甘露寺蜜璃には妹がいる。
炭治郎がそれを知ったのは、蝶屋敷にて頂き物だという西洋菓子を食べている時だった。話題の一環として炭治郎が尋ねたのか、自然とそんな流れになったのかはもう覚えていないが、「甘露寺さんの妹さんが、いつもお裾分けにと持って来てくれるんです」とアオイが言っていたような記憶だけは残っている。その『妹さん』を見たこともなければ、会ったこともなかったから、その時は炭治郎も相槌を打つだけで、それ以上話が膨らむこともなかった。寧ろ、今の今までそんな会話をしたことすら半分忘れかけていたぐらいだ。それなのに、なぜ今この瞬間そんなことを思い出したかというと、単純な話、西洋菓子の甘い匂いが彼の鼻を擽ったからに他ならない。

「──いつもありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。いつも作り過ぎてしまうので…貰って頂けて助かってます」
「ふふ。みんな次はいつ持って来てくれるのかって楽しみにしてるんですよ」

開けっ放しにされた玄関扉の奥から話し声が聞こえる。一人は屋敷の主人であるしのぶの声。もう一人は聞き覚えのない、知らない女の人の声。ふわりと鼻を掠めた西洋菓子特有の甘い匂いにつられて、炭治郎はひょっこりと開いている玄関を覗き込んだ。

「あら、おかえりなさい」

炭治郎に気づいたしのぶが、いつものように、たおやかに微笑む。その視線を辿るように振り返ったのは、炭治郎と年頃の近そうな少女だった。

「…………はっ、こ、こんにちは!」

炭治郎の口から勢いよく飛び出したのは何の代わり映えもしない挨拶の言葉。この少女とは初めて会うはずなのに、どこか見覚えがあるような気がして、炭治郎はパチリと何度か瞬きを繰り返した。つぶらな瞳を細めて、少女の方も「こんにちは」と口にする。それは一言一句まったく同じ言葉だったけれど、少女の口から紡がれると、また違う言葉のように聞こえたのだから不思議なものだ。

「あの、竈門炭治郎です! はじめまして!!」
「はじめまして。私は……甘露寺です」



人の縁とは奇妙なもので、一度知り合ってしまうと面白いように顔を合わせることが増えた。それは蝶屋敷であったり、道端であったり、もしかしたら認識していなかっただけで今までも擦れ違っていたことがあるのかもしれない、と思うくらいには日常の中で出会うことが多かった。
たとえば、今日もそうだ。

!」
「あ、炭治郎さん。今お帰りですか?」
「ああ。こそ、すごい大荷物だな……今日は宴会か何かか?」
「え? いえ、姉と私の二人だけですよ。一週間ほどずっと任務に行っていた姉が帰って来るそうなので、少しだけ…豪勢にはしようと思ってますが」

両手の籠いっぱいの食材。恐らく、背負っている風呂敷にもぎゅうぎゅうに詰め込まれているのだろう。胸元にある風呂敷の結び目の先は、千切れてしまいそうなほどに短い。

「貸して」
「あ……」
「屋敷まで手伝うよ。甘露寺さんには負けるけど、よりは俺の方が力持ちだから」

の両手からやんわりと籠を抜き取り、炭治郎が微笑む。申し訳なさそうに少しばかり眉を下げたも、そんな彼の表情を見ては仄かに頬を桃色に染めて「ありがとうございます」と、小さくお礼の言葉を口にした。

甘露寺は甘露寺蜜璃の妹だ。蜜璃が柱になった時、姉の手伝いをしようと単身実家を出て、彼女の屋敷までやって来た。忙しい姉の代わりに家事全般をこなし、帰ってきた姉が心置きなく休めるようにと留守を守ってくれている。姉妹とはいえ、二人が並んでもあまり似ているようには見えない。これでも昔は蜜璃もと同じ髪色をしていて、よく似た姉妹だったのだが、桜餅の食べ過ぎで蜜璃の髪が桃色に変色してしまってからは、大抵の人間から「似ていない」と言われるようになってしまった。髪色でなく、顔立ちを見て貰えれば似ているところもあるのだが、こればっかりは仕方ない。それに、似ていても似ていなくても、蜜璃にとっては可愛い妹に変わりないのだから、それで十分だった。

(ど、どんなお話をしているのかしら……)

その可愛い妹が男の子と仲良く話をしている。ドキドキと高鳴る鼓動を止めることもしないで、蜜璃は物陰から妹と少年の姿を見つめていた。本当にたまたま、帰る道すがら二人を見つけただけで、断じて覗き見をしようとして後をつけているわけではない。そもそも、蜜璃の帰る先はと同じなのだから。

(まさか、まさかが炭治郎くんと!? ううん、早とちりしちゃダメよ、蜜璃! ……あああ、でも、のあんな顔初めて見たわ!)

自分のことではないのに、頬は紅潮して、手に汗を掻いてしまう。ぎゅう、と壁についている手に強く力を籠めれば、身体を隠してくれている建物の壁がみしりと音を立てた。

「え、じゃあ、これ全部今日の夕飯の材料なのか?」
「はい。きっとお腹を空かせて帰ってきますので、これくらい、姉ならぺろりです」
「凄いなあ…」

どうやら二人の会話は今日の夕飯についてらしい。

(そうだわ! 、そのまま炭治郎くんを誘うのよ! 頑張って!!)

聞こえてきた会話の内容に、何故か蜜璃の方が気合いが入ってしまって、握り拳を作って勝手に応援しだす始末。早とちりはいけないと、自分を言い聞かせたばかりだというのに。横を通り過ぎていく人々が蜜璃に不審そうな目を向けても、「あのお姉ちゃん何してるの?」なんて無邪気に問い掛けた子供の親が、その手を引いてそそくさと離れて行っても、そんなことを気にしている余裕は今の彼女にはなかった。

(……ん? と炭治郎くん……ってことは、炭治郎くんが私の義弟になるの!?)

話が飛躍しすぎるにも程がある。
などと彼女の思考を止めてくれる者はおらず、両手で自分の頬を覆って、蜜璃は一人で頭に花畑を作り上げていた。どうしましょう、どうしましょう、と勝手に盛り上がる蜜璃が動くたびに、三つ編みにした桃色の髪が揺れる。ここまでくると、と炭治郎の姿すらも蜜璃の視界からは外れてしまっていた。

「──あ、やっぱり。甘露寺さん!」
「っ、ひゃい!」

びくりと肩が大きく跳ね上がる。呼ばれた名前に、返事をしたのは完全に反射だった。恐る恐る声が聞こえた方に目を向けると、案の定というか、なんというか、そこには蜜璃が一心に見つめていた二人が立っていた。

「甘露寺さんの匂いがするなあとは薄々思ってたんですけど、やっぱり。ちょっと前から後ろを歩いてましたよね。声を掛けてくれれば良かったのに」
「え!? あ、あああうん、そうね! その、何だか緊張しちゃって…!」
「緊張?」
「……それより姉さん、そんな物陰に隠れてたら変な人に見えるよ」
「ご、ごめんなさい」

明らかに妹が呆れたような目で自分を見ている。それがわかって、蜜璃はすごすごと建物の影から姿を現した。

「荷物を持ってくれたお礼に、今日の夕飯に炭治郎さんをお招きしたの」
「! とっても素敵ね!」
「……へ?」
「あ…ううん。えーっと、のお料理は美味しいから、是非たくさん食べていってね」

取り繕うように浮かべた笑顔はどこか頼りなかった。帰る所は同じなのだからと、自然と三人一緒に歩き出す。和やかに会話をする二人の一歩後ろを歩きながら、蜜璃は「後ろからこっそり見てるだけのつもりだったのに……もしかして、私ってば邪魔者……?」なんて思ったりもしたが、時折振られる話題に答えているうちに、そんな考えはいつの間にか消えてしまっていた。ちなみに、それが世間一般に言う『覗き見』になるということに、きっと蜜璃は気づかない。



「姉さん、羊羹つくったんだけど、食べる?」
「! もちろん!」

が蜜璃に声を掛けてきたのは、客人である炭治郎が帰った後だった。聞く前から既に準備をしていたのか、すぐに四角い小豆色の塊が盛られた小皿が蜜璃の前に差し出される。

「折角だから、炭治郎くんにも食べてもらえば良かったのに」
「んー…炭治郎さん、お腹いっぱいだって言ってたから。出したら無理してでも食べちゃうでしょう?」
「…そっか」

確かに、蜜璃に付き合ってかなりの量を食べていたから、帰る頃には本当に苦しそうだった。そんな炭治郎の姿を思い出しつつ、羊羹と一緒にが出してくれた楊枝を手に取る。一口大に切り分けた羊羮を口に含めば、じんわりと小豆の甘みが広がった。──うん、美味しい。けれども、少しだけ違和感を感じて、蜜璃は思わず小首を傾げた。

「…………あら? 、いつもと何か変えた?」
「え、変えてないよ? お、美味しくない!?」
「ううん、いつも通りとっても美味しいわ。でも……いつもより、ちょっとだけ甘いような……」
「ええ?」

訝しみながら、も自分用にと皿に取っていた羊羮を口に入れる。もぐもぐと咀嚼して飲み込んでから、も蜜璃と同じように首を傾げた。

「……そう、かな?」

どうやらにはいつもと変わらないようだ。確かめるようにもう一切れ口に放り込む。やっぱり蜜璃には少しだけ、甘い。

「んー…………あ。この羊羮、また蝶屋敷にお裾分けに持って行くの?」
「うん。そのつもりだよ」
「だからだわ!」
「?」
「ふふ。、炭治郎くんのこと考えながら作ったでしょう」
「……は!?」

一瞬にしての顔が真っ赤に染まり上がった。それはまるで茹で蛸のように。「いや」とか「ちが」とか、言葉になりきっていない言葉を口から発しながらあわてふためく妹の姿を見て、蜜璃の胸はきゅんと高鳴った。

「ふふふ」
「だ、からっ、その……」

赤くなった顔を隠すように両手で覆い、は蜜璃から顔を逸らした。

「そっかあ、にもそんな相手ができたのね……気持ちは伝えないの?」

二人の仲が良いのは一目見てわかったが、そういう関係でないこともすぐにわかった。蜜璃一人が盛り上がったところで、結局は当人たちの気持ちの方が大事で。でも、あわよくば、妹の想いが成就すれば良いのになと、食事中も二人の姿を見ながらずっと思っていた。

「気持ち、なんて……迷惑になるだけだよ」
「そんなことないわ! 炭治郎くんがそんな子だっては思う?」
「思わないけど……、姉さんなら、すぐに自分の気持ちを伝える?」
「私?」

頬を赤く染めたまま、伏し目がちに尋ねてきた妹を見て、それからすぐに蜜璃は優しく笑みを浮かべた。

「そうね…私だったら、ぐわーってなって、すぐに伝えちゃうかもしれない。でも……」

の頬に手を添え、こつりと額を合わせる。

は私じゃないし、私もじゃない。私は私らしく、らしく進んでいけば良いの……ね?」

無理して歩みを合わせる必要はない。誰かになろうとする必要もない。そのままの自分でいれば良い。それはきっと、今の蜜璃だから言える言葉だった。
さらりと蜜璃の髪が離れていく。桜餅のような色の姉の髪を見るとは少しだけ泣きそうになって、それでもぐっと堪えて同じように笑ってみせた。

「今度、姉さんがお休みの日、一緒にお菓子が作りたいな」
「うん! もちろん!」

ここに第三者がいたとしたら、きっとこう言っただろう。「笑った顔がよく似ている」と。


▽ ▽ ▽


ぱたぱたと駆ける足音が聞こえる。それと一緒に甘い香りも近づいてくるのを察して、炭治郎は足を止めた。

「──炭治郎さん!」

後ろから聞こえた声に応えるように振り返れば、そこには炭治郎の予想通りの人がいた。自分目掛けて健気に駆けて来る少女の姿を映すと、自然と彼の目も細まる。


「よ、よかっ、間に合……っ」
「だ、大丈夫か?」

よほど急いで来たのか、膝に手をついて肩で息をするを気づかって「ゆっくりで良いから」と声を掛ける。何度か大きく深呼吸を繰り返して息を整えてから、漸くは顔を上げた。

「あの、蝶屋敷に伺ったら、任務に行ったばかりだって聞いて…今なら間に合うと教えて頂いたので……。それで、その、これを……」

おずおずと差し出されたのは小さな包み。受け取ろうと手を出してから、甘い匂いの発生源はこれだと気づいた。西洋菓子特有の濃厚な甘い匂い。

「もし良ければ、道中のお供にと思って……」
「それでわざわざ? ありがとう!」
「はい。あの……お気をつけて」

走って来たせいか、彼女の頬は上気して薄桃色に染まっている。丸い目を細めたの顔を見ると、どうしてか口にしようとした言葉を飲み込んでしまった。いつまで経っても炭治郎が包みを受け取ってくれないのを不思議に思ったのか、がこてりと首を傾ける。

「……最近、行く先々で西洋菓子の匂いがすると、何だか安心するようになったんだ」
「?」
「ずっと何でかなって思ってたんだけど、今気づいた。──たぶん、を思い出すからだ」
「……へ」
「ありがとう、大事に食べるよ」

一度だけ、包むようにの手に触れて、炭治郎はそのまま菓子の入った包みを彼女の手から取り去った。包みを差し出したままの姿で、はぽかんと口を開けて固まっている。けれどもすぐに、意識を取り戻したかのようには動き出した。

「っ、あの、炭治郎さん! 帰ってきたら、その……また、会いたい…です……」
「! うん。帰ってきたら、一番にに会いに来るよ。約束だ」

包みを持ってない方の手で小指を立てて、の前へと差し出す。ゆっくりとも手を出すと、指同士が近づいたところで炭治郎は彼女の小指に自分のそれを絡ませた。



「──あら、茶柱」

湯飲みの中に浮かぶ小さな柱を見下ろして、顔を綻ばせる。
ああ、何だかとっても良い予感だ。