそうに言い返した。
「モテてたら女の子に平手打ちなんて受けない!」
「それは例外!人タラシだって言われてるんでしょう」
「それとモテるは違うだろう!」
「同じ!」
「なら、君だって!」
微妙に空いていた距離を一歩縮められ、思わず一歩下がってしまった。避けたわけではない。押し寄せる勢いに圧倒されて。
ただ、炭治郎くんにそんなことが伝わっているわけもなく、逃げられると思ったのか私へ距離を詰め、パンを抱える腕を掴まれた。
「君は、自己評価が低いから誰かに言い寄られたら誰でも好きになってしまいそうで、俺はそれが怖いんだ」
「そんなこと、」
「ある!実際、俺は結構押した!そうしたら好きになってくれただろう」
「それは、そうかもしれないけど……」
炭治郎くんの言う通り、出会ってから付き合うまで、炭治郎くんから声をかけてくれることがほとんどで、それだけで好きになってしまったという事実は否めない。それは認めなければならない。でも、好きな人がいる時に、万が一誰かから言い寄られたとしても靡くわけがない。
私にとって炭治郎くん以上の人なんて、できるわけがない。
炭治郎くんにとっても、私以上の人はできてほしくないのだけれど。言いたいことは他にあるのに、結構押したと詰め寄る炭治郎くんに私は口を尖らせた。
「それにしては、全然手出してくれなかったよね。女の子から誘わせるってどうなの」
「それは、簡単に女性に手を出す人間だと思われたくなかったからだ」
「家族思いの人が好きって友達から聞いても何も私に聞かなかったし」
「俺って聞いて違ったら恥ずかしすぎるだろう!」
「ここで私が炭治郎くんに好きって言ったのだって聞こえてたでしょう!」
「あの時君は酔ってたじゃないか!」
「冗談かそうじゃないかなんて匂いでわかるんじゃないの!」
「わかっても好きな子が相手なら、本当なのか悩むだろう!冷静にはなれない!」
掴まれている腕の力が強くなってたじろいだ。炭治郎くんは、ずっと私のことをまっすぐ見てくれている。すぐに逃げ出してしまう私とは対照的な人で、私なんかすぐに忘れ去られてしまうだろうって、思ってしまっていた。でもこの熱く揺れる瞳を目にして、そんなことを思ってしまう自分が情けなくなった。
「信じてくれないか、俺のこと」
「……炭治郎くんは、私の何がよくて好きになってくれたの」
自分のことが嫌いなことが、信じることができない一番の原因だった。かといって、突然好きになることだってできない。
でも、私が自分のことを肯定できない代わりに、炭治郎くんがそうしてくれるのなら、それだけで安心できると思った。
「…………」
「……え、ないの……?」
炭治郎くんは私をじっと見つめたまま、口を開かない。難しそうな表情を浮かべている。不安げにする私に気付いて目を開いた後、瞳を伏せてから呟いた。
「きっかけは、俺にジェラートを奢らせたあの日だったけど、でも、知っていきたいなって思って、そうしていく内に好きになってた」
「……」
「これと言った理由はないかもしれない。だけど、好きなんだ」
さっきまでの勢いはなくなって、よく見るような、眉を下げて困ったように笑みを浮かべる表情を私へ向けた。
掴まれていた腕の力は和らいでいる。
「だから好き、とかはすぐに思いつかない。勿論、たまに甘えたになる時とか、会えない日にこっそり店に来てパンを買って行ってることとか、」
「っ、なんで知って、」
「そういうのはいくらでもでてくるけど……、でも、理由なんてなくたって俺は
が好きで、どんな
でも好きなんだ」
頭上から降り注ぐ日差しに川の煌めき、辺りから香る木とパンの匂い。全部が炭治郎くんの味方をしているように、その笑顔が私の視界を独占した。
もしも、理由があったならば。きっと、それこそその条件で他の子が現れたらと、私は勝手に比べてしまって、自己嫌悪に陥ってしまうのではないのだろうか。
「なあ
。俺に愛されてるってことは、
が自分自身を好きになることに、何の役にも立たないか?」
胸の奥底から込み上げてくる波を必死に抑えていた。少しでも気を緩めてしまえば、私が伝えたかったことも伝えられずにその波が溢れてきてしまいそうだった。
「
は俺にとって、みんなの中の一人じゃない。俺が誰よりも、一番
のことを愛してるから」
──私が誰かから一番に想われたいだけ
炭治郎くんが真正面から私に告げる言葉に、前に自分で口にしたことを思い出した。
誰かに、一人でいいから、特別に思われたかった。愛されたかった。ずっと、叶わないことだと思っていた。
「わた、しも、」
「…………」
「私も、愛してる……っ、ごめん、ごめんなさい、」
炭治郎くんに愛されてることが、役に立たないなんて、そんな筈あるわけない。役に立つに決まってる。決まってるよ。
だって貴方は、私にとって唯一無二の、太陽のような人なのだから。
「先に帰っても、おかえりって、私のこと、待っててくれなきゃいや……、ずっと、ずっと愛していてほしい……っ」
伝えたかった言葉は、込み上げてきた涙と一緒に外へ溢れでた。
誰かに恋をして、嬉しくて胸がいっぱいになって涙を流すなんて初めてだ。
泣き顔なんて見られたくなくて、パンに涙が零れ落ちないように炭治郎くんから顔を逸らしながら声を振り絞った。
「手、塞がっ、て、涙、拭けないっ……」
「俺がいるから、大丈夫」
放すことができない紙袋に詰められた想いのおかげで、涙は頬に伝ったまま。
そんな私を包み込むような穏やかな声で、腕を掴んでいた手を離して、肩に手を置いて片手は頬に添えられる。溢れる涙を親指で拭われて、優しく炭治郎くんの方へ向かされる。
ゆっくりとそのまま近付いてきて、鼻先がぶつかりそうなところで一度止まり、温かな瞳に自分の姿が映る。
「ずっと愛してる。永遠に。だから、今度はさせてくれるよな?」
誰かから、聞いたのだろうか。それを聞いてなお、あえてこの場所を選ぶなんてちょっとずるい。それでいて少し頑固なところもあって、でもやっぱり底抜けに優しくて。
「約束しよう」
そんな炭治郎くんが、私にとっても堪らなく愛しい人だと想いながら瞳を閉じた。
愛しい人