竈門炭治郎はひどく懊悩していた。
意中の娘と息を顰めて隠れる大岩の陰。
二人の視線の先には、苔むした巨大な石碑が建っている。その陰ではなんと、あの不死川実弥が女人と一心不乱に口付けを交わしているのだ。
◇
これは、かねてより懇意にしていた隊士であるとの共同任務を終えた帰り道で遭遇した事態である。鬱蒼と茂る竹林を貫くように延びる石畳の道を、二人は足取り重く歩いていた。
疲れたね、等と当たり障りのない会話をしながら、当分明るくなりそうにない濃紺の空を見上げ、瞬く星々に目を細めていた時。は突然立ち止まり、真顔で言い放ったのだ。誰かいる、と。
そうして彼女は止める間もなく駆け出し、やっとその姿を発見した時には既に岩陰で前述の行為を覗き見していたというわけなのである。
炭治郎は熱烈な抱擁を交わす不死川らの姿を隠すように己の眼前へ手をかざしながら、もう何度目になるのかわからないへの呼び掛けを繰り返した。
「……。覗き見なんてダメだ、ここから早く離れよう」
「シッ。気付かれちゃうから黙って」
だが彼が幾ら止めようとも、は頑なにこの場を離れようとしない。興味津々といった様子を隠しもせず、兄弟子の情熱的な行為に見入っている。
不死川とは同門の出だ。そこまで親しげではないが、同門である事もあってか、炭治郎の知る限り不死川はに対してそこまで態度がきつくない。
むしろの方は功績を打ち立てて柱となった不死川を尊敬しており、積極的に教えを請いに行ったりもしているぐらいだ。
そんな兄弟子の、まさかの色恋沙汰である。彼女が興味を惹かれないわけがなかった。
(いや……不死川さんなら俺達の気配なんてとっくに気づいていると思うけど……)
そんな本音が喉まで出かかっているのだが、自分達の存在をあからさまに示したくはなかった。炭治郎は黙したままひたすら彼女の細い肩を揺すってみたり腕を引いてみたりするのだが、はやはり動かない。それどころか益々目を輝かせて、兄弟子の色事を熱心に観察しているのである。
せめて不死川の方からこちらに対して何か反応を送ってくれればありがたいのだが、当の不死川といえば女人との口付けに耽るばかりで、こちらには欠片も意識を向けてくれようとはしない。風にのって漂ってくる匂いからは、強い独占欲のような感情を抱いているであろう事が窺えた。珍しく焦っているような印象も受けた。
おそらく不死川は、彼の性質から考えるととても信じ難いが、目の前の物事に熱中するあまり炭治郎達らの存在には気付いていないと思われる。時折聞こえてくる生々しい口付けの音を耳にしながら、炭治郎は熱くなった顔面を片手で押さえ、俯きながら嘆いた。
なんて事だ、とてもじゃないが俺には刺激が強すぎる、と。
「ねえ。不死川さん……凄いね」
少し恥じらいを帯びたようなの囁き声が聞こえてくると、炭治郎はあからさまに身体を揺らして反応してしまう。激しく動揺してしまった事が恥ずかしかった。極力平然とした風を装いながら数度頷いてみせるが、意識するあまり彼女の顔は直視出来ない。
「あれが口吸いってやつなのかな?」
「そ、そうだろうな」
「凄いね。本当にチューチュー言いながらお互いの口を吸い合ってるんだね」
その明け透けな物言いに思わず吹き出しそうになった炭治郎は、口元を覆って深呼吸しながら必死に衝動をやり過ごした。は普段おとなしい娘であるが、たまに素っ頓狂な発言をする。いつもは彼女のそのような自然体さを微笑ましく思っているのだが、この時程厄介に思った事はない。
けれど、炭治郎は心のどこかでホッとしていた。不死川が別の女性と互いを求め合う光景を目撃しても、が落ち込んでいない事に。
不死川が、彼女の恋愛対象外であるらしい事に。
「ね、炭治郎」
が、クイクイっと彼の羽織を引きながら振り返る。ただでさえけたたましいのに、よりバクバクと跳ね上がってしまう鼓動。彼女と目が合って、初めて炭治郎は気付く。
「私達も……してみる? あれ」
意味深な眼差し。
その艶やかな唇に視線が集中し、心が疼く。
少し顔を寄せれば唇と唇が触れ合ってしまいそうな程、彼らの距離は近付いていたのだ。
◇
少女は目の前の想い人が自分の発言に反応するさまを、固唾を飲んで見守っていた。
彼女の想い人である竈門炭治郎は、その純粋無垢な眼を激しく瞬かせながら、ようやくといった様子で口を開く。
「ど……どうしてだ?」
「……」
少女は思わず閉口してしまう。理由なんて勿論決まっていた。は、かねてよりずっと炭治郎へ想いを寄せていたからだ。
そもそも不死川の様子を熱心に観察する振りをしたのも、全てこの流れへ持っていく為なのである。
炭治郎は、感覚が鋭い。特に嗅覚は、相手の匂いを嗅げばその感情が把握出来てしまう程優れている。だからの気持ちなんてすぐに見抜かれていそうなものだが、何故か炭治郎は彼女の気持ちには一向に気付く気配がなかった。
おそらく炭治郎は他人同士が向け合う感情には鋭敏な一方で、自分自身へ向けられる感情にはどこか鈍いのかもしれない。だからは強引な作戦に打って出る事にしたのだ。ここまですれば、きっと自分の想いに気付いてくれるだろうと期待を込めて。
「……そりゃあ」
炭治郎の事が好きだからだよ。心の中ではそう言った。が、言葉が舌を超えて出てくる事はなかった。
やはり、恥ずかしいのだ。たった十数字の文字を伝えさえすればいいものを、とてつもなく緊張してしまうのだ。これが言えればそもそもこんな作戦を立てる必要はなかった。
が、このまま答えずにいれば単なる興味本位なのだと受け取られてしまいかねない。事実、少なからず興奮してしまっているので、そこは既に見抜かれていると察する。
だからこそ早く告白しなければ。はそう決意を新たにするのだが、ここで思いがけない事が起きる。
突然グラリと倒れてきた炭治郎と、額と額がぶつかったのだ。そこまで痛くはなかったのが幸いだったが、彼女は額を押さえながら炭治郎を凝視する。
「……!? ……」
「悪い、怪我してないか。む、難しいんだな案外……」
口元を押さえながら「ごめん……」と消え入りそうな声を漏らした炭治郎が赤面しているのを見て、は初めて気付く。
おそらく、炭治郎は自分に口付けようとしてくれたのだ。結果唇より先に額同士が出会ってしまって未遂に終わったが、その含羞に満ちた眼差しを向けられただけで、の胸はとてつもなく高鳴っている。狂おしいほど募る彼への想い。
「待ってくれ。もう一度やってみるから……」
「えっ!?」
「ええと……こうかな」
が呆気に取られている間に、まさかのやり直しが開始される。真面目さ故の振る舞いなのだろうか。ソワソワと視線を彷徨わせた炭治郎は、目を伏せたかと思うと顔面を近付けてくる。
あっと思って目を強く瞑ったのと、下唇が軽く食まれたのはほぼ同時だった。
(うっ、嘘……!)
勇気が無くて目は開けられない。
だが硬く瞑った目蓋の先では、信じられない事が起きているのだろうとは思う。
の唇を吸っては音を立てて離れ、離れてはまた吸い付いてくる炭治郎の唇。渇いていた唇はあっという間に彼の唾液で湿り、徐々にその強張りが弛緩していく。
彼女の頭は沸騰するあまり爆発してしまいそうだった。まさか、あの炭治郎とこんな事をする日が来るなんて。しかもここまで積極的に迫られようとは。
「……」
ふと、いつもより随分低い声で名を囁かれ、は肩を跳ねさせながら目を見開く。
「な、何」
「もうちょっと……くっ付いてもいいか」
「う、うん」
「俺の首に腕を……ああ、それでいい。ありがとう」
言われるままに首筋へ腕を回すと、先程よりもっと身体の前面が密着した状態で唇がくっ付いた。炭治郎は先程の口付けでコツでも掴んだのか、その唇を食む動作が幾分滑らかになったように感じる。
微妙に角度を変えて重なり合う唇。とてつもない緊張感と羞恥心でガチガチになっていたではあったが、その頃にはじっとりとした甘い欲望に思考を侵されかけていた。炭治郎を真似して呼応するようにその唇へ吸い付いてみると、自然と舌と舌とが出会い、絡み合う。
「んっ、ん……」
「は……」
唇の吸い合いは止まらなかった。慣れてきたとはいえ互いに動きはたどたどしく、時には歯がぶつかる事もあった。
だがいつの間にか彼らは生々しい音を立てながら、我を忘れてその行為にのめり込んでいた。抱きしめ合う腕の力は強くなり、大した息継ぎもしないものだから呼吸もすぐに荒くなった。
やがて炭治郎の手が彼女の下半身の丸みを撫で始めた頃、がおずおずと薄く色付いた唇を離す。
「……ね、ねえ」
「ん……?」
ハッと息を呑む。炭治郎が向ける熱に浮かされたような眼差しを目にし、激しく心を揺さぶられたからだ。
若く未熟な両者の間に漂う、濃厚な男女の雰囲気。かつてない濃密な空気に、はこの上なく戸惑ってしまう。情けなくも赤面し、蚊の鳴くような声が口から漏れた。
「あ、あの……待って」
「……ごめん! 嫌だったか」
「ううん! 違うの、そうじゃなくて……」
は俯きながら口籠る。この先は、曖昧な関係のままでは進んではならない領域だ。ここまでくれば、きっと炭治郎も自分の気持ちに気付いてくれているに違いない。そうは思いつつも、やはりきちんと言葉でケジメを付けなければと思う。
「あの、あのね。わ……私」
だが、彼女がその先に続く言葉を紡ぐ事は叶わなかった。急に身も凍るような殺気を感じたかと思えば、背後からとてつもなく怒気に満ちた声が響き渡ってきたのだ。
「テメエらァ……!」
「ギャアアア!! しっ、不死川さん!?」
「こんな所で一丁前に乳繰り合ってんじゃねえぞォ!!」
そこから先は、何と叫んだのかわからない。いつかは自分達の存在に気付かれるとは思っていたが、彼女はそれがまさか今だとは思っていなかったのだ。
ただ、炭治郎の行動は凄まじく早かった。炭治郎は瞬時にを抱きかかえると、脱兎の如くその場から立ち去ったのだ。
が我に返った時には既に竹林は遥か後方に遠ざかっていて、彼らは閑静な町外れの道途中に佇んでいた。地面に下ろされた時に見上げた夜空の、無数に輝く星が美しかった。
「あ……はは。ごめんね、とんだ災難だったね」
「……」
「不死川さん、自分だってあんな所で女の人と乳繰り合ってたくせにね。私達に言えた立場じゃないよね……」
「」
暁のしじまを突き割るような、真っ直ぐな声が響く。途端に赤面したの脳裏には、先程まで自分達が交わしていた濃厚な口付けの感触が蘇っていた。
もしや、今ここで続きをされるのではと彼女は反射的に身構えたが、炭治郎の表情を見てすぐに間違いに気付く。
「は……どうして口吸いをしたいと思ったんだ?」
「……!」
「あの時はつい場の雰囲気に呑み込まれて聞けなかったけど、ハッキリさせておきたいんだ」
気まずそうに視線を伏せつつも、再びを見つめる炭治郎の視線は曇りがなかった。凛然とした眼差しを向けられたは途端に顔を赤らめ、辿々しく言葉を紡ぐ。
今だ。今勇気を振り絞らなければ、絶対に機を逃してしまう。
「あの……あのね。私……」
少女の胸中には様々な想いが駆け巡っていた。
目の前の想い人への甘い恋情、とてつもない羞恥心、途方もない緊張、微かな不安、そして淡い期待。
握り締めようとした手が震えていた。だが彼女は唇を噛み締めて己に喝を入れると、顔を上げるのだが。口を開いたのは、真摯な表情を浮かべた炭治郎の方だった。
「俺は、君の事が好きだからだ」
「え……!?」
「誰でも良かったわけじゃない。だったから……口付けたかった」
は?
そう訊ねられる前に、彼女はその首元に飛びついていた。様々な想いが渦巻いていた胸中が一気に炭治郎への恋情で溢れ、行動となって現れたのだ。
ぎこちなく重なる唇。応じるのは簡単だったが、自分から口付けるとなると軽く触れるだけが精一杯だ。けれど、万感の想いを込めて口付けた。顔を離してからも、まだ唇が震えていた。
「わ……私も、同じだよ」
「!」
「炭治郎だから口付けしたかったの。ずっと、好きだったの」
「……」
熱情のこもった視線が通い合う。吸い寄せられるように唇が交わると、二人は手を取り合って家々の隙間へ姿を消すのだった。