恋人たちの秘密
「先生」
溌剌とした声に胸がどくりと鳴ってしまうのをどうにか抑え込みながら平静を装い返事をした。顔を上げた先の彼は口端を上げて佇んでいる。
「調子はどうだ?」
「お陰様で。煉獄先生にもフォローしてもらっているので」
「根詰めすぎないようにな」
生徒のノートへ目を通す私の様子に煉獄先生はにこりと笑ってから、一つ飴を私の机の上に置いて自席へと戻って行った。
職員室でそれらしく先生の業務をしているけれど、私はこの学校の先生というわけではない。産休で休んでいる先生の代わりに赴任してきただけだった。免許は持っているものの、教員採用試験は不合格で燻っていた私への朗報だった。
「本当に面倒見がいいわね」
「当然のことだ」
煉獄先生は、担当している学年は違うけれど担当科目が同じでよく私のことを気にかけてくれている。胡蝶先生から見てもやはり面倒見がいい人として印象づけられているようだけど、煉獄先生からしてみれば普通のことなのだろう。
胡蝶先生と談笑している煉獄先生にむずむずと邪な思いを抱きながら、デスクに置かれた飴へと手を伸ばして付箋がついていることに気付く。
『20:00にいつもの駅で』
達筆に記されていた文字に、頬が緩んでしまいそうになるのを抑えた。普通に連絡してくれたらいいものの、どうしてこうも私の胸を煩くさせてしまうことを自然とやってのけてしまうのだろうか。
煉獄先生と親しくなって、交際に発展したのはこの学校へ赴任してから数ヶ月経った頃だった。奥さんも彼女もいない、と話していた煉獄先生には驚いたけど、今となってはいなくて良かったと心底思っている。先生という職柄出会いは少ない方だと思うけど、それでも煉獄先生と巡り合えた私は誰がなんと言おうと運が良かったのだと思う。そう、運が良かったのだ。私にはまるで煉獄先生の自慢になれるようなところはないし、だから引け目を感じてしまって、私の意向で交際をしているということは周りには隠していた。
先生の誰か一人にでも知られてしまえば後々生徒にまで知られてしまう。そうなってしまったら、冷やかされるのはもう、目に見えていた。
「アッハッハ!青いねえ!」
この学校は、私の体感だけれど先生と生徒の距離が近い。今だって宇髄先生は何やら私物を取りに来た生徒の相談を受けて豪快に笑い飛ばしている。なんとなく耳に入ってくる内容は恋愛ごとだった。恋のあれそれを先生に相談するなんて、よほど信頼されているのだろう。それは宇髄先生だけではなく、きっと煉獄先生もそうだ。私の知らないところで彼を思う女子生徒は一体どれほどいるのだろうと時折不安に思う。
「なんだ!恋の相談か!」
そろそろ昼休みが終わり、授業がある先生は各々教室へ向かう時間だった。私は午後は授業を持っていなかったからこのまま職員室に残るけれど、煉獄先生は授業があり、無意識に目で追っていると宇髄先生と生徒の会話に割って入っていた。宇髄先生同様、豪快に笑い飛ばしているけれど私は気が気でない。
じ、とその様子を見据えていると私の視線に気付いたのか、煉獄先生は口を開いた。
「 」
豪快な声とは裏腹に、声に出されることはなかった『後でな』の言葉と優しげに目を細め柔く笑った煉獄先生に、身体中の体温が上がった気がした。パソコンのキーボードを打ち込む音や談笑している声、プリントをめくる雑多な音が混ざる中、私だけが知っている煉獄先生を私だけが見れた気がして、鬱々としていた感情はいとも容易く吹き飛んでしまった。
約束をした時間に駅へ着くと、コートを見に纏い腕時計を確認している煉獄先生の姿が見える。まだ20:00前だけれど、煉獄先生はいつもどのくらい前から待ち合わせ場所に到着しているのだろうか。
「煉獄先生」
その横顔へ声をかけると煉獄先生は学校では見せない和らげな表情を私へと浮かべた。
煉獄先生熱苦しい、なんて男女問わず良い意味でよく生徒から告げられているけれど、夜に会う煉獄先生は温かい。私だけしか知らないことだと嬉しいけど、どうだろうか。
「違うだろう、二人の時は」
「癖で抜けなくて……、杏寿郎さん」
今からどこへ行くわけでもない。ただ、一緒に杏寿郎さんの家へ帰るだけだ。
控えめに名前を呼んだ私へと杏寿郎さんは手のひらを差し出す。手袋なんてなくてもこの手に温めてもらえていた。
生徒に見られてしまっては一大事ではあるけど、杏寿郎さんの住んでいる場所は学校から少し離れているしその心配はあまりなかった。
住宅街を歩いていると、所々でクリスマスの電飾をしている家が目に付き心が踊ってしまう。
「そうだ、付箋」
「付箋がなんだ?」
「あれ、誰かに見られたらまずいので、今度からは携帯で連絡をください……」
嬉しくないわけではないのだけれど、隠し事は元々苦手だった。だからひょんなことがきっかけで周りにバレてしまうのが怖くて、できれば控えてほしくおずおずと隣を歩く杏寿郎さんへ物申せば、はは、と小さく笑われた。
「私物を一々盗み見る人間なんていないだろう」
「それはそうですけど」
「君が危惧しているのは、顔が赤くなることじゃないか?」
「か、からかわないでください」
まさしく仰る通り、ではあるから否定ができなかった。口を尖らせる私に煉獄さんは目尻を下げる。穏やかで優しげな面持ちにやはり私は胸の芯からじわじわと温かさがそのまま全身に伝わっていくようだった。
家に着いて、着替えて夕食を食べて、と、同棲をしているわけではないけれど、最近はほぼこうして隣で一緒にいることが日常的になってきた。少し狭いベッドで横になり、パチ、と電気が消える。
「」
「はい」
「クリスマスだが、店を予約した」
「え、わざわざ……?」
「嫌だったか?」
「いえ、嬉しいです。ありがとうございます」
暗がりに慣れた目で杏寿郎さんへ顔だけ向けると、そっと唇が落とされる。
こうして、一緒にいれることだけで私は十分だったのにそういうイベントごとに私といる時間を大事にしてくれているという思いが感じ取れて胸がいっぱいになった。
頬を手のひらで包み込まれ深くなっていくキスに没頭していると、つつ……と骨張った指先でお腹をなぞられる。私も杏寿郎さんの首に腕を回して、もっと愛してほしいと欲張った。
普段は行かないような夜景が綺麗なレストランを選んでくれていたことにわかりやすく動揺を隠せずにいると、杏寿郎さんは少しだけむくれていた。そんな一面も持ち合わせていることを知れたことに、クリスマスという日に感謝しつつ料理もお酒も夜景も恋人らしく楽しんだ。車で来たから杏寿郎さんは飲んでいないけれど、私が好きなものをさらりとウエイターに頼まれそのまま最初の一杯だけ飲んでしまった。杏寿郎さんはなんとなく、こういうところよりもっとわいわいがやがやとした雰囲気のお店が好きなのだと勝手に思っていたけれど、格式高いお店にも慣れているように見えた。
「美味しかったですね」
「ああ、家族でも記念日にはよく行っていた」
「なるほど……」
長いエレベーターを降りる中で、杏寿郎さんは懐かしげに話す。もしかして、前に付き合っていた人がこういうレストランが好きなちょっと気高い人だったのかな、なんてこんな日に杏寿郎さんの過去の色恋沙汰を思い浮かべていたけれど、そんな理由ではなさそうなことに胸を撫で下ろした。一緒に暮らしていると、杏寿郎さんの育ちの良さが節々で垣間見える。家族とよく行っていたと話す場所に連れてきてもらえるなんてこの上ないことで、けれど私のような人間と思い出の場所を共有していいのかとそわそわしてしまう。
「今度は、私に誘わせてください」
「来年の話か?」
「来年……、そうですね」
何気なく口にされた『来年』という単語が胸の中に木霊する。来年は、私はこの学校にはいないだろうし、関係は続いているだろうか。誰にも知られないまま、そっとこの関係は幕を閉じてしまうのではないかと一抹の不安が過る。素敵な人だから、私が隣では勿体無いくらいの人だから。
「む、」
「?」
「冨岡じゃないか」
高層ビルのエスカレーターを降りて外に出た時、杏寿郎さんが足を止めた。手を繋いでいたから必然的に私も足を止めることになったのだけれど、その視線の先にはよく知った顔が寒さに苛立ちを見せているような、なんとも言い難い表情を見せていた。
冨岡先生は私たちを目に入れるなり、その視線を手元へと移動させる。
バレたら不味い、と私は手を引っ込めようとしたけれど杏寿郎さんは放さなかった。
「暖かそうな手袋をしているな」
「ああ、寒いからな。お前たちはデートか」
「や、あの、」
「ああ、その通りだ」
「!」
今までずっと隠していたのに、平然と言ってのける杏寿郎さんに愕然とした。嫌な鼓動が身体中に響き渡る。
ほう、と冨岡先生は何か考えた素振りをしているけれど、私は心中穏やかでいられなかった。
「やはりそうか」
「え、」
「じゃあ、俺はもう行く」
「また学校で」
イルミネーションが街を彩る中、冨岡先生は意味深に呟いて去って行ってしまった。その後ろ姿と杏寿郎さんを交互に見やっているとくるりとこちらへ視線を向けた杏寿郎さんと瞳が交わる。
隠していたつもりなのに、もしかして冨岡先生は知っていた、もしくは勘付いていたのだろうか。だったら、他の先生ももしかしたら気付いているのかもしれない。そう思うと、途端に羞恥心でいっぱいになる。
「行こうか」
「あのっ冨岡先生は、知ってらしたんでしょうか、」
「いいや、今日初めて知っただろうな」
「……」
「俺は、知られてもいいと思っている」
手を引き歩きながら、穏やかながらも低い声色で杏寿郎さんは私へと伝えた。チカチカと眩く光る電飾がいやに騒がしく感じる。
「生徒から、色々言われますよ。私はまだしも杏寿郎さんは人気だから」
「なら、尚更言ってしまいたくならないのか?俺が職員室で女子生徒と話している時、よく見ているだろう」
「……!!」
口端を上げ、揶揄うように話す杏寿郎さん。バレていた。この前だって宇髄先生と話している生徒へ声をかけていたことに嫉妬心を芽生えさせていた。我ながら杏寿郎さんとはまるで比にならない器の小さい人間だと思う。でも、あの子は一年生だったけれど、高校三年生なんて十八歳で、大人だ。それに見ていればなんとなくわかる。ああこの子は杏寿郎さんのことが本気で好きなのだろうな、とか。
「そろそろうちの学校の生徒のこと、よくわかってきただろう?」
駐車場へと到着し、車の中へ入り杏寿郎さんはエンジンをかけながら私へと話しかける。
先生たちのことだけではなく、杏寿郎さんの周りに集まる生徒を見ていてこの学校の温かさは感じ取れていた。先生たちが温かいから、生徒も温かいのだろう。そしておそらく、私と杏寿郎さんがそういう仲だと知られても、私が思うようなことは起こらないということも。
ふわりと杏寿郎さんの手が私の髪を撫でる。そっと近づく端正な顔立ちに瞳を瞑れば柔らかい熱が降り注ぐ。
「いいか?話しても」
「………………はい」
「随分悩んだな」
「いや、悩んだというか、ずるいなって、思っただけです」
そんな和らいだ表情を見せつけられては、断ることなんてできやしない。
もしかしたら、杏寿郎さんとの関係はそっと幕を閉じることになるのだろう、と時折感じていた思いさえ纏めて包み込んでくれるこの人が堪らなく愛しかった。
「でも私がいなくなったら、本気で狙いに来る生徒が来ちゃうかもしれないと思うと、やっぱり不安です」
「俺は君のことしか見えていないぞ」
ありがたいことに、もう十二分にその気持ちは伝わっているのだけれど、心配なものは心配なのだ。
けれど、翌年試験に受かって、なんの巡り合わせかまたこの学校にお世話になれたのは多分、引き寄せられた縁だと信じたい。