抜け殻
一人で不安に思っていたところで何も変わらないのはわかっている。何しろ炭治郎くんは私がそう思っていることに気付いているし、心配をかけることだってしたくない。頭ではわかっているのものの、それなら一度話した方がいいのではないかと思い浮かぶけど、話したところで何も変わらない。炭治郎くんがここに留まってくれるわけでもないのだ。
小さく吐いた溜息は、冷たい空気の中に溶け込んでいった。
溜息を吐くと幸せが逃げていく。でも、炭治郎くんからその分幸せが貰えるから、なんて話していたことを思い出した。随分、楽観的だったなと自嘲した。

~!」

二度と耳にしたくない声に肩を震わせた。早めに着いてしまった地下鉄への階段前で炭治郎くんを待っていると、忌々しい男が私に腕をひらひらと振りながら階段を登って歩み寄ってきた。
炭治郎くんも来るし、構わないでほしいと無視して人混みの中へ逃げようとすれば腕を掴まれ阻まれる。

「俺のことブロックしたよね?俺こっちに知り合いいないんだからそんなことしないでよ、寂しいじゃん」

思ってもないことを口にする民尾に心底嫌気が差した。その寂しいはあくまでもおもちゃがなくなったことに対する寂しさで、一人でいる自分に対してではない。
相変わらず首には高価そうなカメラを提げている。どこかでこのカメラを探している人がいるのではないか。
私があからさまに顔を歪ませていると、その反応に民尾は口角を上げた。

「ああその嫌がる顔、すごくいいよ」
「ちょっ撮らないでよ」

手を放したかと思えば、持っているカメラを構えて間近でシャッターを切られた。カシャ、と鳴った後にすぐ私の腕を掴み直す。振り払おうとしても力が強くて振り払えない。

「そうだ、との思い出を振り返ってたらこの写真見つけてさあ。あいつともこんなことしてるの?写真撮りたいなあ」

こいつとの思い出なんて何もない。ただ付き纏われて、つまらない人間だのなんだの言われていただけだ。
何かを思い出したように片手で携帯を弄りその画面を私へ見せた。一番最初にこいつに撮られた、彼氏に駅で盛られている写真だった。まだ削除もせずに残していたことが疎ましい。
あいつ、というのは炭治郎くんのことだろう。そんなことをする人じゃないのに、そう思われていることが不快だった。

「消してよ。持ってたってしょうがないでしょ」
「ええ?嫌だよ」
「なんでよ」
「そんなの……」

意味深に目を細めた後、掴んでいる私の腕を引っ張って、もう片方の手で肩を掴み耳元に顔を寄せた。

「君が嫌がるからに決まってるじゃないか」

囁くように言葉にされて、全身に身の毛がよだつ感覚がした。私がこうして嫌悪する反応が、楽しくて楽しくて仕方ないのだろう。本当に、いい性格をしている。
私がもっと、強い人間であればこの男に付き纏われることもなく、順風満帆な暮らしができていたのだろう。けれども、実際この男の一言一言に左右されてしまっていた。今だってそうだ。
この男に会わなければ、私は楽観的に考えていたあの時の気持ちのまま、なんとか笑顔で炭治郎くんを見送ることができていただろう。

「やめてくれないか」

されるがままに立ち尽くしていると、聞き慣れた声がした後、ぐい、と身体が民尾から離れた。私の肩に置かれていた手が払われ、掴まれていた腕をその人が掴み返していた。

「俺の恋人なんだ……、って」
「……ああ、見つかっちゃった」
「お前……!」

私を引き寄せた炭治郎くんは民尾を見て目を丸くさせた。知り合い、っぽいことは前に民尾が呟いていた。炭治郎くんの反応を見て、お互いに顔見知りだったことが窺えた。
面倒臭そうに民尾は息を吐くが、私の腕は放さない。だからか、炭治郎くんも民尾の腕を放さなかった。

「何?君、また俺の邪魔するの?」
「それはお前が人に迷惑をかけるからだろう!手を放せ」
「いてて、痛いって。わかったわかった」

ぐ、と炭治郎くんが掴んでいた手に力を込めるのが、民尾の服に皺が寄ったことでわかった。私の腕を放すと炭治郎くんは私を民尾から遠ざけるように引き寄せる。

「……知り合いなの?」
「知り合いというか、電車で迷惑行為をしていたから止めてたんだ。高校の時」

炭治郎くんは敵意のようなものを浮かばせながら民尾を睨み付けている。こんな炭治郎くん、見たことがなくて、普段怒ったりしない炭治郎くんをこうまでさせる民尾に心底軽蔑した。こいつの変態行為は、高校の時からだったのか。
民尾は炭治郎くんと私を交互に見て、鼻で笑った後、炭治郎くんを指差した。

「高校の時は正義感振りかざしてたけどさあ、どんどんどうしようもない人間になりそうだね、君」
「どういう意味だ、わけのわからないことを、」
「類は友を呼ぶって言うでしょ?みたいなのといたらクズが移る」

心臓がどくりと跳ねた。
わかっている。こいつは私にどん底を味合わせたいだけだということを。
それでも、間違ったことは言っていない気がして、核心突いたことを言われている気がして、唇を噛み締めた。

はお前が言うような人じゃない」
「へー、何を知ってるんだか」
「お前こその何を知っているんだ」
「え?うーんこれとか?」
「、!やめてよ!」

嘲笑うように嫌な笑みを浮かべながら炭治郎くんへかざした携帯。奪うように手を伸ばしたけど、腕を高く伸ばされ届かない。炭治郎くんを見れば、その携帯の画面に映る写真を見ていて、恥ずかしさと情けなさが胸に押し寄せた。

「場所も弁えず駅でこんなことしちゃうんだよ。ああ、もしかして君、のこういうところがいいと思ったの?顔と身体だけはいいよね」
「……やめて。私はいいけど、炭治郎くんのことまで悪く言わないで」

携帯を奪うのを諦めて、俯いて呟いた。
隠していたわけではない。でも、そういう人間であったことを改めて痛感させられて、炭治郎くんとは全く、違う世界の人間なのだと思い知らされた気がした。

、」
「よかったね。仲間ができるよ、クズ仲間。何もできない、誰からも信用されない、夢も希望もない仲間が」
「、夢は、」
「ああ、あるんだっけ?じゃあまた絶望するんだね、その時は俺に教えてよ。抜け殻の君が大好きなんだ」

私はなんと言われようが良かった。その通り、ダメな人間だったから。いや、ダメな人間だから。
でも、それは私だけの話で、炭治郎くんはそんなこと一欠片もない。だから、私といることでこうまで言われてしまうことが苦しかった。
既に何も抵抗できなくなった私に民尾は携帯の画面を私へ見せた。

「だってその時の君、何でもさせてくれるでしょ。こんな風に」

言葉が出なかった。身体に力も入らなかった。
声高らかに愉快そうにする笑い声が頭上から降ってくるのが耳に鳴る。

「……しろ」
「え?」
「いい加減にしろクソ野郎!!」

頭の中で何も考えられなくなっていた時、怒気の混ざったような低い声が聞こえたすぐ後、炭治郎くんからは信じられない言葉が飛び出してきて顔を上げた。
すると、それと同時にゴチッと鈍い音が鳴る。悲鳴のようなもの上げた民尾がその場に倒れて、炭治郎くんが頭突きをしたことが理解できた。
周りの人たちがなんだなんだと騒ぎながらも、炭治郎くんは気にせずに放られた携帯を拾い、その画像を削除していた。

「あ!それ私のカメラ!!お巡りさん!見つかりましたこれです!こいつ!!」

交差点の向こう側から横断歩道を渡りこちらまでかけてくる女の人と警察官。やっぱり盗んだカメラだったらしい。炭治郎くんはその声に気付いて気絶している民尾から奪い取りどうぞ、と手渡していた。
ありがとうございます、と感謝されているその様子を眺めていると、炭治郎くんがこちらに振り向いた。

、」
「、……あ、ごめん、違くて」

眉を下げて私の手を取ろうとする炭治郎くんの手を、思わず払ってしまった。
悲しい顔を、させたいわけではないのに、私といるとクズが移るだとか、自然消滅だとかすぐに別れるだとか、周りから言われた言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡っていた。

「何か言われていたんだな。すまない、気付けなくて」
「……謝らないで。炭治郎くんは悪くないの」
「俺は、って」
「私、本当、ダメな人間だから」

思えば、何か変わったのかと問われたら、私は何も変わっていない。ここへ来て、炭治郎くんのことを好きになっただけだ。
ダメ人間に、好きな人ができただけ。たったそれだけのことで、私は自分が変われた気になっていた。馬鹿みたいだ。

「ダメじゃない。自分のことを卑下しないでくれ。俺がいるからって言っただろう?」

周りがいるから、強くなれたと話していた。それは、炭治郎くんのような人だから、そういう人が周りに沢山いるのだ。私には例えば、今警察に連れて行かれているような人間がいて。類は友を呼ぶだなんて、本当に的を得ていると思った。
炭治郎くんといれば、強くなれると思っていた。でもそれは違くて、私は炭治郎くんに守られていただけだった。それで、変われたのだと錯覚していただけだった。

「……いないじゃん」
「え、」
「もうすぐ、いなくなっちゃうでしょ」

違う。こんなこと言うつもりなんてなかったのに、頭が上手く働かなくて、子供のような考えを口走ってしまう。
私と離れてしまえば、私のような人間よりも素敵な子が現れて、きっとその子との方が上手くやれるし、炭治郎くんにとってもいいのだろうと、自分で考えて胸が苦しくなった。

「なにを、」
「炭治郎くんは、マカロンちゃんと別れてすぐ彼女ができたでしょ」
「マカロンちゃん?」
「炭治郎くんのことを思ってくれる人は沢山いて、そこに私がいなければ、いや、いたとしても……」

私は、炭治郎くんを好きになる大勢の中の一人でしかなくて、運良く炭治郎くんが私のことを好きになってくれただけ。今は周りにそういう人が少ないだけで、向こうに帰れば、私の存在なんて霞んでしまうほどには素敵な子が沢山現れるだろう。炭治郎くんのような人だから、きっとそう。

「……は、俺のことを信用していないのか?」

告げられた言葉に炭治郎くんを見上げると、怒っているわけではない、眉を下げて切なげな表情を浮かべていた。
私は、何を驚いているのだろう。炭治郎くんがそう思うのは当然のことだ。だから炭治郎くんに話したって何も変わらないし、むしろこんな表情をさせてしまうことはわかっていたのに、言わなければ良かった、だなんて後悔は今更遅い。

「そんな風に思われるのは、嫌だな」
「……ごめんなさい。このまま私といたら炭治郎くん、嫌な気持ちにさせちゃう」
「……」
「私とは、いない方が……」

元々、畑違いな場所にいる人だったのだ。私に手を伸ばしてくれた炭治郎くんの手をとってしまったけど、私といても炭治郎くんにとっていいことなど何一つない。
そう思っているのに、その言葉を紡ぎたくなくて、仄めかすようなことだけしてしまう。

は、俺が帰る前に、離れた方がいいって言うのか?」

口籠る私に、炭治郎くんは小さく呟いた。自分が言おうとしていたことなのに、はっきりとそう口にされて胸が苦しくなった。

「あ、いや、今のは……、」
「今日は、帰るね」

私が瞳を揺らしたのを見て、我に返ったような素振りを見せた炭治郎くんに一言呟いて、足早にその場を後にした。
どうして私は、こんなに面倒臭い女なんだ。
本当に、嫌いだ。自分が。
抜け殻