学校もバイトも入っていない日、いつもより服も悩んで髪もセットして化粧にも時間をかけた。その割には、最後の方では『まあこれでいいか』なんて思ってしまう自分がいた。
そんな心持ちでいることに、炭治郎くんへ申し訳なさを感じながら待ち合わせ場所まで向かう。落ち着かなくて早めに出てきてしまい時間が余っている。
川沿いを歩いていると、前方の美術館がある方から見覚えのある二人が歩いてきた。
「ねえさっきの聞いた?『この橋の上でキスすると永遠に結ばれる』だってよ、乙女~笑っちゃうわ」
元々背が高そうであるのに加えて10センチ以上ありそうなヒールをカツカツと響かせて石畳の上を歩いている。カフェでいた勝気気味の女の子だ。隣には相変わらずその子を優しい目で見ている男の人。
確か、美術館でもファッションショーが開かれている。そのすぐ側に橋があるから、観光客も多い今、日本語でそういうことを歩いてきて耳にしたのだろう。
「お前には関係ねえなあ、勝手に男がついてくるからなあ」
「そうそう、私ブスの考えることはわからないのよね~……ちょっと」
本当にその子のことが好きで、大切にしていることが表情から滲み出ている。ぼんやりとその人のことを眺めていると、女の子の声に合わせてその男の人がこちらへ顔を向けた。
「あんた何見てんのよ、うちのお兄ちゃんは渡さないわよ」
「え、あ」
自分が見られることには慣れていて気にもとめなかったはずが、お兄さんを見られることには敏感だったらしく、女の子は私の元までカツカツと歩み寄り人差し指を立てながら顔をずい、と近付けた。瞳はくりっとしているけど大人っぽい顔立ちに見惚れてしまいそうになる。
というか、彼氏ではなくお兄さんだったことに驚いたけど、妙な納得感もあった。お兄さんの表情に既視感があったのは、炭治郎くんのように見えたからだ。
けれど、つまり私はこの兄妹に私たちを重ねてしまったことになる。
「あ、カフェの女じゃない」
「こんにちは……」
顔を寄せたことで気付いたのか、元々大きな瞳を更に少しだけ大きくさせていた。接し方がわからずに、一応小声で挨拶を返す。
顔を放してふん、と腕を組むその子。確か、梅、って言っていたっけ。なぜだか上から下までまじまじと見定められているように視線を動かされ、首元で瞳が止まる。それからふーん……と目を眇めた。
「梅、行くぞ」
「待ってお兄ちゃん。ねえ、ちょっと話していきましょうよ」
「え、私?」
「他に誰がいんのよ。私に声かけてもらえるなんて限られた人間しかいないんだから喜びなさいよ?」
もう行くぞ、とどこかにバイクが止めてあるのだろう。鍵を謝花さんへチラつかせるけど、私の手首を掴んで近くの木製のベンチへ引っ張った。お兄ちゃんコーヒー買ってきて、とお願いしている。
「ほら座って座って」
「いや、えっと、……梅、さん」
「うわ、ムズムズするからさんはいらない。男とブスは除外だけど」
「じゃあ、梅ちゃん。私あまり長くはいれないんだけど……」
「ちょっとって言ってるでしょ」
ベンチに座った梅ちゃんは脚を組んで得意げな表情を見せて私を見据える。その様子に私はなぜだか断ることができずに、言われた通り隣に座った。思ったよりベンチが冷たくて驚いたけど、この子は季節関係なく服を着ることがおそらく多く、冷たさとか寒さに慣れているのだと少しだけ感心させられた。
「あんた彼氏は?」
「います。梅ちゃんはいるの?」
「私は彼氏なんて面倒臭いのはいらないの」
美人が言うと、やけに説得力がある。負け惜しみとかではなく、本当に面倒臭いと思っているのだろう。あんなに優しいお兄ちゃんもいるのだし。近くの自販機でコーヒーを一つ買ってこちらへ歩いてくる。
ほら、と梅ちゃんにそれを渡して少し離れたところで川沿いの塀に背中を預け私たちの様子を見守っていた。私たち、ではないか。梅ちゃんの、か。
「彼氏、そのマフラーの男?」
「あ、うん。そう……」
「見せなさいよ。顔はいいんでしょうねえ」
「私はいいと思うけど……、でも顔で付き合っ、」
「見せて!」
自分の恋愛に興味はないけど、人並みにそういう話は好きなのだと、食い気味に嬉々とした表情を見せながら詰め寄る姿にそう思った。
見せてと言われても、写真はあっただろうか。鞄から携帯を出して写真フォルダを見返す。ソファーでうたた寝しているところを隠し撮りしたのがあるけど、これはちょっと見せたくない。
ああ、そうだ、と写真フォルダは閉じてあるアプリを一つ開いた。
「この写真の人。髪が赤みがかってる」
「……へえ~…………」
梅ちゃんの瞳に映る画面には、炭治郎くんのアカウント。アイコンの写真を見せれば当たり障りはないと、三人が映っているのを見せたけど梅ちゃんは口端を上げて愉しげにしている。
「まさかとは思ったけどねえ……」
梅ちゃんから見ても、炭治郎くんは『顔が良い』類に入るのだろうか。炭治郎くんをあまり悪く言われてしまうのも嫌だけど、梅ちゃんの気になる人として認識されてしまうのも私としては嬉しくもあるけど結構複雑だ。
梅ちゃんに向けていた携帯を引っ込めて、改めてそのアイコンに視線を落とす。私には、やっぱりかっこよく見える。
「別れた方がいいわよ」
「え、」
先程までの、新しいおもちゃを買ってもらった子供のような勢いではなかった。梅ちゃんを見ると口元には笑みを浮かばせたままだけれど、その瞳は冷たく感じた。
「コミュ力高くてみんなの人気者ー、みたいなやつでしょ?そいつ」
「……そう、かも」
「疲れるわよ。温度感違うと長続きもしないし。どうせ別れるんだから、今別れといた方が綺麗さっぱり。あと、あんな不細工じゃなくてあんたもっといい男手に入れられるわよ」
淡々と告げて、梅ちゃんは買ってきてもらったコーヒーをぐい、と喉に通す。不細工って、炭治郎くんのことなのだろうけど、それよりも写真から性格が滲み出てわかったのだろうか。梅ちゃんの嫌いな人と似ていたりしたのだろうか。ただそんなことよりも、長続きしないと言われてしまったことが胸に痛んだ。
「タカってくる女が多いんだからすぐ別の女作るわよ、そういう奴は。男なんてそんなもん」
つまらなそうに息を短く吐いた後、髪を払いながらそう口にした。
炭治郎くんは、そういう人ではない。浮気とか、そんなのは絶対しない。それは理解している。
でも、他に好きな人ができてしまうかもしれないということは、炭治郎くんであろうと可能性はゼロではない。どれだけ私が炭治郎くんに想われているかもわからない。向こうに帰れば、炭治郎くんのことが好きで、私なんかより面倒臭くもない可愛らしい女の子が近くにいようものなら、気持ちが揺れ動いたって不思議ではないのだ。
私がどんなに炭治郎くんのことを好きでいても、同じようにそう思ってくれるかなんて、そんな保証はどこにもない。炭治郎くんが私に言ってくれたように、炭治郎くんだって私のものではないのだから。
「ま、いい男できるって!じゃ、それ片しておいて」
俯く私の肩をポンっと叩き、コーヒーをベンチに置き去りにしたままお兄さんが待っている方へ陽気に駆けて行った。
相変わらず、キツめの香水が梅ちゃんが今までここにいたことを強く物語っている。
そろそろ待ち合わせ場所に行かないと遅刻してしまう。のそのそとコーヒーを持って緑色のゴミ箱へ片し、船着場へ向かっていると後ろから肩を叩かれた。
気が動転して慌てて振り向くと、肩を叩いた本人を少し驚かせてしまった。
「ごめん、そんなに驚かせるつもりはなかった」
「いや、ごめん。大丈夫」
ちょっと考え事をしていて、と炭治郎くんへ眉を下げて笑って見せた。ちゃんと笑えているだろうか。
顔を上げた先の炭治郎くんはうっすらと口を開けたまま。それからハッと我に返ったように微笑んだ。
「やっぱり、
は綺麗だな。隣を歩くのに気が引けてしまう」
「……、そんなこと言わないで」
「手繋いでもいいか?」
「なんで聞くの」
「いつもより大人っぽく見えて、緊張して」
それは、あなたに良く見られたいから時間をかけていつもよりも丁寧に施した結果。褒めてくれているはずなのに、隣を歩いてくれないとは言っていないのに、いつも通りでないことに不安を覚えてしまった。
炭治郎くんは私の手を取り歩幅を合わせて隣を歩く。
「香水も変えたのか?」
「?」
「いつもと違う香水の匂いが混ざってる」
香水、つける時とつけない時があるけど、変えてはいない。混ざってるのはおそらく梅ちゃんがつけていた香水の匂いだ。
「知り合いと会って」
友達、というべきではない関係な気がしたから、一番当てはまるような言葉を選んだ。連絡先だって交換しているわけではないから、もう今後会うことになるかはわからないけど。いつかあの子が今よりもっと有名になった時、少しだけ自慢になるのかもしれない。
炭治郎くんはそうなんだ、とそれ以上深掘りはせずに、指をぴったりと絡ませた。
楽しみであったはずなのに、船の上では随分と上の空だった。テレビで見た美味しそうな料理の味もあまり覚えていない。大好きな人が目の前にいるというのに、私を喜ばせようとしてくれていたのに、申し訳なさで一杯だった。
船を降りた後、周りのカップルは幸せで包まれたような人たちばかりなのに、私は炭治郎くんを嫌な気分にさせてしまっただけだ。
「
」
船を降りて、来た時のように手を繋いで橋の上をゆっくりと渡っていく。最後に降りたから、周りに人はあまりいない。
炭治郎くんは私を呼んで歩みを止めた。振り返ると、繋いでいない方の手を頬に添えられる。暗くて、まだ目が慣れなくて定かでないけど、眉を下げて苦しげな表情を浮かべていた。
そっと近付いてくる炭治郎くんに、瞳を閉じようとした。
──『この橋の上でキスすると永遠に結ばれる』だってよ
その前に、思い出してしまった言葉。
ギリギリのところで反射的に肩を押し返してしまった。
「……
、」
「止まらなくなっちゃうしほら、寒いから。早く帰ろう」
苦し紛れに嘘を吐いたことなんて、見抜かれているだろう。でも、私が聞いて欲しくないことは、炭治郎くんは聞かないから、それを利用してしまった。
触れられていた頬に一筋何かが伝うのを感じて、心底今日は月明かりもない日でよかったと、真っ暗な夜空を見上げた。
新月