「待って…待ってくれ、!話をしよう、とにかく、いったん話を…!!」
そんな懇願するような声を出す炭治郎を振り切って、わたしは全力で砂利の敷き詰められた小道を走り抜けた。すると前方に、ひどく驚いた様子でこちらを見ている人物がいることに気づく。
「おやおや、追いかけっこですか?」
その人物――蟲柱の胡蝶しのぶさんはわたしを目にとめると、のんびりとした口調でそう言った。
「しのぶさん、ごめんなさい!か、かくまってください……!!」
「あらあら」
わたしはしのぶさんの返事も待たずに縁側を駆け上がり、近くの病室に飛び込む。そのあとパタンと音がしたので、しのぶさんが戸を閉めてくれたのだろう。
「あっ、しのぶさん!今こっちにが来ませんでしたか?」
はぁはぁと息を切らした炭治郎の尋ねる声が聞こえた。わたしは息を殺しながら、戸の外から聞こえる彼らのやり取りに耳を澄ませる。
「いいえ、見ていませんね」
「本当ですか?たしかにこっちに来たはずなんだけど…」
それから炭治郎が鼻をくん、と鳴らす音が聞こえる。
「ん?この匂い……あそこから…」
「その病室に入ってはいけませんよ、炭治郎くん」
「でも……」
「そこには今、大怪我を負った隊士が寝ているんです。お見舞いは控えてくださいね」
ニコニコ笑いながらも断固として入室を拒むしのぶさんの様子が目に浮かぶ。このときほど、しのぶさんの存在が心強いと感じたことはなかった。
――結局、炭治郎は諦めたようだった。遠ざかっていく足音が完全に聞こえなくなったあと、「もう大丈夫ですよ」と言ってしのぶさんが戸を開けてくれる。わたしは額に浮かんだ汗を拭ってから立ち上がり、彼女に深く頭を下げた。
「ありがとうございます、助かりました」
「いえいえ、なんのこれしき」
しのぶさんは謙遜するように片手を振ったけれど、そのあと「ですが、」と言葉を続けた。
「一体なにがあったんですか?たしか炭治郎くんはさんの恋人ですよね?その辺のお話、詳しく聞かせていただけますか?」
続けざまに質問をぶつけてくるしのぶさんにはどことなく威圧感があり、しかしその目は楽し気に細められている。”タダ”でかくまったわけではない、ということだ。
正直逃げ出したかったけれど、ここは蝶屋敷……しのぶさんの”庭”だ。上手く彼女を撒ける気もしないし、助けてもらった代償は払わねばなるまいと半ば諦めを感じる。
「ええと、そんなに面白い話ではないと思いますけど…」
一応最後の抵抗にとそんなことを言ってみたが「ええ、ええ。いいんです、面白くない話でいいんですよ」と、しのぶさんはますます楽し気に頷いた。
「カナヲ、お茶を二つ持ってきてくれる?」
しのぶさんは通りかかったカナヲにそんなお願いまでするので、わたしは降参して縁側に腰かけた。
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「あら、まあ」
わたしの話を聞き終えたしのぶさんは、開口一番こう言った。口に片手を添え、さも驚いた様子を作っているが、その目はキラキラと輝いている。
「あなた方がそんなに純粋な恋愛を楽しんでいるとは…」
「い、いえ、ですから、彼と交際することになってしまったのは不本意というか…いや、ある意味わたしの不徳の致すところ、というか……」
「ねぇ、知っていますか?お二人のそういう交際のことを、西洋語で”プラトニック・ラブ”と言うんですよ」
「ぷ、ぷらとにっく……?」
「肉体的な欲求を離れた、精神的恋愛…という意味です。少し難しいでしょうか、ふふふ」
わたしは聞き慣れない西洋語に首を捻りながらも、彼女に話したことを今一度、頭の中で反芻した。
わたしがしのぶさんに話したこととは、こうだ。
花束を持ってわたしのもとに現れた炭治郎と会って以来、わたしはなんだか気持ちがおかしくなってしまった。彼と会うのがひどく”恥ずかしい”と感じるようになったのだ。それはあの日、伊黒さんが「お前は竈門炭治郎という男がそう悪くないと思っているんじゃないか?」だなんて妙なことをのたまったせいもあるだろう。
しかし、普段のわたしであればそんな戯言に動揺するはずがない。それなのに、それこそ生娘のように恥ずかしがってしまうだなんて、本当にわたしはどうしてしまったんだろう…。
そんな中、いつものように炭治郎がわたしに会いに来た。それも突然、なんの予告もなしに。そして「町に行こう」などと笑顔で誘ってくるのである。そのときわたしは、やっぱり恥ずかしかった。笑顔を向けられて、親愛に満ちた目で見つめられて、もう、たまらなく恥ずかしくなったのである。だから、つい……逃げてしまったのだ。
そうして、件の追いかけっこがはじまったのだが…。こういうとき炭治郎という男は非常に厄介で、なにがなんでもわたしと話をするといって聞かない。「とりあえず、そっとしておこう…」という選択肢がはなからないので、わたしを捕まえるまで永遠に追いかけ続けるのだ。それはわたしにとって恐怖、そしてある意味恥辱に近いものがあった。
「さん。あなたはご自身の今の心理状態について、なんら恐れる必要はありません。とっても自然なことですから」
いつの間にかしのぶさんはわたしの肩に手を置き、労わるような瞳でわたしを見つめている。(とはいえ、彼女がこの状況を楽しんでいることはたしかだ)
「むしろ、その状態を楽しめるほどの余裕があればいいのですが……今はまだ、難しいでしょうね」
「あのう……それは一体どういう…」
しのぶさんの言葉を上手く咀嚼できず、解説を求めようとしたところで、「ジャリ」という微かな音を耳に捉える。わたしは反射的に縁側に上がり、しのぶさんの後ろに隠れた。そして、あの赤茶色の髪の先が見えた瞬間、わたしは慌ててすぐそばの病室に飛び込んだ。それは、少し前にわたしが隠れていた病室である。
+++
「おや、炭治郎くん。戻って来たんですか」
「ええ、やっぱり蝶屋敷のどこかにがいるとしか思えないので。…それよりしのぶさん、さっき誰かと話していませんでしたか?」
ふふっと空気を揺らすようなしのぶさんの笑い声が聞こえる。
「いいえ、誰とも」
「……そうですか」
ギシッという音がした。恐らく炭治郎が縁側に腰かけたのだろう。それはさっきまでわたしが腰かけていた場所に違いない。屋敷に居座るかのような彼の素振りに、わたしは若干の絶望を感じる。
「浮かない顔をしていますね、炭治郎くん」
「はい、実は少し……悩んでいることがあって」
「私でよければ相談に乗りますよ」
やめてくれ!とわたしは叫びそうになる。ここで、まるで盗み聞きをするみたいに炭治郎の話を聞きたくなんかないし、しのぶさんにこれ以上わたしたちの関係を知られるのも耐え難かった。しかし、炭治郎という男は単純で「本当ですか?」だなんて嬉しそうな声を出し、しのぶさんにペラペラと悩み相談をはじめるのである。
炭治郎がしのぶさんに話をしているあいだ、わたしは体温の上昇と汗が止まらなかった。あまりの恥ずかしさに顔から火が出て、そのままその火が全身を焼き尽くし、灰になってしまうんじゃないかと思ったほどだった。なぜなら、炭治郎の相談とは最初から最後まで”わたし”のことだったのである。彼は自分がどれほど”わたし”のことが好きなのか、なぜその想いが上手く伝わらないのか、その1点に関する悩みを永遠に吐き続けていた。
「……なるほど、それは深刻な問題ですね」
「はい…。しかも最近、なぜだかが俺を避けるようになったんです。それで俺、不安で不安で…」
炭治郎の弱々しい声に、わたしは少しだけ胸が痛くなる。自分のことで精一杯だったわたしは、自分の態度が炭治郎をひどく傷つけていると気づく余裕もなかったのだ。
「炭治郎くん、私から提案があります」
「提案、ですか?」
「ええ。これは一つの仮定の話なんですが……もしかしたらさんは、炭治郎くんの勢いに圧倒されているのかもしれません」
「ええっと…それは、つまり…?」
「ふふ、言葉を変えましょう。君は”押してダメなら引いてみろ”という言葉をご存知ですか?」
「それは、知っています」
「ではさんに対し、一度”引いてみる”というのはいかがでしょう」
炭治郎としのぶさんのあいだに、わずかな沈黙が流れた。
「それは…俺がと距離を置くべき、ということですか?」
「そんな大げさなことではありませんよ。今まで炭治郎くんは、ずっとさんに想いを伝え続けてきたのでしょう?そしてそれはきっと、彼女の”日常の風景”になっていたはずです。
だけどそんな炭治郎くんが突然、想いを告げなくなったらどうなるでしょうか?それは、さんに”非日常”が訪れるということです。そうしたら、少しいい変化が…あるかもしれませんね」
なにを言っているんだこの人は、とわたしは絶句した。しのぶさんは、わたしが今二人の会話が聞こえる状態であることを知っている。それなのに、炭治郎にこんなとんちんかんな提案をするなんて、どうかしている。
「………」
うぅん、という炭治郎の唸り声が聞こえる。いや、こんなの悩むことじゃない。そんな提案に乗る必要なんてない。そう言いたいけれど、言えない。もどかしい気持ちでいっぱいになる。
「わかりました。俺……やってみます」
炭治郎がハッキリとそう言い切った。途端にわたしは言いようのない不安に襲われる。
「そうですね。やってみないことには、いい結果は得られませんから」
さらにけしかけるような言葉をかけるしのぶさん。そしてこのあと、彼らはとりとめのない会話をしていたようだが、そんな彼らの言葉はわたしの耳に一つも入ってこなかった。
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いつの間にか戸が開かれていて、外にはしのぶさんも炭治郎もいなかった。わたしは慌てて外に出て、庭に下り立つ。炭治郎の姿はどこにもない。そのまま屋敷の外に飛び出すと、見慣れた赤茶色の髪を視線の端に捉えた。
「あ、」
思わず声を上げてしまう。彼が、炭治郎が、屋敷の門の外でわたしを待っていたのだ。
「」
「な、なに」
彼の妙に落ち着いた顔を見た瞬間、しのぶさんの”押してダメなら引いてみろ”という言葉が浮かび、思わず刺々しい返事をしてしまう。
「の気持ちを考えずに追いかけまわして、ごめんな」
「えっ……」
「俺、気をつけるから」
そう言って炭治郎は、優しく微笑んだ。なんだか拍子抜けてしまう。えっ、それだけ…?わたしは呆然と炭治郎の顔を見つめた。
「それじゃあ」
彼はくるりとわたしに背を向け、歩き出す。本当に、それだけ、なんだ。わたしは急速に心臓が冷えていくのを感じた。
ああ、本当に”引いてみる”をやってるんだ。こんなにあからさまに。わざと大人びた、冷めたような笑顔を浮かべて。しのぶさんの言葉を鵜呑みにして、馬鹿みたい。炭治郎らしくもないことを、無理しちゃって。
……でも、もとはと言えばわたしがあんな態度をとるから。だから、こんなことに。だけど、わたしだってわざとあんな態度をとったんじゃない…どうしていいか、分からなかったから。だから………。
気づくと、わたしは炭治郎の手を掴んでいた。彼の手を掴むわたしの手は情けなく震えていて、そしてその震えは全身に広がった。
「、その、手…」
「あ、謝るからっ……やめて」
「え…?!」
「わたしが、悪かったから…そんな素っ気ない態度……やめて」
炭治郎は戸惑っていた。わたしの震える声に、そして、わたしから彼に触れたことに。
「なぁ、俺は……君に触れてもいいのか?」
「なにっ…なによ、わたしから触れたから、はしたない女だって言いたいの?」
口からは子どもっぽい文句が、目からはみっともなく熱い涙が溢れた。
「馬鹿、そうじゃない!君から触れてくれて、嬉しかったって言っているんだ」
炭治郎はわたしに向き直ると、上目遣いで遠慮がちにわたしの顔を覗く。その顔はいつもの温かい笑顔を浮かべた炭次郎だった。
「なぁ、。俺も悪かったよ。大好きな君に対して、もう二度とあんな態度を取らないって約束する。だから……の手を握ってもいいかい?」
炭次郎の優しい声と眼差しが心地よかった。相変わらず恥ずかしい気持ちはあるけれど、それ以上に底知れぬ幸福を感じていた。そして、これが自分の気持ちに素直になることなのだと理解した。
わたしが頷くと、炭次郎は自分の手を掴んでいたわたしの手を優しくはずす。それから、その大きな手でわたしの手を包み込み、指を絡ませた。
「…おっと、もう逃げないでくれよ。やっと両思いになれたんだから」
驚いて手を引いてしまいそうになったが、炭次郎がそれを許さない。でも、そうやって強く手を握られるのが嬉しかった。
「俺はこれからもずっと君が大好きだし、大好きだって言い続ける。恥ずかしいからやめてくれってが言っても、俺は言い続けるからな」
脅しみたいな口説き文句を垂れる炭次郎に、わたしは声を出して笑ってしまう。彼の前でこんな風に笑うのは、これが初めてだった。
男が嫌い、特に恋愛にうつつを抜かすような男が――そんな風に男を憎んできたわたしだったけれど、今やっと”誰かを好きになる喜び”を知った。なんて遅い初恋だろう。そして、その初恋が報われるだなんて、なんて幸福なことだろう。
「ありがとう。ずっと好きって言ってね、炭次郎」
わたしは独り言のようにつぶやく。すると炭治郎は顔を寄せ、わたしのおでこにそっと自分のおでこをくっつけた。
「ああ、もちろんだ」
わたしは何度目かの大きな幸福を覚える。そうして、わたしたちはすぐ唇が触れそうなほどの距離で笑い合った。