泥で薄汚れた残雪が薄く積もった、繁茂する笹藪。そんな雪を跳ね散らす私の脚は、町から休みなく駆けているというのに止まらない。無論とうに息は切れ、喉は渇き、肺が悲鳴をあげている。それでも脚を止めないのには、わけがあった。
 まだ緑が芽吹いて間もない木々の向こうに立ち昇る煙。彼は古めかしい造りをした家の前で薪を割っているようだ。その見覚えのある市松模様の背中が見えた瞬間、私は泣き叫ぶようにその名を呼んでいた。

「炭治郎!! 炭治郎ーっ!!」
「あっ! やっぱり!!」

 パッと笑みを浮かべた彼の元に辿り着く前に、私は勢いあまって前のめりに転んでしまう。飛び散る泥飛沫。しこたま打った顔面は、勿論痛かった。
 けれどそれしきの痛みなんて、屁でもなかった。むしろ込み上げてくる嬉しさで、視界が霞んだ。

 (やっぱり炭治郎だ! 炭治郎が、炭治郎が……っ!)



 顔面を押さえる指と指の間から見える、差し出されるごつごつとした手のひら、太い手首、羽織のほつれた袖。反射的に彼を見上げた私の目に、淡い春の日が差す。

「においがしたと思って振り向いたら、やっぱりだった。本当に久しぶりだ。良かった、元気そうで」
「炭治郎……」

 伸びた背丈、逞しくなった身体付き。記憶の中の彼よりも、声がほんの少し低くなっている。それでも後光のような日差しの中 浮かべる笑みの慈しみ溢れる柔らかさは、当時のままだった。
 私は自然と滲んでいた涙を拭いながらその手を取り、彼に勧められるまま家の中へと足を踏み入れるのだった。


 三年程前に忽然と姿を消した竈門家と私の家族は、家族ぐるみの付き合いをしていた。切欠は産婆である私の母が、葵枝さんの何度目かのお産に立ち会った事だった。それが縁で母同士が懇意にするようになり、自然と私達も仲良くなった。
 三年前に一家の大黒柱を喪った竈門家。我が家としても何かと竈門家を気にかけていた時だった。竈門家は、ある日突然姿を消したのだ。

「昨日三郎じいさんに薬を届けに行ったら、炭治郎が帰ってきたって教えてくれたの。三郎じいさん、お酒を呑みすぎるせいで日中も手が震えるようになっちゃって、皆相手にしていなかったんだけど」
「えっ、あの三郎じいさんが? そう言われてみれば微妙に酒の臭いがしてたな」
「断酒してから暫く経つから、少しは治ってきたんだけどね」

 禰豆子ちゃんや炭治郎の友人という男性二人に挨拶をした後で、私は炭治郎に連れられて家の裏手へと赴いた。名も知らぬ白い花が咲き乱れるこの土の下には、二人以外の家族全員が埋葬されていると、炭治郎は教えてくれた。
 詳細は聞かなかったと言うより、聞けなかった。彼がほんの一瞬だけ浮かべたひどく沈鬱な面持ちから、のっぴきならない事情があった事だけが窺い知れた。

「そうか……あれから三年経つんだもんな」

 その場にしゃがみ、二人並んで手を合わせる。ポツリと呟く炭治郎の左手は、やけに皺が刻まれていた。右目も少し輝き方が違って見えた。聞けば、どちらとも少々不自由になってしまったのだそうだ。
 結局その日は、お参りが終わったらそこで別れた。日が暮れる前ではあったが、炭治郎は私を心配して家まで送ってくれた。
 別れ際、また会いに行ってもいいかどうか、去りゆく背中に向かって尋ねた。振り返った炭治郎は、夕色の空の下 優しげな笑みを浮かべながら快く答えてくれた。ああ、またおいでよ、と。



 この三年の間、炭治郎に、そして禰豆子ちゃんに一体何があったのか。炭治郎の身体に刻まれた無数の傷痕や、機能を失った右目や左手に何があったのか。何故竈門一家は命を喪ってしまったのか。疑問はいつまで経っても尽きなかった。
 が、何にせよ、炭治郎と禰豆子ちゃんだけでも生きて戻ってきてくれた。それで良いじゃないか万々歳だと、私はそれっきり二人の過去に思いを馳せるのをやめにした。以降は、自分が彼らにしてあげられる事は何か考える事にした。そちらの方が余程建設的だと思えた。
 まずは、三年放置されていたせいで荒屋となっていた竈門家を元の状態に戻す手伝いをする事にした。こちらは幸い男手があり、そこまで時間はかからなかった。
 作業をしながら、炭治郎と同居する事になった二人のお友達とも仲良くなれた。二人とも随分と個性的な人達で若干気圧されたが、炭治郎とはどうやら無二の親友らしく、彼らが笑い合う様は見ていて非常に心洗われる気分だった。

「炭治郎、痛くない?」
「痛くないよ。良い匂いがして、心地良いよ」

 その日は丁度、竈門宅へ向かう山道から完全に残雪が姿を消した日だった。遅咲きの桜が穏やかな風で散り、色の薄い青空に舞い上がっていくような、そんなのどかな昼下がり。
 炭治郎と縁側に腰掛けた私は、なみなみと湯を張った桶に彼の左手を浸し、丹念に揉みほぐしていた。
 湯には花の香りがする精油を数滴垂らしてある。匂いはすぐに薄れてしまって私にはあまり嗅ぎ取れないが、鼻の良い炭治郎にはまだ匂いがわかるようだ。目を閉じて深呼吸を繰り返し、穏やかな表情を浮かべている。

「こんな事、どこで覚えたんだ? 凄いなあ」
「今はね、近所の町医者で看護婦さんの見習いみたいな事をさせてもらっているんだ。先生に炭治郎の左手の事を話したら、手浴を勧めて下さったの」
「そうかあ。ありがとうな、わざわざ」
「ううん。私に出来る事って、こんな事くらいしかないから」

 優しい音を立てて波立つ湯面には、私の顔は映っているだろうか。決してやましい目的で理由を付けて炭治郎の手を握っているわけではない。けれど私の顔は、赤くなったまま一向に治まってくれないのだ。
 初恋は、勿論炭治郎だった。お天道様を思わせる快い笑顔と、同い年にも関わらず家族の為にうまずたゆまず仕事に励むその姿に一目惚れした。多分炭治郎は私の気持ちなんか知らないし、私も告げる気はなかった。隣にいて、一緒に笑っていられるだけで幸せだった。
 炭治郎が失踪した当時は、気持ちを告げなかった事をひどく後悔したものだった。恋の終わりがこんな呆気ないものだとは思ってもみなかった。彼の事は忘れるしかないと思った。けれど、そんな簡単に忘れられるような恋ではなかった。
 そんな矢先の、突然の炭治郎の帰郷である。炭治郎を想う恋心は、日に日に強くなっていた。

「相変わらず優しいな。は」

 その時湯の中で揺蕩う炭治郎の左手が、微かに握り返してきたような気がした。触られているのもわからないと言っていた筈なのにと反射的に顔を上げると、ふと視線が重なり合う。穏やかな笑みを浮かべる炭治郎は、笑みを深くしながら口を開いた。

「ありがとう。俺なんかの為に、ここまでしてくれて」
「な、なんかだなんて。そんな事言わないで」
「嬉しいんだ。その優しく包み込んでくれるような思いやりの心が、俺の心まで温めてくれるような気がして」
「炭治郎……」

 ふと、一抹の寂しさに似た感情がよぎった。優しい筈の炭治郎の笑顔。それは私が一目惚れした当時のそのままの笑顔なのに、どうしてその笑顔を眺めていると胸が痛むのだろう。炭治郎は笑っているのに、何故悲しげに見えるのだろう。
 飛び散る水滴。私は衝動的に、その首筋に腕を回していた。手が濡れていたので炭治郎の着物が濡れてしまったが、抱きしめずにはいられなかった。抱いた切ない想いを言葉にする事は出来なかった。ただその笑顔がひどく儚げに見えて、何とかして炭治郎を励ましたかった。

「あ……あの……」

 暫くしてから聞こえてきたのは、戸惑って上擦った炭治郎の声だった。私はそこで初めて我に返り、身体を捻って顔を背ける。

「ご、ごめん! つい……」
「いや……」
「あの……ごめんなさい、私」
「待っ、待って!」

 気まずさに立ち上がりかけた身体の動きが止まる。力強い炭治郎の手のひらが、私の手を掴んでいるのだ。
 伝わってくる温もり。微かな震え。けれど私の手を握る力は弱くはなくて、決して離すまいとするような握り方に、胸が高鳴った。

「あ……明日も、会えるよな?」
「……えっ」
「嫌じゃなかった。俺は……にこうされて、嬉しかった」

 背中を包む温もりに、心臓が口から飛び出そうになった。けたたましく鳴る鼓動が重なり合っていて、最早どちらのものかわからない。おずおずと身体の前面に回された炭治郎の腕はやはり逞しくて、この上なく胸が熱くなる。
 私は胸のあたりにある炭治郎の手を抱きしめるようにして俯き、小さく頷くのだった。



 手浴を口実にした炭治郎との逢瀬は、その後も続いた。どんなに丹念に揉みほぐそうとも、炭治郎の左手が元通り動き始める事は無かった。ただ肌のハリつやは微妙に良くなっていったので、それだけでも自分が彼の元を訪れる事に意義があるような気がしていた。

 夏が過ぎて、秋が訪れた。通い始めた当初は往復に時間も体力も浪費したものだが、この頃になれば自然と脚力が鍛えられて、そんなに苦なく町と竈門家を往復出来るようになっていた。
 行きは当然坂ばかりだ。だが、雲取山へ向かう足取りが重くなる事は無かった。

 (今日も……するのかな)

 弾む息。炭治郎に抱きしめられる感覚を思い出し、恥ずかしくなって頭を振る。
 逢瀬の度に人目を忍び交わされる抱擁。何度も抱きしめられているというのに、耐性は全く付かない。いつも頭が沸騰して、死んでしまいそうになるくらいドキドキしてしまうのだ。
 
「ねえ、君」

 その日も私は竈門家へ向かっていた。町を抜け、家屋がポツポツと点在する野道を歩いていた時、不意に背後から声をかけられ、立ち止まって振り返る。
 私を呼び止めたのは書生風の服装をした男性だった。一見何の変哲もない男性に見えたが、その挙動はどこかおかしかった。男性は手を伸ばしながら、じりじりと近付いてくる。

「何処へ行くんだい」
「えっ」
「いつもこの道を通るじゃないか、君」

 彼は近くの民家に住む人なのだろうか。私は何となく後退しながら答えた。

「ち、知人の家です。山の中腹辺りにあるので」
「それより、僕の家へ行こうよ」
「えっ」
「ね、そうしなさい。ほら早く」

 男性は何故か距離を詰めようとしてくる。明らかにおかしい。後ずさる足は止まらず、遂に私は彼に背を向けて走り出した。

「待ちなさい!」

 後ろは振り向かなかったが、私を追ってくる足音や息遣いが聞こえていた。背筋の冷える感覚。考えすぎだろうか。だが、私の本能は逃げるのを止めようとしない。
 やがて、道が鬱蒼と茂る森の中へ入ろうとした時だった。曲がって先が見えなくなっている道に沿って懸命に走っていると、誰かと出会い頭にぶつかった。

「わっ!」

 衝撃。天へと切り替わる視界。だが、背中は痛まない。
 ハラリと何かが舞い、地に落ちる。目の端に映るそれは、落ち着いた色をした中折れ帽だ。

「悪ィ」

 炭治郎のそれよりも随分と低い声。ぶつかって体勢を崩した私の背を支えたその人はそっと私から手を離すと、腰を屈め、広げた片手で帽子を把握しポスリと頭へ載せる。

「怪我ねえか」

 私の前に立ちはだかるのは、シャツの上に無地の着物を羽織った袴姿の男性だった。男性の顔面には瘢痕化した大きな古傷が刻まれていた。よく見ると帽子を掴んだその手や腕も、幾筋にも渡って傷が連なっている。その佇まいから裏社会の人かと思い即座に身構えたが、纏う雰囲気は意外にも然程鋭くは無く、親しみやすいわけではないがとっつきにくいわけでもなかった。
 とりあえず、悪い人では無さそうだ。私はそこでようやく自分の状況を思い出し、頭を下げつつ礼を述べて走り出そうとする。

「おい!」

 だが、男性の張り上げた声で足が止まった。

「そっちは山だぞ。人家はねェ。探るわけじゃねえが、そんな軽装でどこへ行こうってんだ」
「え、えっと……あの、知人の家へ」

 今日に限って何故こうも行き先を尋ねられるのだろう。最初に出会した書生風の男性の姿が脳裏をよぎり、足が竦み始める。だが、私は男性の発した言葉を聞いて勢いよく振り返った。

「おい、ひょっとして竈門って兄妹の家かァ?」
「!」
「ッハ、こりゃ渡りに船ってヤツだなァ」

 聞けばどうやらこの男性も炭治郎の家へ用があるらしい。先程の男性とは違い、具体的な個人名を聞いた事で私はすっかり安心してしまう。

「助かったぜェ。人家も疎らで、道を尋ねようにも尋ねられなかったんだよ」
「そ、そうですか」
「話には聞いていたが、まさか本当にこんな山奥だとはなァ……」

 そんなこんなで、道中はこの男性と道を共にする事になった。先程の男性が気になって後ろを何度も確認したが、何処へ行ったのか姿が見えない。
 というか炭治郎は、こんな強面の人とも知り合いだったのか。その社交性には改めて恐れ入る。
 そんな考え事をしながら道を辿ると、竈門家へはあっという間に到着した。

「あっ、不死川さん……!?」

 彼の来訪にいの一番に気付いたのは、禰豆子ちゃんだった。彼女は庭先で洗濯物を干していたようだ。
 物干し竿ではためく敷布。褌らしき長手拭いが彼女の手を離れ、一反木綿のように宙空へと舞い上がる。
 我々との距離は決して近くはなかったが、禰豆子ちゃんはこの上なく目を輝かせながら一目散に駆け寄ってきた。

「不死川さん! 不死川さあん!!」
「おォ、竈門禰豆子」
「わあぁ、本当に来てくださるなんて!! 夢みたい!! 夢みたい!!」
「兄貴は何処にいやがる。渡してェもんが……」
「お元気でしたか!? 今日は泊まっていかれるんですよね? お夕飯は何がいいですか! 私、腕によりをかけて何でも作っちゃいますから!」
「いや、すぐ帰る。それより馬鹿兄貴の居場所は」
「ハハハハハハハ!!! やっぱりこの気配はテメェかあァァァァ!! 勝負勝負ゥゥ!!!!」

 次いで土煙を巻き上げながら山道を駆け下ってきたのは、猪の被り物姿の伊之助さんだった。かなり離れた距離だというのに伊之助さんはその場で地を蹴って高く跳躍すると、たった一跳びで私達の眼前まで迫ってくる。
 いつの間にか私達を守るかのように前へ出ていた男性は、両手をカマキリのように構えて襲いかかってくる伊之助さんと組み合うと、難無くその身を宙に放り投げた。額には青筋が浮かんでいて、とてつもなく恐ろしい形相だ。

「おい嘴平ァ! 相変わらず見境無えなァ! 頭イカれてんのか!!」
「ヒギャアアァッ!! もしやと思って出てきたらやっぱりイターッ!!」

 鳥を絞め殺した時のような絶叫がこだまする。屋内から飛び出してきた善逸さんが輪に加われば、もう辺りはもみくちゃだ。男性と伊之助さんが取っ組み合う横で禰豆子ちゃんは頬を染めながら懸命に彼へ話しかけ、そんな禰豆子ちゃんを後ろから引っ張る善逸さんはずっと何事かを泣き叫んでいる。整然と干されていた筈の洗濯物は暴れる伊之助さんに薙ぎ倒されて見る影もなく、いずれも泥まみれだ。
 その輪の中から微妙に外れた位置に佇んでいた私は呆気にとられてその光景を眺めているのだが、やがてハッと思い出して裏庭へと駆けていく。
 そうだ、男の人は炭治郎に用があると言っていたのだっけ。

「炭治郎! 炭治郎ー!!」

 確か昨日会った時、炭治郎は薪が足りないと言っていたような。きっと薪割りでもしているのではと思い裏庭へ赴くと、やはり炭治郎の姿は裏庭にあった。
 が、駆け寄ろうとする足が止まる。

「ん? ああ、!」

 切り株に突き立てられた斧、振り向いた快活な笑顔に浮かぶ玉の汗。汗は喉仏の張り出した首筋を伝い、見事に引き締まった上半身へと流れ落ちていく。
 その筋肉美に、私は一瞬言葉を失うほど見惚れてしまったのだ。そしてそれは当然炭治郎へ伝わってしまったらしく、明るい笑顔を浮かべていた炭治郎がポッと頬を染め、戸惑うように視線を彷徨わせてしまう。

「あ……。ご、ごめんな、吃驚させて。何も着ていない方が動きやすかったんだ」
「う、ううん。私の方こそ」
「誰か来たんだよな? 呼びに来てくれてありがとう。このにおいは……」
「あ、炭治郎待って! 汗拭かなきゃ、風邪引いちゃう」

 私が駆け寄って汗を拭こうとすると炭治郎は遠慮したが、炭治郎は片手が不自由なのだ。どうしても届かない箇所が出てくるので、私は半ば強引にその凹凸の激しい体表面を流れる汗を拭き取りにかかる。

「急かしちゃってごめんね。すぐ拭いちゃうから」
「あ……ああ。ありがとう」
「ううん」

 炭治郎の裸を前にして、私は顔を上げられなかった。衣類を介しているとはいえ、この上半身にいつも抱きしめられているのだと思うと、とても平常心ではいられないのだ。炭治郎も炭治郎で照れ臭いようで、私達は二人して顔を背け合いながら暫くその場に佇んで汗を拭き続ける。
 が、何かの折に視線が合い、身体を拭く手が止まった。澄んだ薄い色をした秋空。風に舞う互いの髪の毛。遠くで聞こえる禰豆子ちゃん達の笑い声。

「……

 いつもより低めの、掠れた声で名前を呼ばれると鼓動が跳ねた。頬を撫でる炭治郎の手のひらの温もりよりも、自分の頬の方が熱を放っている。
 自然と伏せられる互いの目蓋。そうして徐々に唇同士の距離が近付きかけた時、わざとらしい咳払いが背後から響いてきた。

「……っ!! しっ、不死川さんっ!!」
「あー……良い雰囲気の所申し訳ねェんだが。いくら待っても気付きやがらねえから、つい」

 互いに目をかっ開いた私達は、弾かれたように距離を取る。家屋の陰から現れた男性が、面倒臭そうな表情を浮かべてボリボリと頭を掻いているのが視界の端に見える。
 炭治郎はあからさまにワタワタしながら羽織りを着込むと、手足を左右同時に出しながら彼の元へ近付いていった。私はといえば、羞恥のあまりその場で顔を覆ったまましゃがみ込んでしまう。

 (くっ、口が……! くっついちゃうかと思った……!)

「おっ、お久しぶりですね!! いやあお元気そうで!!」
「おォ」
「禰豆子と文通して下さってありがとうございます! 俺の手紙も届いていますか? 一度も返事が返ってこないので心配してましたよ! ハハハ!」
「ん」

 覆った指の隙間から見える景色。男性は仏頂面のまま、懐から差し出したものを炭治郎へと押し付ける。形状からして、どうやら文のようだ。不思議そうに受け取った炭治郎は、文と彼を何度も見比べる。

「これは……不死川さんから俺にですか?」
「違ェよ。栗花落から」
「ああ、カナヲから!」

 途端に明るさの増す、炭治郎の声。不思議に思って手を下ろし、顔を上げた私はすぐにその場で硬直した。

「ったく……。純朴そうな顔して隅に置けねェなァ、テメェも」
「えっ?」
「安心しろォ。今見た事は栗花落には黙っておいてやる」
「えっ!? お、俺達は別にそんな」
「じゃあなァ。帰るわァ」
「ええっ、もう帰るんですか!? 折角だからもう少しゆっくり……」
「こんな小煩ェ家でゆっくりしてられっかよ。もう二度と来ねえ」
「そんなあ! 待って下さいよ不死川さん!」

 足早にこの場を去っていく男性を、炭治郎が追いかけていく。一人取り残された私は呆然とその後ろ姿を見送ってから、耳にした言葉の断片を思い浮かべ、直感的に悟った。
 そして、おもむろに立ち上がる。

「不死川さんにはまいったなぁ。まさか手紙だけ届けに来るなんて。変わってるよなあ、……って、あれ? ー?」

 そんな炭治郎の言葉は、背中のずっと向こうで聞こえてくる。走り出した私は、既に竈門家から離れていたからだ。暫く走ってから適当な木の影で立ち止まり、力尽きたようにへたり込んでしゃくり上げる。
 失恋。そして、炭治郎を異なる異性間で板挟みにさせてしまった後悔。

 (炭治郎は優しいから……誰も傷付けたくない人だからきっと、心に決めた人がいても私の気持ちに付き合ってくれていたんだ)

 炭治郎が私を眺める眼差しは、いつも優しかった。抱擁の後にはいつも愛おしそうに頭を撫でてくれるから、私はつい勘違いしてしまったのだ。
 誰よりも誠実な炭治郎が二股なんて卑劣な真似をするわけがなかった。そもそも抱きついたのは私からだ。炭治郎は最初から私の気持ちに気付いていて、真実を告げて私が傷付いてしまわないように今までずっと想いに付き合ってくれていたのだ。そうとしか思えなかった。

「……っ」

 土を握りしめ、思いきり投げる。砂が小石が舞い、風の加減で自分に返ってくる。食いしばる歯が痛かった。涙が、ポタリと落ちる。
 悪い事をさせてしまった。恋仲の人がいるのなら、変に情なんてかけずに思いっきり振ってくれて良かったのに、なんて恨みがましく思ったりもする。
 けれど私が好きなのは、彼のそんな情け深い所なのだ。この絶望的な悲しみは、炭治郎のせいじゃない。

 (……っ、私のせいだ。勝手に舞い上がっていた私が悪い)

「やあ」

 不意に投げかけられた声に、私はハッと我に返る。自分は一体どのくらいここで泣いていたのだろう。気付くと空は大分赤くなっていて、ぼんやりと暗くなりかけた木々の中に人が佇んでいるのが見える。影だ。
 声からして男性。しかも微妙に聞き覚えがあった。パキ、と枝を踏みしめるような音が重なり、彼が近付いてくる気配がした。

「泣いてるの? 可哀想に」
「……っ」
「さ、おいで。僕の家で慰めてあげるよ。ね?」

!」

 何を言ってるんだ、この人は。そんな思考は、大好きな人の声でたちまち遮られた。ガサガサと藪をかき分けるような音の後で、私を包み込む温もり。

「良かった……無事で良かった。探してた、ずっと。急にいなくなるから、心配した」

 炭治郎の声は、震えていた。本当に心配していたのだという気持ちがひしひしと伝わってくるようで、胸が痛くなる。罪悪感から、私は俯いた。

「さ、もう暗くなってきた。今日は家に泊まっていった方がいい。一緒に帰ろう」
「……君、何?」

 男性の不愉快そうな声が頭上から降ってくる。ピクンと身体を揺らした私が怖がっていると思ったのか、炭治郎は小さな声で「大丈夫だよ」と囁き、抱きしめる腕の力を強くした。

「何、とは何ですか」
「どういう関係なんだい。彼女はこれから僕の家に行くんだが。まさか、兄妹かい?」
「恋人です」

 炭治郎は実に迷いなくきっぱりと言い切った。思わず耳を疑ってしまう。向こうは炭治郎の事を知らないのだから、こんなもの適当に言っておけばいいのに。
 けれどすぐに察知した。そうか、妹といえばこの男性は今後も私をつけ狙ってくるかもしれない。だから炭治郎はあえて恋人と言ったのだ。

「恋人……本当に?」
「はい! 俺は嘘がつけない性格なので、嘘をつくと普通の顔が出来なくなるので本当です!」
「ふーん……」

 私の背後の炭治郎は、おそらく曇りなき眼で相手へ視線を送っているのだろう。男性はその様子を胡散臭そうに眺めていたが、やがて炭治郎の圧倒的な正直者的雰囲気に呑まれたのか、ウンザリしたように立ち去っていく。
 このまま男性と炭治郎が喧嘩でもするのではないかと不穏に思っていたが、何とか無事に場が収まって安心した。私はホッと胸を撫で下ろし、強張っていた身体の力を抜く。

「ありがとう……炭治郎。助かった」
「うん」
「それにしても、嘘つけるようになったんだね。すごく自然だったよ」
「嘘? 違うよ、俺は嘘なんてつけない」

 その言葉と共に強くなる、炭治郎の腕の力。そういえば男性が立ち去ったのに、炭治郎は抱きしめるのをやめてくれない。途端にざわつき始める心。私はかぶりを振って、頭に浮かんだつまらない予感を振り払う。

「た、……炭治郎。離して」
。俺は嘘なんかついたつもりはない。俺は、君と……恋人同士だと思ってる。ずっと」
「う……嘘。だって、さっき……女の子からの手紙」
「好きだ」
 
 夕闇漂う静謐な空間に、芯のある声が響き渡る。私を抱きしめる手はじっとりと汗ばんでいて、微かに震えている。

が好きだ。俺は、ずっと君の事が好きだった」
「……っ」
「言うのが遅れてごめん。気持ちをどう伝えようか悩みあぐねているうちに、こんなに季節が過ぎてしまった。本来なら君を抱きしめる前にまず気持ちを言うべきだったのに……本当にすまない」
「何で……? どうして、私なんか……っ」
「なんか、だなんて。そんな事言わないでおくれよ」

 炭治郎の言う事が信じられず、けれど想いが実った事が嬉しくて、まるで夢のようで私はひたすら顔を覆って泣き始めた。どこかで聞いたような言葉に顔を上げ、身体を捻って彼と正対する。
 相変わらず辺りは薄暗かったが、雲間から日が差し、炭治郎の笑顔が目に焼き付く。少し照れ臭げにはにかむその笑顔は、やっぱり昔の炭治郎そのままで。ひどく安心した私は、続く言葉を聞き終わる前にその頬を包み、口付けるのだった。

「それで……さ。薄々気付いてるけど、やっぱり言葉で聞きたいんだ。は俺の事、どう……んむむっ」