私は何故かよく人に声をかけられる。まったく面識の無い赤の他人に。幼い頃はさほど感じなかったが、あらゆるタイプの知人友人に囲まれていたから、人波のバリケードで自然と守られていたのかもしれない。
初対面の人から急に親しげに話しかけられるともちろんギョッとする。大抵の場合、何かしら困っていたり、単に話し相手が欲しかっただけ、ということが多い。時には宗教勧誘だったりもするけれど、それだって信者の方は良い教えを世に広めたいという一心で活動しているのだろう。生憎と私は今のところそこまで大きな悩みも抱えていないので、そういったお話には興味がありません、とお断りすることにはなるけれど。
それだって、人によっては対応が丁寧過ぎると思うようだ。
以前友人と参考書を買いに行くべく談笑しながら書店に向かって歩いていると、例によって私は見知らぬ人に声を掛けられた。いっしょにいた彼女には見向きもせず、熱心に試供品の栄養ドリンクを勧めてくる。友人を待たせているし、断り切れなくて結局受け取ろうとすると、横から伸びてきたしなやかな細い指がそっとそれを奪い取った。仕草自体は乱暴ではなかったが、断固として私に受け取らせないという意思を隣りからヒシヒシと感じて、私も、恐らくは声を掛けてきた人も、ヒヤリとした悪寒を感じながら怯えた目で彼女を見ていたと思う。
「すみませんが、今後この子を見かけても二度と話しかけないで下さい。代わりにこれは私がいただいておきますね。ああ、いえ一度成分を調べさせていただきたいので。そこまで声高に熱心に人を選んで配られているものなのですから、内容を分析したところでより素晴らしいものだったという確認が取れるだけだとは思いますが。私はこの子と違って自分の目で見たことしか信じない性格ですので、ごめんなさい。もちろんご了解頂けますよね。しかしどうも販売方法が不思議だとは思うのですが……そんなに優れた効能があるのでしたら、正規の流通ルートで大勢の方に正々堂々と販売されたら如何です?」
「……」
にこにこと笑顔を絶やさない愛らしい顔面と、小振りで可憐な唇から次々と吐き出される柔らかい弾丸のような言葉の数々に圧倒されている間に、私はその場からスルスルと手品師の懐に隠された兎のように連れ出されていた。
「おとといきやがれ、ですよ」
冷ややかな捨て台詞さえ彼女が口にすると上品な凄みがある。こんな瑞々しい花のような美少女が、何故私のような凡庸な女子高生と友だちでいてくれるのか。未だに首を傾げる機会が尽きず、今回もその疑問が頭を掠めた。
しのぶちゃんは静かに怒っている様子で、私の手を引いてはいるがこちらを見ない。
「……この辺りまで来ればもう平気でしょう」
ぴたりと足を止めた彼女にならい、私も立ち止まる。未だに困惑しているのが顔に出ていたのか、ようやっとこちらを見たしのぶちゃんは、その私よりも小柄で私よりも女性らしい円やかな曲線の体躯を振り返らせてため息を吐いた。
「何故私がああしたのか、まるで分かっていない顔ですね」
「……はい」
「どうしてすぐに断るなり、聞かなかった振りをしなかったの?」
「……悪いな、と思って……」
しのぶちゃんは手に持っていたラベルも手作りの栄養ドリンクらしき茶色い小瓶を目の高さまで掲げて小気味に揺らした。
「あなたのことだから、受け取ってしまったらまた相手に悪いと思ってこんな怪しげなものでもしっかりと飲んでしまうんでしょう」
「う……」
「図星ですか」
「……はい」
「まったく!それで何か異変が起きたらどうするの?」
怒ったしのぶちゃんは辛辣だ。でも本当に本当に私を心から心配してくれているようで、細く整った眉が険しく顰められるのをチラと見て、強烈な申し訳なさと同時に湧き上がる、むず痒い喜びに胸をときめかせそうになるのを必死で堪えた。不謹慎だ。私の断れない性格がこうして彼女に迷惑をかけているというのに、気遣って貰えることを嬉しく思うなんて。
「すみませんでした……」
「謝らなくて良いから、次からはちゃんと断りなさい。それが出来ないのなら端から相手にしないこと。話しかけられても振り返らないこと!」
「はい……」
「名前を呼ばれない限り、相手と面識は無いと思いなさい。申し訳なく思う必要は無いの。あなたにはそういう厳しさも必要です」
「うん……」
「……分かったならもうそんなにしょげなくていいですから、今日はここで私とお茶にしましょう。参考書はまた今度」
ハッとして見ればしのぶちゃんが背にしていたのは最近開店したばかりのお洒落なカフェだった。もう夕暮れ時だからか店内に人はまばらで、しばらく長居出来そうだ。
付き合ってくれますよね、と眉を下げて微笑む彼女に、私は一も二もなく大きく頷いた。厳しく言い過ぎました、と反省の言葉を漏らしたしのぶちゃんに、私は「とんでもない!」とそれを否定した。
「それどうするの?」
「薬学研究部員として、このような得体の知れないドリンク剤が学校区域内でばら撒かれている事態は見逃せませんからね。徹底的に解析して……どう対応するかは姉さんにも助言を貰うつもりですよ」
「そっかぁ」
も呑気な顔をしていないで、こういう物の被害に遭わないよう気を引き締めるように」
「はい……」
彼女は露に濡れた桔梗のように、清楚な瞬きひとつで私の心を奪っていく。しのぶちゃんの憂い顔も私は当然美しいと思うけれど、出来ればそんな顔はして欲しくない。そうさせている張本人が私だというのなら、それは修正しなくてはならないのだ。
私は誰かを突き放すということが得意ではなくて、ついなんやかんやと付き合ってしまう。押しの強い人を拒めない。優しいとかお人好しとかそんな風に言われることもあるけれど、単に見ず知らずの他者が相手だとしても「いい顔」をしておきたいだけで、要するに私は臆病者なのだ。八方美人で、気弱で、流され易い。しのぶちゃんのようにしなやかに強く優しくありたいと思うのに、これは良いことなのか悪いことなのか自分で判断し切れないのだ。決め切れないということは迷うということだ。即断即決出来ない自分を情けないと思う。私は確固とした自分の基準や核を持たない人間だから、良い悪いも行く行かないも貰う貰わないも選べないのだろう。
そのときカフェで飲んだレモンスカッシュは、蜂蜜をたっぷり追加したはずが、レモンピールの独特の苦味が口の中にいつまでも残って、夕飯のハンバーグを頬張るまでしつこく消えなかった。

私は今まで、心の底から怖いと思う他人には会ったことがなかった。だからこそおめでたい勘違いをしていたのだ。声をかけられても誠実に対応すれば分かってもらえる。言葉が通じるのであれば問題など起きないと。
でも、世の中には「言葉の通じない人」がいる。お互い日本語を喋っているはずなのに意思の疎通が図れない相手。
「私、そういったことには興味が無いので……」
「恐れることはありません。何もかも曝け出してしまえば良いのです。肉体を捨て去り、魂の覆いを外して健やかになりましょう。あの方にありのままの自分を認めていただくことこそ己を救う第一歩となるのですよ」
「……え、と……」
宇宙人と話しているような不気味さ。人ではなく壁に向かって話しているような感覚。初めてそういう相手に出会って、いつまでもこの場から逃げられないことに戸惑っていた。今までに感じたことのない、形容し難い恐怖がじわじわと足元から這い上ってくる。背中に冷たい汗をかいていた。焦燥感が募るばかりで、場を退くための断りの言葉も段々と出てこなくなる。自分の心臓の音が、耳の奥でやけに大きく聞こえていた。
なるべく人通りの多い道を選んで帰ることにしている。でも、通りすがる人はこちらに視線を向けてはくれるけれど、割って入るまでしてくれるようなことはない。人目があるので滅多なことはされないと思うが、逃げ出せるだけの隙を作り出せない。
しのぶちゃんとは毎日一緒に帰れるわけではない。部を掛け持ちしている彼女は多忙だ。この間はたまたま彼女の所属する部がどちらも休みだった貴重な日で、今日の私は大抵の放課後と同じく一人で帰宅していた。
道を尋ねられるだけなら良かった。試供品を受け取ってくれませんかと言われるだけなら良かった。何故呼び止められて振り返ってしまうのかと、思い浮かんだしのぶちゃんが、器用にもにこにこ笑顔のまま烈火の如く怒り狂っていた。
「あの、……あの、すみません、私、もう行かないと……」
「何故躊躇うのです?すぐに楽になれますよ。この世の救いがあの方の御言葉には凝縮されているのです」
「……私には、必要ありません」
今までの私は単に運が良かっただけなのだと思い知る。
「さあ貴女もその身を浄らかなうちにあの方へと捧げ、この世の不条理に別れを告げましょう!」
「……痛ッ」
右腕を掴まれた。加減を知らない強い力だ。家族以外の大人の男の人に、こんな風に近寄られて身体に触れられたことなど無い。全身の肌が粟立った。身体は強張り、足が竦む。誰か、誰か助けて。皮肉にも救いを求める言葉だけが私の脳内を占めていた。
「その人から手を離して下さい」
言いたくても言えなかったことを、私ではない誰かが力強く宣言した。凛とした声音にはよくよく聞き覚えがあった。まさかそんな都合が良すぎる、と思う自分と、期待ですでに安堵している自分がせめぎ合う。
「もう一度だけ言います。今すぐ、その人から手を離して下さい」
縋るように頼みの綱である声の主へ視線を向けると、その日輪を宿す瞳を静かに燃やして、私を引き留める男性をひたと見据える彼が居た。


母が気まぐれに買ってきた個人経営のベーカリーのパンがびっくりするくらい美味しかった。その日からほぼ毎日、我が家の朝の食卓にはその店のパンが並んだ。主に食パンとバゲット。たまにクロワッサンが交互に出てくる。私は特にバゲットが好きだった。軽くトーストすると外はパリッと香ばしくなり、バターを薄く塗って食べると至福の味なのだ。中の部分も含めて全体的に少し硬めの食感が気に入っていた。
そんなある日、母が「明日のパンを買い忘れた」とメッセージを入れてきたのが転機だった。店の場所を聞くと学校からも家からもさして遠くない距離にあった。一日はその店のパンを頬張るところから始めたい。それについでといっては失礼かもしれないが、他にどんなメニューがあるのか、どんな店構えでどんな人が作っているのか、そういったところにも少なからず興味があった。「適当に選んで買って帰ります」と返信して、放課後そのベーカリーに寄ることにした。
日も暮れつつある。丸みのある窓から漏れ出る間接照明のオレンジ色の光に目を細めた。扉を押し開けると頭上にぶら下がっていたカウベルが鳴る。店内をざっと見回すと、客の動線に沿って並べられた様々なパンに目が吸い寄せられた。もう閉店も間際だからだろうか、残された商品は少ない。ポップだけ飾ってあって品物自体は売り切れとなっているものも多かった。今度はもっと早く来よう。休みの日に来ても良いかもしれない。そんなことを思いながらトングで惣菜パンを次々トレイに乗せていく。
「すみません。お会計お願いします」
「はい!……えっ!?先輩!?」
「あ!えっと……えーっと……」
振り返った男の子に驚かれて、反射的に私も驚いてしまう。衝撃的な再会で、咄嗟に彼の名前が出てこなかった。赤みがかった髪色と花札のようなピアス、額に走る炎のような痣。彼はそんな失礼極まりない私にも爽やかに笑って、快活な声で「竈門炭治郎です!」ともう一度自己紹介してくれた。
「こんにちは!じゃなくて、いらっしゃいませ!」
客商売だから、というだけでない愛想の良いにこにこ顔が私に向けられている。薄暗くなり始めた店内で橙色の照明を受けて赤みがかったまあるい目がきらきらと輝く。
「実は俺、先輩とは初対面じゃないんです」
「あっ、うん……覚えてるよ」
私の反応が遅かったから、きっと彼のことを覚えていないと思ったのだろう。そんな風に思わせてしまったことが申し訳なかった。でもそんな私に気付いてか気付かないでか、竈門くんはただ明るい笑顔を浮かべてこちらを見ていた。
運が良かったのか悪かったのか、客は私しかいない。だからこそ集中して見られている上に世間話まで、と思うと気恥ずかしかった。
「竈門くんの、入学式の日だったよね……?」
言いつつ過去の出来事を回想する。その間にも彼の手はテキパキと動いて私の選んだパンたちを手際良く包んでいった。ふと、これを全部私が食べると思われていたらどうしよう、などと現実的でないことを心配してしまった。

すみません、と不意に声をかけられて、知らない声だけど困っている声だなと思いながら振り返る。
最初に目に飛び込んできたのは赤みがかった髪、次に大きく揺れる耳飾りだった。額に派手な痣がある。一瞬身構えてしまったが、目を合わせるとその瞳も赤みがかっていてそちらにも驚いた。珍しい色彩だけれど、きっとこの子の髪も目も、染色やコンタクトで変えられたものではないのだろうと思った。それほど自然体で、彼に馴染む色だった。顔立ちも表情も温和な印象を受ける。敏感に反応した警戒心も気付けば陽を浴びたように氷解していた。同時に、そんな派手な風貌でピアスまで着けていたら、冨岡先生が真っ先に目を付けるだろうと確信して心配になってしまった。この目立つ容姿なのに見た覚えがないということは新入生だろうとあたりを付ける。おまけに困った様子、ということは何か分からないことがあるのだろう。それを解決したら先輩として忠告してあげるべきだろうか。冨岡義勇という校則違反者を目の敵にしているスパルタ教師がいるということを。
「あの……?」
「あ、ごめんなさい!ぼーっとして。どうしたの?」
無言でぐるぐると考え込んでいた私は、彼の困惑したような面持ちに気付いて我に返った。なるべく柔らかく聞こえるように返事をする。緊張すると表情が固くなってしまうが、すでに期待と不安で胸がいっぱいだろう新入生を愛想の無い顔で萎縮させたくなかった。
「上級生の方ですか?」
彼の視線が私の名札に流れた。色で学年が分かるようになっているからだ。同時に私も彼の胸元に目をやった。やはり間違いなかった。そこには新入生に贈られる簡素な造花が飾られている。
「三年生よ。君は新入生ね。入学おめでとう」
「ありがとうございます!」
「それで、何か困ってる?」
「あ、はい……まだ校舎の中を把握してなくて迷ってしまったみたいなんです。隣りの席にいた同級生が、入学式が終わるなり飛び出して行ってしまったので慌てて後を追ったんですが、追い付くどころか俺も自分の教室が分からなくなってしまって」
「えっ、それは……どうしよう?とりあえず私も一緒に探そうか!?」
「いえ、先輩にそこまでのことはさせられません!あちこち探したんですが見当たらないし、一度教室に行って先生に報告しようと思います」
「うん、……うん。確かにそれが良いかもしれないね。もしかしたらその子も先に教室へ戻ってるかもしれないし」
「はい。なので、本当に申し訳ないんですが、一年の教室を教えて貰えたらなと思って……」
「分かった、一年の教室ね。一年の……」
そこで安請け合いしてしまった数秒前の自分を私は呪った。生憎と今年から一年の教室は組の配置が変わったということだけは聞いていた。自分には関係無いからと場所までは把握していない。しかも方向感覚に自信の無い私は、行ったことのないところへはスムーズに案内出来ない。しかしこのまま彼を放っておくわけにはいかない。
「あっ、お時間取らせてすみません!もしかしてどこかへ行く途中でしたか?」
「ううん、私は大丈夫!それより一年生のオリエンテーションが終わっちゃうかもしれないし、君は早く戻らないと……ちょっと自信無いんだけど、ひとまず案内するね」
「はい。ありがとうございます!」
自分のことでいっぱいいっぱいになるのではなく、きちんと人の事情を気遣える上に、折り目正しい。翳りのない笑顔が眩しくて、ふと私の中のロマンチストが顔を出した。まるで春の陽だまりのような男の子だなと思ったのだ。

その時の彼が今、私の目の前で笑っている。そう日は経っていないのに、もう随分と昔のことのようだ。
「はい!また会えて嬉しいです!」
言葉通りあのお日様のような笑顔で、本当に嬉しそうにしているからドキリとしてしまった。裏表の無い性格なのだろう。こんなにも真っ直ぐに好意的な態度を示されることはそうそう無い。彼にとっては当たり前の対人スキルであっても、押されやすいくせに人と積極的に関わることに尻込みしがちな私は曖昧に頷くしか出来なかった。
印象的な出会いで、別れではあった。けれども彼のことは意識して考えないようにしていた。
「……先輩はあの時、ちょっと困ってましたよね」
「えっ?」
「俺は人より少しだけ鼻が利くので、先輩が戸惑っているのも分かってたんです」
小銭を探る振りをして伏せていた目を上げると、カウンター越しに私を見る竈門くんはちょっとだけ苦い笑みを浮かべていた。
「でも先輩は必死に考えてくれていて、俺のことを安心させようとしてくれてるんだなっていうのも伝わってきて、嬉しかったんです。だから、もういいです、とは言えなくて」
まるで罪を告白するような言いように私は目を瞬かせた。そんなこと、私が勝手に張り切っただけのことで、上級生の見栄とか、一度引き受けた手前放り出すのが格好悪いと思っていただけとか、そういう風に考えてくれて良いのに。実際にそうなのだから。
「それに、実はちょっと避けられてるのかなとも思っていたので、今日店に来てもらえて良かったです」
差し出された紙袋とビニール袋の二つを、お礼を言いながら受け取った。奥深い優しい瞳に微笑まれて心拍数が跳ね上がった。
紙袋の方は、もう温かくはないけれどふわりと手のひらに触れる感触が柔らかい。ビニール袋にはそちらとは分けて入れられた、ひんやりと冷たい冷蔵のパックが入っていた。つい目を引くポップに釣られて買ってしまった、『春季限定!苺とカスタードクリームのサンドイッチ』だ。
「うん……ここ、竈門くんのご実家だったんだね。知らなかった……。私も、私の家族も、毎日ここのパンじゃないと嫌だって思うくらいファンなの。今日は来るのが遅かったから、食パンもバゲットも、もう無くて、ちょっと残念だったけど……」
気まずさから要らないことまでつい口が滑って話してしまう。私が竈門くんを意識して避けているのは正解だったから。学年が違う分、普通に日常を送っていたら鉢合わせることもそうない。でもそれが無くても私は竈門くんと出会わないようにしていた。しのぶちゃんから稀に「炭治郎くん」の話題が出ても、窓から金色の頭とシャツをはだけた男の子と並ぶ赤っぽいつむじが見えても、宇髄先生に一年筍組へ謎のお使いを頼まれても、聞かない見ないふりをした。
少しでも自覚してしまえば辛くなる感情もある。早くこの春が過ぎ去って、風化していってくれることを祈っていた。
「本当ですか!?」
「えっ!?」
「俺が焼いてるんです!まだ修行が足りないから、全部じゃないんですけど……特に食パンとバゲットはパン屋の顔みたいなものだから気合を入れてて、俺、」
「あ、あの、……あの、竈門くん……!」
「はい!」
「手が……」
「あっ!?」
本当ですか、の後に続く言葉は右から左だった。危うく左腕に抱えた紙袋を取り落としてしまうところだった。ビニール袋の取っ手を掴んだ右手は、引っ込める前に丸ごと彼の両手で握り締められていた。その温もりに私の全意識が集中している。触れた手のひらから伝わる確かな熱に全身が沸騰しそうだった。
竈門くんの手は熱かった。この手が私の大好きなバゲットを毎朝こねて焼いている。それを私は毎朝食べている。美味しい美味しいと、幸福な時間を貰っている。詳細に考え始めると止まらない。恥ずかしさが限界に達して目眩を感じた。私はこのままでは燃え上がって天井を突き抜ける火柱になってしまう。顔が熱い。
あの時もそうだった。何とか竈門くんを一年の教室まで送り届けた私は、自分の用事を済ませようと彼に別れの挨拶をした。すると竈門くんは、おもむろに両手で私の右手をギュッと握ったのだ。
「そういえば自己紹介してませんでした!俺、竈門炭治郎です!先輩、ありがとうございました!」
それから満面の笑顔でこちらに大きく手を振って去って行ってしまった。あんな風に自然に手を握られたのは初めてだった。握手のようなものだけれど、彼の熱いくらいの体温が右手に移って痺れたように感じられて、しばらくぼーっと突っ立っていた。
校則違反者許すまじ、の冨岡先生には気を付けて。とは最後まで忠告できずじまいだった。

瞬く間に思い出されるあの日の衝撃に、私はまたより一層顔が赤くなるのを自覚した。もうどうにもならない。竈門くんは天然の人タラシに違いない。私だけがこの被害に遭っているわけではないだろう。そうでなければズルい。私だけ、深みにハマってしまいそうになるなんて。
そんな八つ当たりじみた考えを頭の中で撹拌していたが、一向に竈門くんは私の手を離してくれない。疑問と困惑と混乱で頭が沸騰しそうだった。
先輩。ありがとうございます」
「……」
真摯な面持ちでそんな風に言われると少しだけ冷静になれた。どういたしまして、と蚊の鳴くような声で返すと竈門くんはまた和やかな笑顔になった。
「また来てくださいね!」
そのとき下の名前を聞かれた。名字は名札に書いてあったから、彼は私が名乗らなくとも「先輩」と呼んでいたのだろう。名乗ってからは竈門くんは私のことを「さん」と呼ぶようになった。それから、数日おきに朝食用のパンを買いに行くのは、いつの間にか私の役目になっていた。


この人に掴まれている腕は服の上からでも痛くて気味が悪くて仕方がないのに、竈門くんの手は素肌が触れても一ミリも嫌な気持ちにならなかった。快い体温だった。そこから流れてくるプラスの感情に、私の心は揺さぶられた。でも、この見知らぬ神様を信奉する人からぶつけられるものは禍々しい。私を人として見ていない。人形や虚空に話し掛けているのと同じだ。声を掛けられてから終始、心の通わない会話だった。
「僕はただ、この子にも僕のように救われて欲しいと……」
「彼女はきちんと断ったはずです。その人が望まないものを無理やりに押し付けることを救いとは言いません」
静かな口調ではあるが有無を言わせない強さがある。相手が言い募る前に、毅然とした態度で竈門くんは真正面から正論を放つ。言葉が通じるかどうかは関係無いと言わんばかりに。
「彼女を解放してください」
強く掴まれて痺れそうになっていた右腕が、ようやく感覚を取り戻した。

竈門くんに連れられて足早にその場を後にした。自然と繋がれた手は、さっき男の人に掴まれていたのとは逆の左手だった。温かい手。竈門くんの手の温もりに導かれるようにして無心で歩いた。どこに行くのか聞かなくても、まったく心配にならなかった。
見慣れた住宅街に入ると少しだけ肩の力が抜けた。自分の身体がどれほど強張っていたのかも分からなかった。近くの小さな公園で、彼と並んでベンチに腰掛けて人心地着く。自然と解かれた手を名残惜しいと思ってしまった。
「腕、痛みますか?」
半ば放心しているところへ端正な顔に横から覗き込まれて、私の意識も現実に戻ってきた。自分がされたことのように辛そうにしている竈門くんの八の字眉を見ていると、いつまでもお通夜みたいな空気で暗い顔をしていては、助けて貰った上に余計な気を遣わせてしまうじゃないかと慌てた。
「ううん、平気だよ!」
まだ違和感があるし思い出すとゾッとするが、かなりマシにはなっていた。相手の手の形が残っているような気がして服をめくって見るのが怖い。ひたすら服の上から撫でさすっていると、竈門くんは複雑そうに何か言いたげな顔で私のその腕を見つめていた。
「……苺とカスタードクリームのサンドイッチ」
「え?」
「美味しいね!あると必ず買っちゃうの」
「あ……ありがとうございます」
気まずいわけじゃないけれど、このまま彼に沈んだ顔をさせていたくない。そう思う一心で必死に頭を回転させて、脈絡の無い話題を探し当てた。
「あれって苺が旬の時期だけお店に並ぶんだよね?」
「えっと……はい、そうですね。今月いっぱいは出せると思います」
「そっかぁ!嬉しいな。無くならないうちに、また買いに行かなきゃ」
はい、とどこか上の空で竈門くんは頷いた。呆気に取られているのか、打てば響くように返事があるはずの彼にしては反応が鈍い。
「……さんは、優しいですね」
ぽつりと落とされたそれに、私は弱々しく首を振る。そんなんじゃない。そんな立派なものじゃないのだ。
「私の優しさなんて、気まぐれだよ。穏やかな気持ちのときはそうするけど、そうじゃないときはきっと困っている人がいてもそっぽを向く。そういう中途半端なものなの」
私は人に優しく出来る私が好きだから。そういう自分が理想だから。
見知らぬ人を無視出来ないのも、誰かにそれを見られるのが怖いから。人に冷たい人だと思われたくないからだ。
「そんな風に言わないで下さい。人それぞれに大切にしているものがあって、優先すべきものだって違うんです。さんも自分の大事なものを守る選択をして下さい」
「……うん」
竈門くんは人のために怒れる人なのだ。私のような偽善者ではなく、彼のような人が本当の意味で「人に優しい人」なのだ。思いやりの塊みたいな、眩しく温かな人。
「俺、初めて会ったときから、さんは優しい人だって思っていたんです。ああ、この人はきっと、前から誰かが歩いてきたら道を譲るし、道端の落とし物も見て見ぬふりはしないんだろうなって」
「……買い被りすぎだよ」
そうするかもしれないし、しないかもしれない。それが私だ。
「それから、俺の目を見てお礼を言ってくれましたよね」
「お礼?」
「うちの商品を受け取るとき」
「そうだっけ……?」
「はい。きっとさんは意識してなかったと思います。自然にそうしたんだと思います。でも、そういうところが、すごく素敵だなって」
「え……」
私は今、もしかすると、とんでもなく褒められているのではないか。そう気付いてしまうと途端に身体が浮き上がるような感覚に陥った。照れてよいところなのかどうかも分からなくなる。ただただ恥ずかしさで頬が熱くなり、鼻の頭に汗をかいた。同年代の男の子からストレートな賞賛なんて貰ったことがない。それも相手は竈門くんなのだ。そうなることが当然のように舞い上がってしまう。
「だからこそさんの優しさや気遣いが踏みにじられるようなことは許せないし、俺が、……」
突然口を継ぐんだ竈門くんを不思議に思ったが、続きはいつまで待っても出てこなかった。私も促すことはしなかった。何せもう茹でたタコのように真っ赤になっていることは必然で、私は私の顔を両手で覆い隠すのに必死だった。
「……竈門くんは、すごいね。中途半端な私の、良いところ探しを、してくれてる」
きっと人のそういう部分に自然と目をやれる人なのだ。
私は違う。私は相手の粗探しばかりする。私自身の駄目なところにばかり着目する。
正反対の目はどこか恐ろしくて、でもハッとするほど魅力的だった。竈門くんの優しさは美しい。その眩しい日輪の瞳は、私の卑屈な心を浄化する。これ以上凍えないようにと肩に毛布を掛けられたような気持ちにしてくれるのだ。
だから私は近付きたくなかった。きっと、もう絶対、私は彼を愛しく思ってしまう。大好きになってしまう予感がしていたから。
「……俺はすごいんじゃなくて、ただ単に」
相手が完璧に見えてしまうのは病なのだろうか。
青い春がにわかに降り注ぐ。
さんを好きなだけです」
控えめに伸ばされた手が、私の左手をさらっていく。またキュッと指先を握られて、胸の奥も同じく掴まれたように錯覚した。そうっと絡められる指先に、どんどん息が苦しくなる。心臓の高鳴りと並行して、先ほどまで鮮明だった腕に残る嫌な痺れが薄らいでいく。
彼の明るい目に映る今の私の顔は、一体どんな色を浮かべているだろう。私が横目で盗み見た、はにかむ竈門くんの頬は、旬の苺のように真っ赤に熟れていた。