私が竈門炭治郎を意識するに至った理由というのは存外、とても些細なことだった。
……どうしたんだ、きみ。こんなところで。
己の不甲斐なさに打ち拉がれ、隠れて泣きはらす私に、まるで我が事のようにつらそうに目を細めて、やさしく声をかけてくれた。ただそれだけのことだった。……やさしくされた。些細なというにはあまりにもくだらなく、散りゆく花弁の如き軽さと儚さを宿した理由かもしれない。だけど、あのとき。……竈門くんが、やわらかな、それでいて切なげに目を細めて私を見つめて、私の心に寄り添うようにやさしく声をかけてくれたあのときの彼の心のうつくしさに、私はどういうわけか恐ろしいほどにあっけなく一瞬で恋に落ちた。もう抗いようもないほどに奥深くに、落とされてしまったのだった。
「……でェ?なーんでテメェの、んなことを俺が聞かされなくちゃならねェ」
心底嫌そうにかつ、うんざりしたように呟いた不死川さんは利き手の二本の指の喪失に慣れないながらも丁寧なしぐさで湯飲みを口に運んでいた。げんなりしているとも取れる失礼な表情は本当によほど興味がないようで。いつも通りな様子に私はほっと息を吐きながら大きな声をあげて笑った。
「もう少し弟子のことに寄り添ってくれてもいいじゃないですかっ。つめたいな〜ッ」
「誰が弟子だ。テメェを弟子にした覚えはねぇ」
ため息まじりに茶を啜る不死川さんはなんだかその年齢の若さに対し、すっかり老成してしまったような気がする。師匠と勝手に呼ばせていただいているだけで、私はこの風柱様の正式な継子というわけではない。
一昨年、鬼殺隊に入隊したばかりの頃、私はとある任務であわや死ぬ寸前であった。瀕死の私を含め壊滅寸前にまで陥った小隊の救援として派遣されてきたのが、この風柱様だった。不死川さんは凄まじいほどの覇気と殺気を纏いながら、瞬く間に鬼を皆殺しにした。鮮やかなお手前に、私は死にかけているのも忘れて、たいそう感動した。……こ、こんなに強い人がいるのか!と。修羅の如き凄まじく恐ろしい強さを持ったこのひとが、私が使う風の呼吸と同じ風の柱その人だと知ってからは「継子にしてください!」と詰め寄っては断られ、それでもめげずに詰め寄っては放り投げられ、なおもめげずに詰め寄っては蹴散らされ。もはや断られているのかそれとも稽古をつけてもらっているのかよくわからないような関係性を築いて……そうして今に至る。
不死川さんは芯が凍るほどの冷たく恐ろしいまなざしを宿す人ではあるが、一方でたいそう面倒見がよく、なんだかんだでいろいろな教えを授けてくれた。たとえばまずは死なないこと、無茶をしないこと。己の身を対価とするにはまず頭を使え、ただ我武者羅に突っ込むだけは犬死だ。女の身で刀を取るというのならそれ相応の覚悟をみせろ、捨て身の精神は聞こえはいいがそれはなんの意味もない。自分と周り、すべての状況を目を見開き観察し続けろ、そしてそのすべてをもって戦えといったようなことだ。不死川さんは否定するが私にとってはやはり剣の師であり、いくつか歳上というこもあり、熱心に教え諭してくれる姿はある意味では人生の師でもあった。兄のように慕って、本人は否定するかもしれないがまるで妹のようにかわいがってもくれた。
「師匠がダメなら、なんて呼んだらいいんですか?」
「さぁなァ、好きに呼んだらいいんじゃね」
「好きにですかぁ」
「俺はもう風柱ではねぇからなァ」
「そうですね」
「俺はもう、ただの不死川実弥だ」
不死川さんそう言ってほっと、やわらかい吐息を吐いた。だけどその声はどこか安堵とともに虚しさを伴うものであった。包帯だらけの顔をいびつに歪めて、けれど不器用に笑顔をとる師匠を尻目に、私は持ってきていた林檎をおもむろに剥いていった。
「」
不死川さんが、不意に顔を上げた。私は手に持っていた林檎がいつの間にやら、うさぎさんの形に剥かれているのを見下ろしてから、それを自分の口に含んだ。しゃく……という音が空々しく響いて知らず知らずのうちに涙が頬を伝っていることに気づいた。音もなくひたすらに泣く私に、不死川さんは呆れたというよりも困ったようなため息を吐いてから、私の膝の上のお皿から、残されていた一匹のうさぎを奪って行った。頭上で、しゃく、という小気味いい音がしばらく響いて、やがていつしかやんだ。幾度かそれを繰り返す頃には、私の膝の上にいた赤いうさぎは皆いなくなっていた。
「なんで泣く」
「……泣いて、ませんっ」
「泣いてるだろ、くだらねぇ嘘つくなァ」
「う、嘘じゃないです」
生き残ったそれぞれの傷が、ある程度は癒えたら。最後の柱合会議が開かれることになっているらしい。来月、桜の咲く頃、さいごの、正真正銘さいごの柱合会議が開かれる。そうしてそのとき、今度こそ、鬼殺隊は終わるのだという。
「……聞けよ」
それが、終わったら。不死川さんは一人、旅に出るつもりだと聞いている。まずは家族のお墓へ参って今はもうないかもしれない生家を見に行くのだという。いつまでもここにはいられないし、いるつもりもない。お前ともここで今度こそお別れだと。不死川さんからはもう既に早々にそう告げられている。以来、いい加減にしろと呆れられながらもなんだか離れ難くて、養生をしている不死川さんの病室に顔を出し、望まれてもいないのにあれこれ世話を焼いているふりをしている。「俺のところじゃなくて行きたいやつのところに行け、ここはお前の避難場所じゃねェ!」と怒鳴られながら。けれどなおも勇気が出ないでいる。
「お前が、あの竈門のことを好いていることなんぞすでに知っている」
「……う、」
「そもそも惚れた日もわざわざうちに上がり込んでさんざ話して行きやがったろーがァ。『恋に落ちました師匠ぉ!』と大興奮の大騒ぎしやがって」
「ウッ」
「はァ〜あんとき俺ァ徹夜明けだったしよォ、そりゃあもう本気でどついてやろうかと思ったわァ」
剥いた林檎を完食して、再び淹れなおしてあげたお茶を口に含みながら、不死川さんはげらげらと笑うけれども。どついてやろうかと思った、じゃないわよ。わりと本気でどついてくれましたわよ。かなりマジの、マジのやつを一発。
「だから……だからなァ」
「……」
「お前ももう鬼殺隊の隊士ではない。もう、命をかけることも、人生を棒に振ることもしなくていいんだ」
不死川さんはやさしく笑って、私の頭をわしゃわしゃと撫でた。それはまさしく、妹に対するようなそれで、私はまた引っ込んだと思った涙がぼたぼたと流れて止めようもなかった。
「」
「……はい」
「これまで一度も言ってやったことはなかったなァ。お前ときたら……もう本当に頑固で、一度決めたらこっちのいうこともろくに聞きやがらねぇで突っ込んで行くような、向こう見ずで無鉄砲なばかだが」
「いや私にももっといいところありましたよね?言うに事欠いてそんな言い草なんて」
「でもよ、」
不死川さんは、ははっ、と珍しくずいぶん年相応なそれでいて穏やかな、どこか吹っ切れたような顔で笑っていた。それはこれからも続いていく自分の人生を前にわくわくしているような、そんな少年らしい無邪気ささえ感じさせるようなものだった。
「それでも、頑固で意固地で無鉄砲なお前は、俺の自慢のかわいい弟子だ」
「……し、しょ、」
「お前はいつだって諦めねェ。これまでだってそうだったろ?なにしおらしくなってんだよ、そんなタマじゃねぇだろーが」
「……」
「俺が血反吐ぶちまけるほどぶちのめしても諦めてくんなかったお前が、なに今さら怖気付いてんだ」
生き残ったことを誇れ、五体満足で生き抜いたお前はまだまだこれからだ。お前の人生は、まだこれから始まるんだ。そう言って、にやっと、今度はいつものワルイ顔で口角をあげて、笑っていた。
「だから、こんなとこで油売ってねぇで、あいつんとこにさっさと行けェ」
「……で、でも〜!」
「でもじゃねェ」
「だってぇ!」
「だってもクソもねェ」
いいから行け、と不死川さんは目を血走らせながら病室の扉を指差すが、そんなこと言ったって簡単なことではないのである。
「でもだって向こうは、私のことなんて覚えてくれてないかも!竈門くんはっ私のことなんて!」
「だぁあー!!うるせぇえ!でももクソもねェ!いいからしのごの言ってねぇで告白の一つでもして来いやァ!当たって砕けろッ!!」
「エーッ!く、砕けるのは嫌ですっ!」
「うっせーな骨は拾ってやるから!木っ端微塵に吹き飛んだらお前の嫁ぎ先の面倒くらいは見てやるから!だから安心して砕けて来いって!」
「ほ、本当ですね?!不死川さんがそこまで言うなら!たっ頼みますよ!?ほんとに頼っちゃいますよ?!」と私はヤケを起こしながら、それでもばっと立ち上がった。そこまで師匠が行けというのなら従わないわけにもいかないのである。不死川さんはそんな私に「安心しろやァ、まあいらん世話だけどなァ。俺に二言はねェぜ?」とニヤッと笑っていた。……その自信は一体どこから来るんだ?疑問に思ったが、あの師匠がせっかくここまで背中を押してくれているので、まあ素直に従うことにした。諸々片付けてから、私は不死川さんにその勢いのままお辞儀をした。
「不死川さん!私こそこれまでめちゃくちゃお世話になりました!面倒を見ていただけて光栄でしたっ!僭越ながら亡くなった兄の姿も重ねておりました!いつもいつも、厳しくされどやさしくしてくださってありがとうございます!あなたこそ、私の自慢の師です!」
それだけを伝えて、「がんばれ、テメェならできる」と笑う声のやさしさを背中で受け取って、半泣きになりながらも私は走り出して、不死川さんのもとから走って出て行った。幸いにも重傷とまでいかなかった私の足は弾むように進んでいく。
重傷の方々とは違い大して戦いに貢献できたとは思えないが、それでも無惨との戦いの中にあってなお、こうして五体満足のまま生き残ることができたのはもちろん運がよかったのもあるけれど、それ以上にそれはやっぱり不死川さんのおかげだと思った。これまでの、厳しくもやさしい不死川さんの教えが私を守ってくれたと思っている。私が生き残れたのは間違いなく不死川さんのおかげなのだ。
……かつて私は己の弱さと不甲斐なさに憤り、この蝶屋敷の庭先で隠れて泣いていた。辛うじて鬼を仕留めることに成功はしたものの、自分と同じ任務に出た隊士に重傷を負わせてしまった。彼女は私と同じ数えるほどしかいない女性隊士だった。彼女もまた生き残ったが、あのけがではもう二度と刀を握ることは叶わないだろう。任務地に向かうときに「弟を殺めた鬼をね、どうしても許せなかったから刀を取ったの」と打ち明けてくれた淡く微笑んだ彼女の笑みが頭から離れず、口惜しくて、くるしくて、己の不甲斐なさが憎くて堪らなかった。つらく理不尽なことが平気で罷り通る世の中にあって、あの日のくるしさはこのちっぽけな人生の中でも指折りのものだった。
あの日も今日のような、あたたかい春の日だった。春の兆しを覚える、春のはじまりのような日だった。そうやって、身も心もぼろぼろに傷ついていた彼女を見舞ってから、隠れて泣いていたときに声をかけてくれたのが竈門炭治郎だった。やわらかな木漏れ日が差し込んで、彼の花札の耳飾りを透かしていてとてもきれいだった。いや、それ以上にやわらかく微笑んだ彼の、降り注ぐような無償のやさしさに、私はひどく心が揺さぶられた。……一目惚れなんて、安易だろうか。だけどあの日の竈門くんの穏やかな声と、やわらかな微笑み、我が事のように心を傾けてくれたやさしさに、私は一瞬で心を奪われて切なくなった。やさしく下がるまなじり、私の要領を得ない涙声の吐露に耳を傾け、何度も繰り返し熱心に打ってくれる相槌ひとつに。彼のやさしさと、澄み渡るような心根のうつくしさを見た。
……そうか、それはつらかったよな。……わかるよ。
竈門くんはそう言って青い顔をしながら、炎の形をした鍔をそっと撫でていた。そうして困ったように笑ってから「話したいことがあるならどんどん話しておくといいよ、誰かに聞いてもらうことも大事だ」と、そう言って泣きじゃくる私の声を、泣きたくなるほどのあたたかさですべて受け止めてくれたのだ。……初対面だったのに。竈門くんは、どこまでも懐が大きくてやさしかった。
けれどこの感情が恋なのだと知ったところで、どうすることもできなかった。はじめてのことで戸惑いもあったし、それ以上に腰に下げた刀の重みがそのような浮かれた感情の存在を認めなかった。彼には、妹がいるという。鬼になった、けれど誰も殺さず誰も食べなかった妹。そんな彼女を人間に戻すために刀を取って鬼殺隊に入ったという。その存在を不死川さんは苦々しく思っていたようだけれど、私はなんとやさしい人なのだろうと思ったし、それを知ったとき心の底から泣けた。……だって誰も、誰も知らない。鬼が、一度鬼になってしまった人間が元に戻ったという前例を誰も知らない。そんなことが起こり得るのかもわからない。その道が茨の道であることは想像に難くはなく。
けれどそれでも彼はうまずたゆまず、その心根のやさしさを見失うことなく、あろうことか通りすがりの名も知らぬ女の隊士にまで降り注ぐように分け与えてくれたのだ。どこまでもまっすぐな瞳、やわらかく下がるまなじりは、言葉にできないほどにどこまでもやさしかった。
その声を、もっと聞きたいと思った。その瞳に、もっと映されたいと願ってしまった。強くやさしい、けれど努力の証のような手に、触れてもらえたなら。そんな浅ましい欲望が堪らなかった。胸に走る切ないときめきはなんであろう。これが恋じゃなかったらなんだというのか。だからその姿を見かける度、苦しかった。……だけどそんなやさしい彼を困らせたくはなかった。こんな気持ちを告げたところでどうとなるでもない、なれるわけでもない。それに竈門くんがカナヲちゃんと仲がいいということも知っていた。ときどき盗み見ていたので。……結局、いつ死ぬともしれない道の途上にいる私が、まして完全なる片想いでしかないのが丸わかりな私が、この想いを告白などできるはずもなかった。だから、一生、このまま死ぬまで秘めたままでいようと思っていた。飲み込んで、気づかないふりをして、そのまま忘れてしまおうと。そしてはじめからなかったことにして、竈門くんには伝えないまま、死のうと思っていたのに。
それなのに、どういう因果か生き残ってしまった。それは何を意味するのだろう。神様がさいごに残してくれた慈悲かなにかだろうか。それともこれまで私が己の人生を擲って鬼殺隊に捧げてきた努力と献身へのご褒美かなにかかも?……まあ、この際理由はなんでもいい。ただひとつわかっていることは、不死川さんはこのまま私が逃げ果せることを許してくれないのだろうということだ。
たとえ、この想いが報われなくても。すきなひとにはすきなひとがいて、その鮮やかでまぶしい、きらきら光り輝く瞳が、たとえ私のことを映さなくても。そのことが、私の心を偽り、妨げる理由にはならない、してはいけないのだろう。だからそう……当たって砕けろ!それは確かに、厳しくやさしい師匠の、最後の教えだったのだ。
「……あっ!」
「うん?」
そうして、不死川さんの病室を後にした私が竈門くんの病室だという部屋を目指していたとき、ちょうど竈門くんが自分の病室から出てくるところだったのだ。一番ってくらい大いに重傷であった竈門くんはまだ本調子ではないらしく、ふらふらと出歩くその手には松葉杖があった。歩くのもやっとというありさまで、果たして彼はどこに行く気だったのだろう?!
「ど、どこに行くの!まだ本調子じゃないのでしょ?!」
あわあわと慌てる私に、右目を眼帯で覆った竈門くんはその覗かせている左目を、ぱちくりと瞬かせて、けれどやがってゆっくりと破顔した。……それはもう、こちらが驚き戸惑うほど、劇的に。
「うーん。でも、会いたい人には会っておこうと思ったんだよ」
言葉少なに私への問いかけに回答した竈門くんは、何故だかとてもうれしそうな顔で、私のあわあわと奇怪な動きを繰り返す私の手を、なんとなんの躊躇いもなく、ぎゅっと掴んだ。瞬時に、私の顔が夕焼けのように真っ赤に染まる現象も、その目に映してもなお、その表情を変えることもなく。だけど、やがてゆっくりと困ったように眉を下げてから、竈門くんは私を自身の病室に招いた。
「少し、話を聞いてくれないかな」と続けた竈門くんに私は「え?」と首を傾げ戸惑いながらも、ちょうど私も話したいことがあったので了承した。病室だから、大したもてなしもできなくて、などと言う彼に苦笑して、私こそここは花のひとつでも持ってくるべきだったか?と、少し後悔しつつ。恐縮する彼を宥め、楽な体勢をとってほしい!と半ば強引に寝台に背中を預けさせて、私は遠慮なく面会者用の椅子に腰掛けてから向かい合った。
「さん」
暫く、どちらとも口火を切ることなかった静かな空間の中、不意にずいぶんあたたかくなった風が窓をすり抜けて、やわらかな白いカーテンを揺らした。さわっと、窓の向こうの木々を揺らす風が、静かな病室の中に、ゆっくりと春のにおいを運んでくる。目の前には、笑顔ではなく真剣な顔をしたまま、私を見つめる竈門くんの燃えるような、それでいてゆらゆらと揺れているうつくしい瞳があった。
「あの、私っ、その、竈門くん……あなたのことが、」
だけど、竈門くんは私の手を、不意に掴んだ。慌てて、というほどに瞬時に伸ばされた右手は思いのほか強くて、驚いた私は言うはずだった言葉をきゅっと読み込んだ。
「待ってっ、その、俺の話を先に聞いてくれないかな?」
伺うようにこちらを見る竈門くんのまなざしに、私は顔を真っ赤にしたまま、何故かそのまましおしおと勢いを失くしてしまう。どこか熱に浮かされたようにぼーとしながら、無意識なうちにこくりと頷いた。
「さん」
「う、うん?」
「はじめて会ったときのこと覚えてる?」
突然の問いであったが、しかしもちろん覚えている。こくこくと大きく繰り返し頷く私に、竈門くんはちょっとほっとしたような顔をした。
「あのとき、俺はきみの話を聞きながら、こう思ったんだ。……ああ、同じだって」
あのとき、竈門くんがわかるよと言ったのは、それは炎柱である煉獄さんのことを指していたのではないかと私が思い至ったのは、ずいぶん後のことだった。そのときは、誰のことかはわからなかった。だけどそれでも同じだよって言ってくれたことがうれしくて、そして哀しくて、だからこそあの日のことを思い返すたびに、いつだって私は余計に涙が出てしまうのだった。
「なにかひとつできるようになっても、現実は待ってはくれない。昨日より強くなっていると思っても、それでも至らないことは容赦なく襲いくる」
「うん」
「同じだって思ったんだ。強くなりたいのに、守りたいのに、約束を果たしたいのに、どうしたらそこに辿り着けるんだろうって、ときどき苦しい日もあるってこと」
「竈門くんはいつも明るくて一生懸命みたいだから、同じだって言われたときは少し驚いたりもしたんだよ」
私の言葉に竈門くんは、ははっ、と声に出して笑った。それから、ちいさく息を吸って吐いてから、ちょっと困ったようにでもやわらかく目を細めて、私を見た。
「あの日、さんはこうも言ってた。……禰豆子ちゃんが人間に戻れる日まで、竈門くんはぜったいに死なないと思うよって」
その言葉に、深い意味はない。だけどどうしてか、そう思って堪らなかったから口にしただけだ。なのに、どうしてこの人はそんなことまで覚えていてくれたのだろう。初対面の、泣き虫な女の言葉など。
「あのとき、なんだか無性にうれしかったんだよね」
「えっとぉ、ほんとうに?」
「本当に。どうして?俺が嘘言っているように見えるのか?」
「そうじゃなくて」
「うん?」
「なんていうか、訳が、わからない、です」
そうか?と小首を傾げた竈門くんは、興味深そうな目で私の顔をじっと見つめた。それから、簡単なことだよって、そう言って私の手を引いて。
「……つまりさ、こういうことだよ」
ぐいっ引っ張られ、上体を傾けた私に対し、さらに距離を詰めた竈門くんは、おでことおでこがくっつきそうな距離で、私があの日、恋をした強くてやさしくて、泣きたくなるほどにきれいでまっすぐな、あの燃えるように熱い赤い瞳をゆらゆらときらめくように揺らしていた。
「……聞いて。俺はさ」
きみに出会えて、ほんとうに、うれしいんだ。
そうして、やわらかな声で、ゆっくりと確かめるみたいに、竈門くんはそう言った。
*
……禰豆子ちゃんが人間に戻れたら、いっしょに太陽の下を歩いて、好きなところへ行けたらいいよね。たくさん、行けたらいいよね……思いっきり泣いたら笑ったり、できるようになれたらいいよね……。
あのとき、さんが口にしたことは単に俺への気遣いに過ぎないのかもしれない。やっぱり深い意味なんかなにひとつなかったのかも。だけど俺としてはそのやさしさが、時折折れそうになる心に沁み入るように響いて、ただとてもうれしかったのだ。たとえば、『禰豆子は敵ではない』と見做してくれる人はいても、本当の意味で『禰豆子が人間に戻れる日が来る』ということを信じてくれている人はそんなにはいなかったのではないかと思う。少なくともあまりにも不確かで難しく、方法の全く分からないそれを信じ、況してしっかりと口にして言葉にしてくれる人はほとんどいなかった。そもそもいつ志半ばで死ぬかもしれない世の中にあってやり遂げることの難しさを俺たちは知っているというせいもあるのかもしれなかった。
……私もね、死んだお兄ちゃんが、最期は鬼になってたんだよ。私を食べる前に、鬼殺隊の人が助けてくれたんだけどね。
なんでもないように語る彼女はこれまでどれほど泣いたのだろう。どんなに口惜しかったんだろうか。だけどそんな彼女だからこそきっと同じではないにせよ、似ているからこそそんなふうに慮ってくれたのかもしれなかった。
……鬼になった人が、人に戻れる奇跡がどこかにかけらでもあるならいいなって、私も思うんだよ、心から。
あのとき、そう言ってやわらかく笑った彼女のにおいが忘れられなかった。胸を打つ感覚はひどくあまくて、だけど同時に締めつけられるような切なさに襲われた。……ああ、この笑顔を、このにおいを、忘れたくないなあ。ずっと、ずっと覚えていたい。いや、ずっとずっと、俺だけのものにできたら。きみのいろんな表情を、これからは誰よりいちばん近くで見られたなら。それができたならどんなに幸福だろうか。
……俺のもんを持っていくなら責任はきっちり取れよなァ。
さんの師匠だか兄だかよくわからない保護者位置を占めているらしい不死川さんからも、なんだかちょっともやもやする言い方で、だけどまっすぐに言われてしまったことだし。
……もしも、この人生に続きがあるなら。終わったあとも、まだ続くものがあるのなら。行きたいところへ行く。会いたい人に会う。伝えたいことだって、たくさん言いたいと思った。あの日、掴めなかった手をとって、俺のほうこそ、あのとき彼女がくれたやさしさを、ほんの少しでも返していけたらと。……だから、だからさ。そう思っていたから、だからなんだかよくわからないけども、持ってけェとなんだかむかむかするドヤ顔をしていたあの人とも、俺はちゃんと約束をしたから。
「」
何故か両手で自分の顔を覆おうとするさんの手を掴んで阻止してから、俺はゆっくりと顔を傾け、あのときからずっと口にできなかった言葉を、噛み締めるように、秘め続けた大いなる熱を込めて告げた。真っ赤になっている、そのかわいい耳元へ。
頬を染めて泣きそうな顔で、でもとてもうれしそうにはにかむ彼女からは、花のようにあまい、あたたかな春のにおいがした。