地下鉄では電波は一切繋がらなくて、その為読書をしている人が多いということをここへ来て初めて知った。けれど読書が好きなわけではなく、読者しかすることがない、が大方らしい。
それでも、理由はどうであれその光景はいつ観ても様になっていて、雰囲気だけで日常的に異国の文化に触れ合えている気がした。
そんな中で、最近はファッションショーが近いからか、日本にいた頃テレビでよく観ていた人が普通に電車に乗っているのにたまに遭遇して、ついまじまじと見てしまう。秋は電車で周りを見ている余裕はなくて辞書と睨めっこだったけど、まだまだ新しい発見がある。
暖房がついてほかほかとした暖かい空気が流れる電車を降りると、冷たい空気に襲われ途端に身体が冷える。
首元に巻いているマフラーで口元を覆った。まだ炭治郎くんの匂いが残っている。すぐに交換してくれたけど、飛行機に乗る直前とかまで持っててもらえばよかったかな、なんて匂いが薄くなっていくことに寂しさを感じてしまう。
階段を上り、携帯の電波が戻ったところで叔母さんへ電話をかけた。今日炭治郎くんの元へ泊まるって言っていなかった。
「あら、それならグレープフルーツが沢山あるから持っていってほしかったのに。炭治郎くん食べるでしょう?」
「うん、食べると思うけど」
メッセージだけでもよかったけど、炭治郎くんが家に来てから、なんとなくこうして少しでも電話をするようにしている。その方が親孝行をしている感じがして。
炭治郎くんが家族で仲が良いのを傍で見ていた影響かなとも思ってしまう。
「明日で良ければそっちに持って行こうか?」
「え、いいの?」
「
ちゃん、数日帰ってこないでしょう?」
「あ、うん……もうすぐ帰っちゃうから一緒にいたくて」
「ふふ、じゃあ明日持っていくわね。丁度そっち方面に用事があるから」
「ありがとう」
炭治郎くんにも伝えておいてね、と一言付け足され、それに頷いてから電話を切った。
自分の恋人事情とか、今まで周りに話すことなんてまるでなかったから、炭治郎くんのような人と想いを通じ合えて、周りにも隠すことなんてせずに打ち明けられることに新鮮さを覚えていた。
裏切られるのが怖くて何でも言うことを聞いて、それでいて浮気をされて。あの頃は、人に言えるような恋愛をしていない、というのを頭の片隅で理解していたのだろう。こんな人間に興味があるような人は、面白がって付き纏ってくるような奴だけだった。
炭治郎くんと会えて、本当に良かった。心から幸せだと思う。眩しさに目を眩ませてしまうことがあるけど、離れていても私はきっと、ずっと炭治郎くんのことしか考えられない。
「ねえ
、連絡したのに無視なんて酷くない?」
階段を登り切って、どんよりとした曇り空の下に出た時だった。聞き覚えのある声に、嫌な思い出がフラッシュバックした。胸がどくりどくりと跳ねる。
きっと何かの間違いだ、幻聴だ、一瞬過去を思い出してしまったから頭の中でそいつの声が響いてしまったのだ。
そう言い聞かせて、人混みの中逃げるように去ろうとしたけど、後ろから腕を掴まれて現実だったことを突きつけられる。
恐る恐る、私の腕を掴むそいつへ顔を向ければ、やはりそうだった。
「え、無視?もしかして現実逃避してた?これは夢じゃなくて現実。俺はここにいるよ」
「民尾……」
にやにやと薄気味悪い笑みを浮かべるこの男、魘夢民尾は大学で会ったろくでもない男だった。終電間際の電車で私が彼氏といたところを、それも死角だと思っていた場所で盛られていた場面の写真を撮られていた。みんなにバラしてもいいだのなんだの言われたけど、そうされたところで私の評価なんて変わるわけはないから好きにすればいいと投げやりに答えたら、面白がって付き纏われるようになった。
「いや~君に会いたくなっちゃってさ」
「嘘でしょ」
「うん。嘘。向こうで居場所が君みたいになくなっちゃってさ、飛び出してきてみた!こっちの電車もさいっこうに撮れ高いいよねえ、みんなそれしなきゃ死ぬの?ってくらい本読んでるのとか笑っちゃう。それを壊すのが楽しくて楽しくてさ~……」
あからさまに嫌悪した表情を浮かべる私に気にせず卑劣なことをつらつらと並べる。
そこで勘付いた。最近、電車で変質者が出るっていうのはおそらく、いや絶対こいつの変態行為のせいであると。電車を撮る人の間ではこいつのマナーは底辺以下のようだし、それはこいつの今の言動からしてこの国でも間違いない。今首にかけているカメラだって、どこかからくすねてきたものではないのかと勘繰る。
「放して」
百歩譲ってこいつがここにいることはこいつの自由だとして、私にはもう関わらないでほしい。掴まれていた手を力の限り思いっきり振り払って歩くスピードを速めた。
「どこいくの?」
「関係ないでしょ」
「そのマフラーさあ、彼氏?」
「……関係ない」
「俺が嫌いな奴の名前と一緒なんだよね」
いつまでこいつは付いてくるのだろうか。人様を押し退けてまであなたが撮りたい電車が走る駅とは徐々に距離が遠のいている。
名前が見えている部分を今更首元に巻き付け押し込んだ。
触れて欲しくないと思っているのに、土足で人の心に平気で踏み込んでくるこいつが心底嫌いだった。
「さっき電話で話してたのってその男のことだろう?」
「…………」
「もうすぐ帰るって。遠距離ってことだよねえ、それ。え!君が遠距離なんて続くと思ってるの?」
心から愉快そうにしながら私の隣を歩く民尾は小馬鹿にしたように口元を手で覆い、くすくすとわざとらしく笑う。
電車を降りた時から見つけられていたのかと嫌気がさした。
「本気にされてるとでも?こんなところで付き合うのなんて、その場限りの関係以外に何があるの?」
「私だって、秋には帰るし」
「そいつの隣に他の女がいるところを見に?帰らない方がいいんじゃない?君に帰る場所なんてないでしょ。逃げてきたんだから」
適当にあしらってどうにか撒くつもりだったのに、不本意ながらも的を得た発言に足を止めてしまった。
私に帰る場所はない。それは、そうだ。居場所がなくて逃げてきたのだから、私は向こうに居場所などないのだ。
どくどくと嫌な音を響かせる胸が煩い。
「夢もないんだからさ、君は」
「夢は、」
「え、あるの?夢できちゃった?なになにそれ!面白い!絶対諦めるじゃん、自分の過去を振り返ってごらんよ。ははっ」
人が悲しむところを、抜け殻になっているところを見るのがそんなに楽しいのか。
踏み出せない私にそいつはいつまでもお腹に手を当て冷笑している。
「君は中途半端なダメな人間なんだからさ。現実見た方がいいんじゃない?ま、夢を見るだけなら自由だけどね。見るのは誰だってできるからね」
「……うるさい」
ただ私を面白がっているだけだということはわかるのに、ロクに言い返せない自分をいた。間違ったことは言っていないのだ。
私は人に愛想笑いしかできなくて、本当の自分で居られるような場所もなくて、中途半端に夢見て諦めて、知らない人しかいない地に逃げてきて、帰りたくないと、そう思っていたのだから。
呟くように小声で返して炭治郎くんが働くベーカリーの元まで歩いた。その間、ずっと飽きずに私を蔑む民尾にぐっと堪えていたが、お店から試食を配りに出てきた炭治郎くんが目に入り気付いた。
こいつと一緒にいるところを見られたくない。
「うわ」
話は後で私一人で沢山聞くから、と民尾をここから追いやろうとすれば、その前に不愉快そうな声色を上げた。まっすぐ少し離れた場所にいる炭治郎くんを見て顔を顰めている。
「本当にそうだった。日本で見かけなくなったと思ったら……」
いかにも面白くなさそうにぶつくさと言葉を零していた。知り合い、なのだろうか。炭治郎くんがこいつと友達、ということはきっとないだろう。
誰かのことを嫌いと話す炭治郎くんは見たことがないし想像もできないけど、仲良く遊んでいる姿なんてのも頭には浮かばない。
嫌いな奴の名前と一緒、と話していた。何か、炭治郎くんがしたのだろうか。それでも、今お客さんたちに囲まれている炭治郎くんが理由もなく嫌われるようなことはしないとわかっている。だとすると落ち度は民尾にあることは容易に想像できた。
民尾から距離を置こうとしていたのも忘れてぐるぐると頭の中を回転させていると、民尾はあーあ、と息を吐いた。
「ほら、あんなにみんなに笑顔で囲まれちゃってさ。君とは天と地ほどの差がある人だと思わないの?月とすっぽん?雲泥の差?まあなんでもいいや。君はさ、あの中の一人でしかないんだよ」
「……そんなことない」
「あれ、元気なくなってるじゃん!図星だった?」
好きな人に、一番に想われたらどんなに幸せなのだろうかと、ずっと考えていた。でも、自分にはそんな風に思ってくれる人は現れないんじゃないかって。それっぽい人ができたとしても、嫌われないように必死で、それでも結局捨てられて。
「君よりできた子が自然と集まってくるんだよ、ああいう奴はさ。でも君の周りは?いてもクズみたいな人間しかいなかったんじゃない?」
「違う、私がダメな人間だっただけで、」
「"だった"?え?今は違うの?何も変わってないよねえ?一人じゃ何もできない、甘やかされてるだけ。何勘違いしてるの?びっくりだよ」
突然、正気に戻ったかのように早口で淡々と告げられる言葉が頭の中に響いた。けれども、そいつはそんなこと気にも止めず、黙る私を見て待ってましたと言わんばかりの不敵な笑みを浮かべた。
「これはもう、自然消滅待ったなしだね!ごめんね傷を抉るような真似して。じゃあまたね~!」
言いたい放題言って、後に残った私の気持ちを嘲笑うかのように片手をひらひらと振って人混みの中へと去っていった。
去った後を暫くぼんやりと眺めてから炭治郎くんの方へ顔を向けると、あの明るくて日差しが差し込むような眩しい笑顔でパンを配っている。それを見て、急にひんやりとした空気に覆われる気がした。
「……あ、
!」
遠目で視線を流していたら、炭治郎くんは私に気付いて大きく手を振った。包み込んでくれるような温かい声に胸が締め付けられた。
周りはみんな、炭治郎もうそろそろお別れなの、炭治郎がいなくなったら寂しい、と口々にしていた。私も、みんなと同じくそう思っている。あの笑顔に温められている。
動かない私に炭治郎くんは不思議に思ったのか、周りへごめんなさいと頭を小さく下げながらこちらへ向かってくる。まだ、私が立ち止まっていても炭治郎くんから駆けて来てくれる。我に返って私も炭治郎くんの元へ歩み寄ったけど、途中の横断歩道、信号が赤になり二人で立ち止まった。
炭治郎くんが眉を下げて笑ったのが見えた後、横切る車に遮られる。
待っている間に、肌に何かが降ってきた。辺りにふわふわと舞う白さは柔らかい世界で、手の平にのせたそれは冷たかった。
雪