麗らかな日差しの下、仄かな甘い香りと腹の底から滲み出る嫌悪の匂いが入り混じる。
「性懲りも無くまた来やがったなァ」
今、俺の鼻を掠める相反するこの匂いは、目の前で眼球に血を走らせあからさまに俺を敵視している不死川さんの、実は胸中に秘めている俺への良心的な好意……というわけでは勿論ない。
猛獣のような睨みを利かせながら今にも俺を屋敷から追放しようとする不死川さんへ手に提げていた包みを差し出した。
「おはぎをお持ちしました!」
「いらねェっつってんだろうがテメェ、いよいよ殺されてェのかァ……」
「今回は俺の手作りじゃありません!前回『お前の手作りなんて誰が食べるか』と言っていたので、買ってきました!」
大人も尻込んでしまうような唸るような低い声にはもう慣れた。俺がこの屋敷へ来ると毎度毎度不死川さんは激しく嫌な顔をする。俺もこうまでして自分が嫌われていると気付いている人の前に足蹴なく通うことは素直に良い気分ではないし、お互いの為にもなるだろうから控えたくはあるのだが、問題はこの人の継子にあった。
「そういう問題じゃねェ!」
「こし餡です!」
「あァ?その店はつぶ餡が、」
「炭治郎、来てくれたの?」
性懲りも無くと言われようと、俺にはここへ足を運びたい理由があった。
風柱邸の屋敷の扉の前で押し問答を続けていると、不死川さんの後ろからひょっこりと顔を覗かせながらあどけなさの残る声色で俺を呼んだのは、この人の継子とは思えないほどの華奢で可愛らしい顔立ちをしただった。大きい瞳をぱちぱちとさせ首を傾げているのが扉と不死川さんの大柄な身体の隙間から見える。
「うん、迎えに来た」
「おいこらテメェ」
仁王立ちをしていた不死川さんの横を潜り抜け屋敷へとお邪魔する。
とは柱稽古の時に仲良くなった。俺と同い年だけど、鬼殺隊に入ったのは俺よりも前で先輩である。それを後から知った時、もう俺はのことが好きだと気付いていて、けれど敬語を使わなければならないと改めたのだが、は一瞬悲しいような切ない香りをさせた後、敬語でなくていいと俯きながら小さく告げられたのでそれからはまた友達のように接している。
「私まだ準備できてなくて……」
「準備?」
「うん、その、折角町へ行くから、お洒落したい……」
目を丸くする俺の前では目を泳がせながら弱々しく呟いた。のことを知れば知るほど、今俺の後ろでこめかみに筋を浮かばせているであろう不死川さんと四六時中一緒にいるということにほんとに?と疑いの念がかかってしまう。不死川さんが本当は優しい人であることはわかってはいる。自身、町で飢え死にしそうだったところを不死川さんに拾われたと話していたから、それは俺にも十二分に伝わっている。が、それを考慮してもだ。
「そっか。ごめん、待ってるよ」
「うん、ごめんね。師範、炭治郎に屋敷で待っててもらってもいいですか?」
「勝手にしろ」
「ありがとうございます!今度はちゃんとつぶ餡買ってきます!」
「一々鼻につくんだよテメェはよォ!」
面倒くさそうに吐き捨てる不死川さんへ振り向き頭を下げた。顔を見上げれば、やはり額をビキビキとさせていたが、屋敷へ入る許可は貰ったのでそのままの後に続いてここで待っていて、と通された部屋で待っていた。結局、いつもこうして不死川さんは俺を通してくれはするから、だから俺も毎度を迎えに来てしまう。
お洒落、と話していたけど今までがそういうことをすることはなかった。女の子のお洒落というものもいまいちよくわかってはいないのだが、しのぶさんは紅を塗っているしもそうするのだろうかと考えていると、廊下の床板を踏み鳴らす音が聞こえる。不死川さんだ。厨房に置かせてもらったはずの餡の匂いが微かにした。
「お待たせ」
つぶ餡は売り切れていたから、次はもう少し早めの時間に行かないとな……と粛々と頭の中で反省していたところにか細い声と共に部屋の襖が開く。待ち侘びていて、喜々としてそっちへ顔を向けながら立ち上がろうとした身体が固まった。
「……変、かな」
「…………」
「私、こういうのあまりまだわかってなくて、でも師範がこれくださったから……」
「…………」
「ちょっと、背伸びしちゃったかも、落として、」
「似合ってる!すごく似合ってるよ!!」
俺に背を向けて廊下の奥へと逃げて行ってしまいそうになるを慌てて呼び止めた。俺は人に見惚れると、こうもすぐに声が出なくなる。でもの場合はただ綺麗だという言葉一つでは表しきれない感情が渦巻いて心臓がうるさくなって、呼吸も忘れてしまいそうだった。
しのぶさんのような化粧を施してくるのかと薄っすら考えてはいたけれどそれだけではなく、今日はいつもの見慣れた隊服ではなく、煌びやかな小振袖に袴姿だった。
荒げた声を発した俺には控えめに顔を上げる。頬がほんのりと赤く染まっている。
「本当?」
「うん、本当。すごく綺麗だよ」
「……よかった」
ほっと胸を撫で下ろしたように目を細めて微笑むいつもよりも大人っぽいその姿に、正直に胸がどくりと跳ねた。
「俺も着替えてくればよかった」
「何に?」
「……、今のに並ぶなら、隊服が一番かもしれない」
蝶屋敷に置いている手持ちの自分の服を思い出し、頭の中での隣に当て嵌めてみればなんとも見窄らしかった。背中の文字は目立つし町の人からしてみれば物々しい言葉ではあるが、羽織で隠れているから問題はない。
考えを改めた俺には小さく笑い行こう、と促した。
屋敷を出る前に自室で刀の手入れをしていたらしい不死川さんへが声をかける。
「師範、行ってきます」
「あァ、気つけろよ」
「行ってきます!」
「…………」
継子であるとは違って、やはり俺には手厳しいままのようだ。おはぎの店には、開店直後に行くことにしよう。
町へ降りて久しぶりに“普通”な時間を一頻り堪能した後、小さい甘味処へと入り大きな傘の下の椅子へと腰掛けた。
「そういえば」
「うん?」
「接近禁止だ、って聞いたよ?師範と炭治郎」
餡ののった団子を頬張り味わうようにしてそれを飲み込んだ後、思い出したようには呟いた。
は俺と不死川さんとの間に一悶着あったのを知らない。その場にいなかったのは勿論、俺が話さなかったからだ。『もう来ちゃ駄目だよ』なんて言われてしまうのが嫌で。ギクリと効果音が聞こえてしまうくらいには冷や汗がたらたらと全身から吹き出てしまいそうだった。
「うん、でも、俺はに会いにきてるから……」
「……炭治郎は、」
「う、うん」
「…………、なんでもない」
動揺している俺を深掘りするわけでもなく、何か言いかけたのをやめて再び団子を口にしているのが視界の端に映った。
から香る匂いに、言いかけたことに、俺はいつもそこはかとなく期待をしてしまう。もしかしたら、も俺のことを好いてくれているのではないかと思うけど、それは匂いだけで決めつけてしまえるようなものでもない。
隣に座るへ視線を送ると、も俺のことを見ていたのかバチっと目が合い、キラキラと艶がのっている瞼が上下した後に逸らされた。
「……美味しいな」
「うん。炭治郎が隣にいるから、もっと美味しいのかも」
小春日和のような温かさを感じていた。その小さく頬を綻ばせる横顔に、好きだという気持ちが膨らんで、自分の中だけでは抑えきれなくなってしまいそうだった。
「」
「あ、そういえばこの前ね、師範が野良犬に懐かれちゃって、」
「好きだ」
一言はっきりと告げた俺に、はゆっくりと再び俺へとその無垢な瞳を向ける。
抑えきれなくなってしまいそうだなんて、よく言ったものだ。もう抑えきれないほどに俺はのことが好きなんだ。匂いで何もかもわかるわけでもないし、この気持ちは声に出さないと伝わったりなんてしない。その小さいけれど信念の揺るぎなさが残る手に触れたいという衝動を必死に抑え、固まるへもう一度思いを言葉にする。
「俺、のことが好きだ」
「……、」
「と恋人になりたい」
継子であるということは、実力だって人並み外れている。それであるのに、は決して傲ったりはしないし控えめな性格で、私にはこれしかないからと時折悲しそうな表情を見せる。でもそんなことは断じてなくて、俺はそんな彼女とこれからも一緒にいて、いつか鬼殺隊がなくなってもそれで終わりになんかしたくなくて。ずっと、この子とこうして隣にいて笑い合っていたい。
も、そう思ってくれていたらこの上ない幸せだと思った。ただ、そんなことを脳裏に過らせつつもやっぱり、どこか良い返事が返ってくることを期待していたのだと思う。
「……ごめんなさい、よく、わからなくて」
口元を覆って瞳を揺らし、視線を落とし呟かれた言葉に、こんなにも頭に衝撃が走るとは思っていなかったからだ。
彼女が頬を染め上げていたのは、間も無く日没を知らせる夕陽のせいであって、俺の言葉に俺と同じ気持ちでいてくれたからではないのかと自嘲した。やっぱり、人の細かい感情まで匂いでわかるわけはなかったのだ。
▽
あの日の帰り際、俺との間に会話はなかった。を風柱邸まで送り届けた後、取り繕った笑顔を見せ手を振る俺には何か言おうとしていたが、また崖から突き落とされるような言葉が待っているのかと怖くなり、早々に背を向けてしまった。
「あれ、今日はいかないのか?」
鍛錬が終わり自由にできる時間があれば俺はいつも、それはもう日に日に不死川さんの嫌な顔がけたたましくなっていくくらいには風柱邸へ赴いていた。
だからか、俺が縁側で魂が抜けたようにぼんやりと雲が流れる空を見上げていたことを不思議に思ったらしい善逸に声をかけられた。
「……うん」
「え、なに?そんな雨に打たれたような音鳴らしてどうしたんだよ怖えよ、本当に炭治郎か……?」
「善逸はすごいよ」
「……なんだよいきなり!そんな褒めたってなにも、」
「女の子に何度振られようと元気だもんな」
「喧嘩か、喧嘩売ってるのね?」
好きな女の子一人と同じ気持ちでないということだけで、こんなにも息苦しくなってしまうものとは思っていなかった。
でも、当然だ。が俺のことを好きでいないのであれば、友達としてはきっと付き合ってはいけるけど、俺ではない誰かがの隣にいて、笑いあっている可能性の未来が待っているということになる。の幸せを願わないわけではないけど、心の根底から祝福できるのかと問われたら、強く頷くことはできない。
もう少し、時間が経てば解決するのだろうか。
『ていうかえ、振られたの?ちゃんに?』と善逸の声が遠くのように聞こえる。気の抜けたようにうん、うん、と返事をしてから立ち上がり、どこいくわけでもなくふらふらと屋敷の廊下を歩いた。と出会うまで、こうした空き時間に何をしていたかわからなくなってしまうほどに心酔していた。
「、っ、あ、すみませ……、」
「…………」
廊下の曲がり角。俯いていたのと、ぼうっとしてことも相まって人にぶつかってしまった。怪我人であったらと一瞬頭が冷やっとしたが、俺を無言で見据えるその人は不死川さんだった。
固まる俺に不死川さんは何事もなかったかのように屋敷の出口へと向かっていく。その場に立ち尽くし呆然とその様子を見ていると、不意に立ち止まった不死川さんに背筋を伸ばした。
「曖昧な返事にメソメソとしてんじゃねェ」
「…………」
「うちの継子泣かせんな」
「え、」
思わず声を漏らした俺に構わず、不死川さんはふん、と鼻を鳴らしそのまま屋敷の扉を開いた。
泣いてる?が?それは、……俺が泣かせたってことなのだろうか。
「っ、すみません!」
は自分の気持ちを俺に素直に伝えてくれただけだから、涙を流す理由が俺にはわからなかった。
でも、好きな子が泣いていると知ってしまったからには身体が勝手に動いていた。不死川さんの横をすり抜け屋敷から飛び出し、一目散に風柱邸へ向かおうとした。
「おいそっちじゃねェ」
「……、」
「町だ。そろそろ帰ってくる」
後ろから聞こえるあくまでも平静な声に足を止め、不死川さんへ振り向けば真逆へ走ろうとした俺へ親指で逆だ、とぶっきらぼうに促した。
「……!!ありがとうございます!!」
町への道は、一本道だ。
理由はわからないけれど、不死川さんが言うのであれば、泣かせてしまったのは俺で間違いはない。好きだと告げてしまったのがそんなにもの中で辛い出来事だったのかと思うと胸が張り裂けそうになるが、俺にできることは一つしかない。
「!」
「炭治郎、」
夢中で走っていると小さく見えてきた人影、その輪郭だけでだとわかり声をかけ、坂道の勢いでそのままへと向かい両肩を掴んだ。
俺の勢いには驚きを隠せない表情を浮かべている。
「ごめん、俺、泣かせるつもりはなくて」
「…………」
「本当にごめん!この前のことは忘れてほしい!俺、いつも通り普通に接するようにするから。友達でいよう!」
あの日のことは、無かったことにしていい。俺の気持ちなんて忘れてしまっていい。俺の気持ちに応えなかった自分を責めなくていい。俺はただ、に笑っていてほしくて。それは心から思っていることで。
明らかに取り乱しながら話す俺には薄く開いたままだった口をギュッと噛み締める。それから、瞳に涙を溜めているのを目の前にして、焦燥感に駆られ慌てて両肩から手を放した。
「やだ……」
「ご、ごめん……」
「忘れたくない」
ぽたぽたと、瞳から零れ落ちる大粒の涙が地面を濡らす。
思いがけない一言に頭が回らず硬直していると、が俺の両手をそっと掴んだ。
「ごめんね、私、男の人をっ好きに、なったことがなくて、そういうの……っ、よくわからなくて……」
「……」
「それに、私のことを好きにっ、なってくれる人がいるって、いうのもっ実感が湧かなくて、何かの間違いだとかぐるぐるしてて……、」
「…………」
「も、嫌いになっちゃっ、」
「なるわけない」
震えながら、俺の手を放したの両手を今度は俺がいっぱいに包み込んだ。
例えが俺の気持ちに応えられなくたって、俺はのことが好きであることに変わりはない。だから今、こんなにも胸が締め付けられるほどに苦しくなっている。
手を握る俺には潤んだ瞳のまま、顔に熱を集めて言葉にした。
「私も、炭治郎のことが好きだよ」
一度どん底に突き落とされたからだろうか、多分、あの日返事をもらっているよりもきっと、今の方が俺はこの上なく幸せを周りの景色が見えなくなるほどに感じている。
ぐつぐつと胸の内側から湧いてくる感情が抑えきれず、の手を引っ張って抱き締めた。
「……今日、謝りに行こうと思ってて」
「俺に?」
「うん、師範が、思ってることは声に出さないと伝わらないし相手の考えなんていくら考えたってわからないって」
しばらくして、顔は見られたくないのか俺に腕を回して懐に額をくっつけたまま話すの声色は落ち着いていた。
ああ、やっぱりあの人は、普段は刺々しい雰囲気を纏っているのだけどこうして優しいところがあるのは、と似ている、というか、が似たのだろうと思った。
「今度、町へおはぎを買いに行こう。すぐ売り切れてしまうらしいから、朝早くになるけど……」
「大丈夫。炭治郎と出かける前の日、いつも楽しみなの」
俺を見上げて、柔らかく頬を綻ばせるの瞳からはもう涙は溢れていない。けれど、頬が赤く瞳が滲んだままのその表情を見て、触れたいと思う衝動に抗うことはできなかった。
「炭治郎?……え、っ!」
許可もなくその唇へと自分のそれを押しつけ、初めて感じる柔らかい感触に胸の音が全身に木霊した。。
唇を離した後、師範の鴉が見てると耳まで真っ赤にして照れていたけど、きっとあの人はそれを聞いたところで悪態を吐くことはないだろうと、眉を下げてごめんと笑い返した。