淡く彩られた甘い菓子が並ぶ店。一山超えた町からもうちの和菓子を目当てに時間をかけて赴いてくださる人は大勢いた。
今日も変わらず、うちで雇っている菓子職人の彩り豊かで繊細な和菓子を前に『どれにしようか』と口元に手をあて思い悩むいつも通りの賑わいを尻目に、私の気持ちは地に足がついておらずじっとしていることができずにいた。
壁に掛けられた鳥の模様が彫られた大きな時計を目にしては外に出て辺りを見渡し、再び一番長い針が十二の数字を一周してから外へ出る。がやがやと繁華な通りの中、とある人を探していた。
「ちゃーん!」
一応、私も務め中ではあるのだけれど、正午を迎えようとするこの時間はうちよりも食事処の方に自然と人は集まっている。だから、誰に咎められることもなく、今私の名前を人混みの奥から高らかに呼んで手を振るその人との時間を過ごせることができていた。
「炭治郎さん」
そわそわとして待っていた気持ちを落ち着かせ、朗らかに笑う炭治郎さんへ私も笑みを返した。しっかり笑えているだろうか。ぎこちなく、滑稽な笑い方になっていないだろうか。取り繕うのは苦手。けれど、温かい春の日差しのような彼の前では、その姿を目にした途端たちまち煩くなってしまう胸の鼓動を抑え、同じように笑顔を見せていたかった。
手を体の前で重ねて小さく頭を下げた私にこちらまで駆けてきてくれて、花札のような耳飾りを揺らしながらにこりと微笑んだ。
「久しぶり。お店どう?」
「はい、お陰様で。遠方から来てくださる方もここのところ増えているんです」
「よかった!どんどんお店、大きくなっていきそうだな」
「炭治郎さんのお陰です」
「俺は何もしてないよ」
大きな暖簾が提げられる店の前で炭治郎さんへ改めてお礼を伝えた。
この店が今もこうして続けていられるのは、炭治郎さんのお陰だった。
鬼という存在を目の当たりにした時、私は腰が抜けて逃げることすらできずにただただ店のお客様の手足が引き千切られているところを呆然として見ていることしかできずにいた。『ウマソウダナ』と、いつもお店で飛び交う頬が緩んでしまうこの言葉にこれほどの恐怖を覚えたことはなかった。
このまま私は死んでしまうのだろうかと、それすらも考える余地のないほどに恐怖で頭が支配されていた私に禍々しい手が伸びてきた時だった。カラリと喧しい場にそぐわない温かな音が耳に鳴り、刹那、今の今まで人の手足を喰い千切っていた鬼の顔が宙を舞っていた。
私は、この人に命を助けられたのだ。だから『何もしてない』ことなど微塵もないのに炭治郎さんは『店が繁盛しているのはここで働く人たちの賜物だから』といつも首を横に振る。
「そんなことありません。そうだ、炭治郎さんが来られなかった間に新作の和菓子ができたので召し上がって行ってください」
「新作?ありがとう、楽しみだな!」
深い紅色の瞳を丸くさせた後、白い歯を見せた炭治郎さんに鎮めたはずの鼓動が起き上がる。 目に毒だと思った。延々には目を向けていられない。
こちらへどうぞ、と暖簾を潜り疎らにいるお客様へと挨拶をしながら店奥の長椅子へと案内した。簡易的な場所であるし、うちは食事処というわけではないから当たり前にその場で食べて行く人は少なく、売り場からも死角になっているのでこの時間はここで、炭治郎さんと二人で過ごすことができていた。炭治郎さんと知り合ってから、私の心が弾む楽しみな時間だ。
「あれ、座布団敷いてあったっけ?」
いつもは商談とか、私にはよくわからない上の方の仕事で店には顔を出さないお父さんに強請って用意してもらった黒と緑の座布団が一つずつ。最近ここに座る人が多くて、と店の状況を伝えれば次の日にはそれは用意されていた。色は私が選んだのだけれど、勿論炭治郎さんを意識してのことだった。
「はい。最近はここへ座る人が多いので。お菓子お持ちしますね」
不思議そうにしている炭治郎さんへ、お父さんへも話した同じことを伝えとくとくと胸を鳴らしながら厨房へ入った。
赤い木皿へと敷紙を載せ、抹茶も用意する。飲み物や、居心地の良くなる座布団があればきっと長居がしやすい。自分の浅ましさに溜息が出てしまうけれど、他にやりようがなかった。あからさまに炭治郎さんが訪れたことに浮き足立っていることが厨房の菓子職人には筒抜けだったようで、その冷やかしを背にお菓子と抹茶を載せたお盆を持ち炭治郎さんの元へと戻った。
炭治郎さんが背負っていた箱から出てきたらしい禰豆子ちゃんを抱えて頭を撫でているその慈愛に満ちた姿に思わず見惚れてしまったのだが、私に気付いた炭治郎さんに我に返った。
「それでな、この前ここで買っていったお菓子、伊之助が任務でいなかった善逸の分を一人で全部食べちゃって。喧嘩を止めるの大変だったよ」
二人で長椅子に並びながらお菓子を摘み、私は店であった近況を、炭治郎さんは蝶屋敷と呼ばれる場所で衣食住を共にしている善逸さんや伊之助さんのことを話す。
時折炭治郎さんの口から女の子の名前が出てくることに、胸がぎゅうと締め付けられてしまうのだけれど、話からして所謂“恋人”ではなさそうでそのことについては一人で安堵していた。
「善逸さんと伊之助さん、お二人は店にはいらっしゃらないんですか?」
炭治郎さんは今日に限らず、◯日のいつもの時間に行けるよ、と会いに来てくれる日は文を届けてくれていた。会いに来てくれる、というのは私の都合のいい解釈だけれど。こうして私が誘えば炭治郎さんは隣に腰を下ろして話をしてくれるから、和菓子屋の娘であることいいことに、こうしてお菓子をダシに私はひっそりとこの時間を心待ちにしていた。
その中でよく聞く二人の名前は耳に胼胝ができるほど聞かされていた。けれど、その二人が炭治郎さんと一緒に店に訪れることはなく、仲の良さは話から窺えるのになぜだろうとふと疑問に思った。
訪ねた私に炭治郎さんは目を斜め上方向へと泳がせた後、呟いた。
「誘えば来ると思うよ」
誘わないのですか、と、そこまでは問えなかった。決して、二人に会いたくないわけではない。けれどこうして、禰豆子ちゃんはいるもののほぼ炭治郎さんと二人きりで言葉を交わせる時間が幸せだったから、自分からその時間がなくなってしまうことの提案はできなかった。
ただ、きっと、私のように炭治郎さんへ思いを寄せている人は他にも沢山いるのだろう。私は、炭治郎さんがうちの和菓子を気に入ってくれて、運良くこうしてお喋りができているけど、それだけの関係でしかない。
いつかは炭治郎さん、そういう人ができたらここへ来る頻度は減ってしまうだろうか。もしくは、炭治郎さんが手を引いて一緒に来るのだろうか。そこはかとない虚無感を味わいそうだ。でも、こんなにも優しくて誠実で、お天道様のような温かな笑顔をくれて、それから……、
「?何かついてるか……?」
「あ、いえ!すみません」
横目で楽しそうにここ数日の出来事を話す炭治郎さんの言葉を苦しくも右から左へと流していた。何も聞こえなくなってしまうほどにかっこいい、と思うその横顔に胸を高鳴らせてしまうのは、きっと私だけではない。
「本当にこんなにいいのか?」
帰り際、お土産にと炭治郎さんが買っていった和菓子に、今度は伊之助さんが沢山食べてもきっと余ってしまう、もしくは食べ飽きてしまうほどの和菓子を足して詰め合わせた。
「はい。むしろ、命の恩人にこれくらいしかできず申し訳ないです」
「そんなことない。十分すぎるよ」
いやいや、いやいやいやいや……、とお互い謙りあう。滑稽なやり取りにどちらからともなく笑みが溢れた。今度は、いつ来てくれるのだろうか。鬼殺隊のことは私にはよくわからないから簡単に口を挟んだりはできない。会いに来てほしい、なんて声に出すことはできない。和菓子を求めに来る炭治郎さんに横から手を伸ばし、炭治郎さんの時間に私という時間を差し出がましく割り込ませることしかできなかった。
「あら?炭治郎くんとちゃん」
店の前で深々炭治郎さんへと下げた頭を上げる。炭治郎さんは私の目の前で、視線を私の後ろへと向けていた。振り返らずともわかるその声の主は、炭治郎さんに出会うよりもずっと前からうちの店の常連である甘露寺さんだった。
炭治郎さんと甘露寺さんが顔見知りであることは、炭治郎さんに助けられてからその隊服が同じであることを元に知っていたけれど、実際こうして私の前で両者が揃うことは初めてだった。
「甘露寺さん、いらっしゃいませ。丁度今日、桜餅沢山作ってありますよ」
「ええ本当!?嬉しいわあ!炭治郎くんも来てたのね。ここの和菓子とっても美味しいわよね!」
「はい!」
頬に手をあてうっとりとさせた表情を浮かばせる甘露寺さん。これほどうちの和菓子を楽しみにしてくれるお客様もいないから、その様子に私も素直に嬉しく思う。
何個買って行こうかしら、この後広範囲の見回りだから沢山食べないと、と楽しみが声に漏れている甘露寺さんに炭治郎さんはうんうんと頷いた後、俺はこれで、と切り出した。
「また来るよ」
「はい、いつでもお待ちしています」
文を飛ばしてくれなくても、私は基本的には常時店にいて一応切り盛りを任されているから炭治郎さんがいつ来ても会えるのだけれど。それでも事前に日にちを教えてくれるのは、少なからず炭治郎さんも私に会いたいと思っているのだろうか。それは、都合が良すぎるだろうか。
小さくなっていく後ろ姿をじ、と見据えていると不意に炭治郎さんが立ち止まりこちらへ振り返った。遠目からでもわかる朗らかな笑顔で手を振ってくれたので、私もそれに返し、今度こそ炭治郎さんは人混みの中へと消えていった。炭治郎さんへと向けていた手のひらを無意識に胸元へと寄せてギュ、と拳を握る。
「好きなのね!!」
「!?」
存在を忘れていたわけではないけれど、自分でも言葉にしてしまうのが億劫で考えないようにしていた単語をそばで赤裸々にされあからさまに身体が跳ねた。あまりの声の大きさに道行く人たちがこぞって私たちへと目を向ける。
すでに店に入っていたのかと思っていた甘露寺さんは私へ、それこそ繊細な和菓子のような淡い瞳を煌々とさせていた。
「そっかあ、ちゃんが炭治郎くんを。ううん素敵だわ!キュンキュンしちゃう……!」
言葉通り、胸からキュンキュンと音が聞こえてきてしまいそうなほど甘露寺さんはまるで自分のことのように両頬に手をあて、ぶんぶんと柔らかな髪の毛を左右に振り回した。
「炭治郎くんには?伝えてるの?」
「い、いえ、そんな、炭治郎さんは私のこと、ただの和菓子屋の娘としか思っていないでしょうし……」
伝えられる、わけがない。
私とは畑違いな世界で暮らす人であるし、私の思いなんてきっと炭治郎さんからしてみれば迷惑以外の何物でもない。炭治郎さん自身はきっと、私に直接否定的なことは言わないだろうけど、邪魔であることに間違いはない。
自分の思いを肯定してしまったことにも気付かずに、顔に熱が走るのを肌で感じながらふるふると首を横に振った。
私の気持ちは、素敵なんてものではない。
「なら、“和菓子屋の娘”から炭治郎くんの“好きな人”になりましょう!」
「…………え?」
烏滸がましい。ずっとそう思っていた。
人を救う為、妹を人間に戻す為。強い意志を芯に刃を手にする人へ、私のようなのらりくらりと平凡に暮らしている人間が思いを寄せるなんて、身の程を知れというものだ。
それなのに、心中でも私が言葉にできなかったことを甘露寺さんは勢いのまま、天真爛漫に私に告げた。
ついていけずに放心している私を置いて、一人ふん、と顔の前で拳を握り意気込んでいる甘露寺さん。
「甘露寺蜜璃!腕に縒をかけてちゃんの恋を後押しさせてもらいます!恋柱の名にかけて!」
柱、とは、自身の使う呼吸の名に因んで呼ばれていると、確か炭治郎くんが話していたはず。いやに冷静な私の手を甘露寺さんは両手で包み込んで、頑張りましょうね、可憐な顔を近付ける。
薄らと桜の甘い香りが鼻を掠めた。
▽
今日も和菓子を買いにきてくださった炭治郎さんを、それが当たり前であるかのごとくいつもの流れのように店奥へと誘い出し甘いお菓子を頬張る。
−−女性として意識してもらうことよね!
−−つまり?
−−例えば……、そう!口元にご飯がついていた時にとってもらったりすると指が触れるでしょう?それでね、こう、キュン……ってするのよ!
甘露寺さんが私に助言してくれたのは、私の炭治郎さんへの思いが筒抜けとなってしまったあの日。桜餅を食しながら、おそらくだが自分の経験談を語っていた。する側よりもされる側、の様な話し方ではあったけど。
私が炭治郎さんへ同じことをすれば、炭治郎さんは少しでも私のことを意識してくれたり、するのだろうか。変わらずいつも通りここ数日であった出来事を話す炭治郎さんを横目で見る。
ついていなくても、フリをすればいいのよ!と、甘露寺さんは声を大にしていた。時折くしゃりと笑い崩す表情に胸がどくりと震えるけれど、意を決して炭治郎さんへの口元へと手を伸ばした。
「……?」
「あ、……ええと、」
が、私が触れるよりも前に炭治郎さんは私の動きに気付き不思議そうなに視線を送る。自分へと手を伸ばされたことに、日頃周りへの気配へと神経を尖らせている彼が気付かないわけがなかった。このままさらりと「ついていましたよ」なんて餡をとるフリをしてしまえばいいものの、やっぱり私にそういった勇気はないもので、元々ないものを急に湧き上がらせることは難しい。
中途半端に伸ばしてしまった手をどうしようかと神妙な空気に気まずさを覚えていると、炭治郎さんの手がこちらへと伸びてきた。
硬直している私の口元に、指先の厚い皮が何かを掬うように触れる。
「ちゃんもこういうところあるんだな」
行き場を失っていた手を、そろりと降ろした。自分は六人兄妹の長男であると話していたが、今身を以てして実感した。
やろうと思っていたことを、反対にされてしまった。
炭治郎さんの指についた餡をちり紙で拭き取りながら、顔から火が出そうなほどの羞恥に唇を噛み締めた。女性として意識どころか、これでは世話の焼ける妹だ。
−−わかったわ!もう、小細工はやめましょう
−−と言うと……?
−−身体に触れちゃう……とか
−−か、っ、は、破廉恥じゃないですか!?
−−ええっ、そっそう?やっぱり?ちょっと押しすぎかしら……
−−でも、それくらいしないと意識してもらえないんですかね……
太鼓判を押す甘露寺さんに、私もすっかり炭治郎さんに意識してもらえるよう動く気になってしまっていた。
けれど、身体に触れるって、例えばどこに触れてもいいのだろうか。炭治郎さんに触れたことは、私を救ってくれた時の一度きり。それも、大丈夫ですかと腰の抜けた私を起き上がらせてくれただけだ。恐怖と未知の光景に頭が支配されていたその時のことは、よく覚えていない。ただ、その温かさに涙が出るほど安心していた。
「…………」
「そうだ、ちゃんのことは二人に教えてなかったんだけどな、この前ちゃん、手紙入れていてくれただろう?それを善逸が見て誰だって聞かれて、それで話したら会いたい、って……どうした?」
お菓子を平らげてから、伸ばしてた足を畳みながら話す炭治郎さんの手をじ、と見つめていた。触れるのであれば、私は手以外に思いつかなかった。けれど、これまでの努力がと思いの丈が刻まれたその手があまりにも綺麗で、尊大で。私には触れることができないものだと、そう思わされた。
「ううん、なんでもありません」
炭治郎さんの友人二人に紹介すらされない程度の人間が、触れられるわけがない。傷一つない自分の手を見て、心の中で自嘲した。
−−手を触れられる関係になればいいのよ!これからよ!これから!鬼殺隊には剣士じゃないお嫁さんを貰っている人、沢山いるのよ?
−−お嫁さ……!
−−だから、そうね……、うん!
−−うん……?
−−好きな人の話をするしかないわ!必然とそういう雰囲気になるもの!
今日も炭治郎さんは、来てくれる何日か前に文を送ってくださった。店奥の長椅子には誰もいない。美味しく淹れることができた抹茶を喉に通した後、突然“好きな人”の話なんてしてもいいものなのかと様子を窺っていた。
「そうしたら、もう任務は終わったからって善逸が女の子に声をかけに行ってしまって」
「賑やかな方ですね」
「でも女の子を困らせるのは良くない。善逸は少し優しくされたりすると、すぐいいように捉えてしまうんだ。最初に会った時も……」
勘違いで女の子を困らせていた、と、眉間に皺を寄せながら、それでもどこか愉しげに話す炭治郎さんに、苦労話を聞かされることが多いけれど心から信頼している仲間なのだということが胸に伝わってくる。
目尻を下げる炭治郎さんの面持ちに、私もつられてその話を聞き入りながら笑みが溢れてしまっていることに気付く。それから、今が絶好の機会であることも。今なら自然と“好きな人”の話へ運べる。
「誠実に生きていれば、女性はきっと気付いてくれるから」
「……炭治郎さんは、そういうの、……あるんですか?」
「……そういうの?」
「好きな、方とか。どういう方が炭治郎さんは、お好きなのかな、と」
どくりどくりと、胸の音は早いのに時間の流れが重くて遅く感じる。外を行き交う人の賑やかな声が耳を通る。
沈黙がいやに長く感じて、俯きながら膝の上で拳を握り締めた。
「……甘い香りがする子」
暫く音のない時間が続いた後、静かに耳にした言葉に顔を上げる。
「好きな、方、ですか?」
誰か特定の人を思うような言葉に、きっと私の期待する答えは返ってこないとわかっていながらも尋ねてしまった。
炭治郎さんは微かに頬を赤らめながら、眉を下げて笑った。
「俺には届かないところにいる子なんだ」
▽
数日後、桜餅を買い占める甘露寺さんへもう私の恋の後押しをする必要はないと伝えれば、変わらず自分のことのように胸を打たれたような表情を浮かべていた。
「炭治郎くんに好きな子……そう……」
「でも、いいんです。好きな人に自分のことを好きになってもらうのって、自分の都合でもありますし。他に好きな人がいる人であれば、尚更」
気持ちを伝える前に踏み込んだ話をしてしまったことで藪蛇になってしまい、私の恋は儚く散ってしまったのだけれど、でも元々伝えるつもりはなかったのだから、いずれはこうなることは目に見えていた。
伝えたい。私の思いを知っていてほしい。ほんの少し、そう思わなくはないけれど、炭治郎さんのような優しい人に伝えてしまったら、きっと悲しませてしまう気がした。そして、もうお店には来てくれなくなってしまうような予感もした。
「好きな子……、私も炭治郎くんと話すことはあまりないからわからないけど、でもそれって……」
「そうだ、甘露寺さん」
「?」
「お見合い、したことありますか?」
お土産にと箱に詰めた桜餅のほか、今食べる用にと木皿へと載せたそれをもう何個めだか口に運ぶ甘露寺さんへ問いかけた。数刻、甘露寺さんはどこか焦点の合わない瞳でいたがその後すぐに桃色の髪を揺らして私へ微笑んだ。
「あるわよ。どうして?」
「明日なんですけど、顔を合わせるだけというか。一度そういうのを経験してみるのもってお父さんに言われまして」
相手の人は、何百人と顔合わせをしているらしく、それでもいい人が見つからないと他所の高貴な暮らしをしている人たちと比べたらまだまだなうちまで話が回ってきたらしい。まだ私はそんな歳ではないしお父さんも無理にとは言わなかった。でも、失恋の哀しみに耐えかねていた私は経験したことのない新しいことに触れることで、気分転換にもなるかもしれないと了承した。そんな気持ちでいるのは相手の方にも、仲人や他にも関わっている方へも失礼にあたるのではないかとは考えた。けれど素直にそれを話したところ、理由はどうであれまずは足を運んでみればそれが運命の出会いになる時だってあるから、と諭された。
「ちゃんにとって、素敵なお話になるといいけど、でも、」
経緯を話す私に、甘露寺さんは手にしていた桜餅を一口で平らげた後、引っ掛かりがあるような声色で呟く。
それから両手を身体の前で絡ませ伸びをした。
「好きな人に一生懸命な子が、私は一番応援したくなるわ」
少し困ったような笑顔の真意は、炭治郎くんへの思いが散ってしまうことへの助長をしてしまったことへだろうか。後押ししてくれたのに、私こそ目に見えていた結果に最初に断ることができず、申し訳が立たなかった。
食事処とは違い、辺りが橙に染まる頃には店仕舞いの準備に取り掛かる。縦に伸びる自分の影にご飯よ、と通りの奥から走る子供を呼ぶ声。店前で最後にいらしたお客様をお見送りして深々下げた頭を上げると、侘しくなった道沿いに市松模様の羽織が目に入る。
「炭治郎さん」
「たまたま近くで任務だったんだ。会えてよかった」
「……任務、怪我は?」
「ないよ」
木箱の音と耳飾りの揺れる音。
私の前で炭治郎さんは今の今まで鬼と対峙していたのかとは思えないほどに優しくて穏やかな笑顔を向ける。怪我がないことに安堵しほっと胸を撫で下ろした。
会えてよかった、と社交辞令の言葉にすら心臓が締め付けられてしまう。
「今日はもう終わりみたいだな。明日また来てもいいか?」
「はい、お菓子沢山用意しておきますね」
きっと、それほど近くはないはずなのにこうして足を運んでくれるのは、いつも押し付けるように渡してしまう和菓子が炭治郎さんの周りでも気に入られているからだろうと、それはそれで勿論ありがたいことに変わりはないのだけれど少しだけ切なくなる。
私は明日はいませんが、とは伝えなかった。彼は、私に会いに来ているわけではないということが明白になったから。自意識過剰、勘違いも甚だしい。
痛む胸を抑え込み、なんとか笑顔で振る舞えば炭治郎さんは哀しそうに笑ったあと、片手をひらりと上げ踵を返した。
次の日のお見合いは、甘露寺さんの話していた『素敵なお話』になることはなかった。それなりに身なりを整え化粧も施していったけれど、ものの数刻で終わってしまった。愛想笑いしかできなかった自分が情けない。相手の方はそんな私に嫌な顔一つしなかったけれど、この話が進んでいくことはないだろう。
「あ、ちゃん!」
途中、商談があると列車を途中で降りたお父さんと別れ、一人足取り重く帰路へ就いていた。
足先へ落としていた視線を前方へ向けるとふわふわと髪を揺らしながら甘露寺さんが駆けてくる。
「どうだった?お見合い」
「あまり、良くはなかったですね。相手の方に申し訳ないです」
「……そっかぁ」
「やっぱり私は炭治郎さんが好きっていうことが改めてわかりました」
炭治郎さんへの思いを鎮めようとすればするほど、胸が苦しくなる。思っているままなことも辛いけど、自分の気持ちを押し殺してしまうことはもっと辛かった。だから、私の気持ちに応えてほしいなんて、そんな勝手なことは口にはしないけど、ただ、今までのようにお昼に沢山話をして、甘いお菓子を食べていたい。それが私にとっての至福であった。
「だから私、」
「!」
頭の中でいっぱいでいるその人の、珍しく荒げた声が聞こえた。ちゃん、ちゃんといつもどこか他所の女の子のように呼ばれていた。いつかは私も炭治郎さんの友達のように、呼び捨てで呼んでくれないかと思っていた呼び方に胸が熱くなる。
ずっと走って町外れのここまで来たのか、目の前の炭治郎さんは少しだけ息が乱れている。
「お見合い、してきたって本当か?店に行ったらいないし、そんなこと昨日一言も話してなかったじゃないか」
「……だって、炭治郎さんには私のことなんて関係ない話で、」
「あるよ」
揺らぎのない紅い瞳に困惑した私が映る。
初めて見る炭治郎さんの様子に落ち着きを取り戻せない。
「お見合いは?もう、決めたのか?」
「…………いえ、全然。私にはまだ早いですし……」
「……よかった」
苦しそうに眉を顰めながら、私に一歩詰め寄る炭治郎さんに混乱したままお見合い話を否定すると、強張っていた炭治郎さんの表情が和らいだ。
よかった、というのは、……つまり、どういう。
ぐぐぐ、と重い脳内を回し始める私より先に、炭治郎さんは自分の発言に顔を紅潮させ、慌てた素振りを見せた。
「これは、その!ちが、」
「違くないでしょう!!」
私の前に傷だらけの綺麗な手のひらを向けた炭治郎さん。あからさまに焦りを見せるその声に被せるように響く高揚した声。
甘露寺さんは炭治郎さんの片手をがし、と掴み、私の気持ちがバレてしまったあの時と同じような瞳を炭治郎さんへ映していた。
「決めたわ!お見合いをしましょう!」
「え、お、?」
「今から!」
ふんっと今しかないと言わんばかりに甘露寺さんは炭治郎さんへと突発的に思い付いたであろう自身の案を告げた後、くるりと私へ振り返る。
もう片方の手で私の手を優しく包み込み、頬を綻ばせた。
「ちゃん」
「、はい」
「ちゃんのお相手はね、素直で優しくて、妹思いの人」
先ほど上げた高らかな声とは裏腹に柔らかな物言いで話を進める。
その口調に重かった頭が滑らかに動き出し、このお見合いというものが何を示しているのかを察した。それと同時に、胸が脈打つたびに私も身体中に熱が走っていく。
「それから髪と瞳が紅くって、花札の耳飾りをしているわ!」
「…………、」
「炭治郎くん」
「っはい、」
「炭治郎くんのお相手は、和菓子屋の娘さん。気立てが良くて、とっても可愛い子なの!」
私と炭治郎さんの手を握り、甘露寺さんは満面の笑みを浮かべ間に立っている。
炭治郎さんは薄く開いた口をまごつかせながら一度視線を足元へと落とした。
「でも俺みたいな山育ちが、」
「相手の子は是非って言ってるわ」
「えっ、」
甘露寺さんの言葉に顔を下げた炭治郎さんと改めて対面する。
もしかして、炭治郎さんはずっと私のように、私と同じように、自分はこの人へ思いを募らせることはお門違いな恋だと、そう思っていたのだろうか。
「そういうのも全部、まずはお話してみないとわからないわ。自分一人で決めちゃダメよ」
「……」
「ね?」
甘露寺さんは炭治郎さんへ言い聞かせるように伝えた後、私と炭治郎さんへ交互に顔を向けた。
「どうかしら?二人とも」
とくりとくりと、胸の音は留まることを知らない。けれどその鼓動は胸を締め付けるものではなくて、幸甚の至りだ。
噤んでいた口元を私が仄かに緩ませれば、炭治郎さんも同じように息を吐く。それから、私たちの手を取る桜色の仲人へ声を揃えた。