カコン、と地面に何かが落ちて転がる音が耳に鳴ったのは、俺が空っぽの木箱を落としたからだった。

「大丈夫?」
「う、うん。えっと……それで?」

昨日あった任務では滝のような雨に打たれ、隊服は勿論のこと折角鱗滝さんが造ってくれた禰豆子を運ぶ木箱も随分と水を吸ってしまった。日当たりのいいところに置いて、少しでも早く乾かさないとすぐに木は傷んでしまう。アオイさんがいつも洗濯物を干しているところに木箱を置いて、青空が広がるからっとした天気の今日、木箱もすっかりと水をなくし軽くなっていた。
それを回収し、抱えながら庭を歩いていると久しぶりに見たの姿に胸が高鳴った。随分と会えなかったから沢山話がしたい。そう思っていた俺に、が口にしたことは俺の思考を一瞬停止させるものだった。
思わず木箱を落とした俺を心配しながらはそれを拾い、俺に手渡した。

「それでって、それだけだけど……」

聞こえなかったから、狼狽えて聞き返したわけではない。の口からはっきりと俺の耳に届いた『善逸と町に行ってくる』の言葉が聞き間違いであってほしかったからだ。
けれども、けろっと答えるにその願いは虚しくも散った。
とは、少し前から所謂“恋仲”で、一緒に鍛錬をするだけではなく空いた時間を見つけてはこうして話もして、周りのみんなが『仲睦まじい』と言うくらいには俺自身もそうだと思っていた。

「そっか、……ふーん、そ、そうか……」

手渡された木箱の木目を意味もなくなぞる。
俺以外の男の人と話すなとか、仲良くするなとか、当たり前だがそういう気は断じてない。そもそも善逸は俺にとっても家族のような存在だし、善逸とが一緒にいることに俺が何か咎める権利なんてものは一切ない。
は明るくて優しくて、柔らかく笑う姿が可愛くて、刀を振るう時の立ち振る舞いは俺が見惚れてしまうほどにかっこいい。だから、のような女の子に友達が沢山いることだっておかしなことではなく、当然のことなのだ。
それなのに、理解はしているのに心の隅で笑顔で見送ることができない自分もいるのだろう。そうでなければ、木箱を落とすこともなかったのだ。

「俺も一緒に、」
「怪我治ってないでしょ」

ついていこうとする俺には呆れたように眉を下げた。
の言う通り、俺は今朝帰ってきたばかりで身体の節々が傷んでいる。明日や明後日には完治するとはとてもじゃないが言い難い。
怪我さえなければ、もっとといることができたかと思うと、まだまだ俺は強くならないといけないと思ったし、それと同時に、もしかしては弱い俺に飽きてしまったのではないかと一抹の不安が頭に過る。力だけで見れば俺の方が強いのは必然なのだが、は俺よりも戦い方が上手い。見事なまでに鬼の頸を刎ねる。どんな血鬼術にも瞬時に適応し鬼の弱点をつく。
そういえば、俺が任務に出る前は宇髄さんとも出かけていた。雛鶴さんたちもそこにはいたようだけど、本当は柱のような強い人の方が頼れるし男らしくて惹かれてしまうのではないかと、妙に嫌な想像だけが頭の中を張り巡る。

「お土産買ってくるから、ゆっくり休んでてよ」
「うん……ありがとう」

俺としては、善逸と二人で町に行くよりも、一緒にいてほしかったのだがを俺の都合で縛り付けることはできない。
胸の中に蟠りを残しながらも、頬を綻ばせたを見て嫌な考えが頭の中を支配するのは自分自身が弱っているからだと言い聞かせ、俺も曖昧に笑い返した。

が善逸と何かある、と思っているわけではない。ただ、なんというか、胸に穴がぽっかり空いたような、俺だけ置いていかれることに寂しさを感じていた。
好きだという感情が心の中だけに留めることができなくなって、ある日に好きだと想いを告げた時、まさかも俺を好きでいてくれているとは思わなくてその時は夢のような感動を味わった。でも、想いが同じだったからと言って、これからも都合よくは俺のことだけを見てくれるとは限らない。

「元気がないですね」

そろそろ、善逸と町へ降りたが帰ってくる頃だった。
機能回復訓練を受け、悶々悶々と複雑で自分でもよくわかっていない感情のまま廊下を歩いていると、前方から柔らかい声が聞こえた。
顔を上げた先にいたのはしのぶさんで、口角を上げたまま俺の元へ歩み寄る。目に見えるくらい、俺は元気がないように見えていたのだろうか。

「俺、具合悪いんでしょうか……」
「はあ?」

いつもの淑やかなしのぶさんとは裏腹に、ほんのり笑顔の後ろにある素性のような声が上がった。それに俺は特に何も感じることはなく、ただ自分のよくわからない感情と戦っていた。

「まだどこか痛むんですか?回復も早くて呼吸も上手く使えているかと思いますが」
「その……、この辺りが痛いんです」

身体は確かにもう痛むところはほぼほぼない。数日訓練を受けていればきっと完治もすぐだ。だけど、今俺が服の上から触れた胸の辺りは何日経ってもよくはならない。しのぶさんに診て貰えば、このよくわからない感情も治るのだろうかと一度伏せていた顔を再び上げれば、瞬きを繰り返したしのぶさんは目を細めてにこりと笑った。

「まったくもって正常ですね」
「え、でも」
「ただいま」

そんなことはない、きっとどこかが悪いから嫌な考えは頭から消えないし、もやもやとしたままで訓練にも集中ができないのだと縋るようにしのぶさんの腕を掴んでしまったところ、廊下の先の方から聞こえた声に我に返る。

、おかえり!」
「おかえりなさい。善逸くんは一緒ではないのですね」
「善逸は禰豆子ちゃんに花を見せに……」
「そうですか。炭治郎くん、私はこれで」
「あ、はい。すみません」

いつまで腕を掴んだままでいるのかと、そんな声色で声をかけられ腕をパッと放した。後でちゃんと診て欲しさに、しのぶさんの背中を無意識に眺めていると、さっきまでしのぶさんの腕を掴んでいた左手を握られ肩を揺らした。

「あ、えっと、おかえり!」
「さっきも聞いたよ。ただいま」

至近距離で俺を見上げるの瞳に狼狽えた自分が映り恥ずかしい。にもそれは伝わっているようで、眉を下げて小さく笑っていた。ほんのりと、以外の匂いも香ってくる。善逸の匂いだ。

「炭治郎?」

のことも善逸のことも好きなはずなのに、どうしてか胸の中は落ち着かずに騒ついている。どうしたらこれは無くなるのか、理屈ではわからないけどを抱き締めたくなって、そっと引き寄せるとその感情は和らいでいく気がした。
普段、あれだけ鬼と戦っている身体のはずなのに俺にすっぽりと収まっている。

「……どうしたの?辛いことあった?」
「辛いこと……」

そうか、これは、俺にとって辛いことなのだとの口からはっきり言葉にされて気付いた。
華奢な身体は俺に包み込まれているのに、は俺をあやすように背中をさする。

「うん、多分、あった」
「なにそれ。ねえ、一緒にお菓子食べようよ」

これは俺の、芽生えてしまった独占欲なのだろう。けれどもそんなことをに伝えても俺の我儘に振り回してしまうだけだ。ただ、なにも辛いことなんてなかった、と嘘は吐けずに歯切れ悪く答えれば、腕の中ではふわりと笑ってやんわりと俺から離れ、手にしていた包みを俺へ見せた。甘い匂いがする。

「治ったら、一緒に町へ行こう」

同い年のはずなのに、は大人びている。包みから顔を出した和菓子は季節柄か、紅葉を模ったものだった。緑から紅に移り行く紅葉の彩りを表現していて、食べてしまうのが勿体無いくらい繊細な和菓子だった。それをまじまじと見ていればは小さく笑ってそう言ったのだ。我ながら自分のことを幼子のように思えてしまうが、の提案に俺も胸の中の蟠りが消えたから、大概だと自嘲した。

「うん、早く治すよ」
「急がないでいいよ」
「でも、早くと出かけたいから」

紅葉饅頭を漸く二つに割りながらに伝えると、仄かに頬を染めたに胸がじんわりと熱くなった。まだ、俺のことを好きでいてくれている。その事実が本人から感じ取れて、半分に割った紅葉饅頭をの口元へ寄せた。控えめに口を開けたそこへ餡子が詰まった半分の紅葉を入れ込めば、唇が指にあたってこそばゆくなった。
胸が騒ぐのを抑えるように、俺も残った方を口の中へ放り込んだ。きっと美味しいのだろうけど、その味は十分俺に伝わらなかった。
やけに良く噛んでそれを喉を通した後、を見ればぱち、と瞳が合わさった。ずっと見られていたのだろうか。俺がもう一つの紅葉へ手を伸ばそうとする前に、は俺の服の裾を掴んで瞳を閉じた。
女の子とそういう関係になるのはが初めてで、が嫌がるようなことは絶対にしたくないと適度な距離感を保っているつもりだった。こうして唇をぴたりとくっつけて、好きだという気持ちを確かめ合えれば俺はそれで十分だった。あくまでも、今は、の話ではあるのだが。
を大事にしたいという気持ちは誰よりもあるつもりでいる。だから、柔らかくて癖になるその唇に執着してしまう前に離れた。

「…………」
「?」
「なんでもない」

じ、と見つめられたものだから、何か悪いことをしてしまったのか、それとも瞳を閉じたのはそういう合図ではなかったのかと不安になった。が、ふい、と目を逸らされ紅葉饅頭をさっきの俺のように二つに割り、今度はが俺の口元へ運んできたから口を開いてそのまま甘ったるいそれを味わった。

身体も漸く回復したその日、漸くと町に出向くことができて穏やかな町並みの中、それらしく手を繋いで歩いていた。青々しい空と緑が生い茂る夏はもう終わって、時折吹く乾いた風が季節の移り変わりを示していた。
屋敷からは少し離れた町で外を歩いていると肌寒さも感じるけど、こうしての隣にいることができる時間が増えて俺は素直に嬉しかった。

「無理してない?大丈夫?」
「大丈夫だよ。しのぶさんにも診てもらったし、問題ありませんって言われたよ」
「……そっか。よかった」

この辺りは治りましたか、としのぶさんに胸の辺りを指差され、居た堪れなくなってしまったがもう大丈夫ですと苦笑した。でもきっと、今後も事あるごとにこういう気持ちは押し寄せてしまうのかと思うと、少しだけ憂鬱だった。自分の心の狭さに。しのぶさんはそれが正常だと言っていたけど、そんな事はきっとない。は例えば、俺がしのぶさんやアオイさんと二人でいてもなにも思わないだろう。そんな素振りも見せることはないし、に隠れて何かをしているという訳でもないからきっと、信頼してくれているのだと思う。
だったら、俺はのことを信頼できていないのかという問題になるけど、そうではなくて、俺に自信がないだけだ。

「あ、ねえ炭治郎」
「うん?」
「ここ、宇髄さんたちがよく泊まるんだって。非番の時」

立ち止まって、俺を呼んだが指差した方を辿る。町に入った時から感じていたけど、温泉宿だ。こじんまりとしていてあの宇髄さんがよく泊まる、という事実には面を食らうのだが、それよりもが宇髄さんと仲良くしていることの方に、胸に針でちくりと刺されたような痛みが走った。自分が情けなくて仕方ない。どっちも好きなのに、どうしてこんな複雑な感情が芽生えてしまうのだろうか。

「そうなんだ」
「静かでいいんだって」
「確かに、そんな雰囲気だな」
「料理も美味しいんだって」
「うん。いい匂いがする」

すん、と確かめるように匂いを嗅ぐと温泉の匂いに混じり夕方だからだろうか、魚を焼く匂いも漂ってきた。町へ入る前、川で網を張っている人たちがいたからきっとそのように常に獲れたての魚が出ているのだろう。

「……温泉も、疲れがとれるんだって」
「なら、任務の帰りに寄りたいな」
「…………うん」

温泉の香りと美味しそうな香りの他に、横から俺の鼻を掠めたのはどこか不満気な匂いだった。屋敷では色んな匂いが混ざっていて鼻はあまり効くことがないのだが、外に出ていると屋内にいるよりかは役に立つ。
もしかして、つまらないのだろうか。

「そうだ!」
「!、うん?」
「さっき美味しい甘味処を見かけたけど、入ってみないか?」
「……、うん」

一瞬だけ、俺が甘味処へ行こうと言葉にする前に瞳を輝かせたように見えたのだが、頷いてくれたものの、多分、俺の選択は間違っていた。
それでも提案してが頷いてくれた手前、行かない、という選択肢はなく手は繋いでいるけど、どこか距離を感じながらその店へ向かった。
夜になってしまえばお店は閉まるらしく、お店の中はギリギリで入店してきた俺たちの他には誰もいなかった。
がらんとした物静かな空間で、心地よくは感じない空気が俺との間には流れていた。
目の前で何も言葉を発さずにフルーツが盛られているプリンを口にしていた。
わからなかった。が何を考えているのか。このままだと、折角こうして二人でいるのに妙に距離を感じながら一日が終わってしまう。
が嫌がることはしたくない。だから、俺の中ではわからないことを有耶無耶にしたまま今日を過ごすことは、を嫌な気持ちにさせてしまうのではないかという答えに辿り着いた。


「……ん?食べないの?」
は俺のこと、好きでいてくれてるんだよな?」

名前を呼んだはいいものの、上手く伝えられる言い方がすぐに出てこなかった。だからか、なぜかここ最近で不安に思っていたことを口走ってしまい、目の前で『何を言っているの』という顔を作り出されてしまった。

「な、なんで、そんなこと聞くの」
「えっいや、あ、その、」
「炭治郎は私のこと、もう好きじゃないの?」
「……へ?」
「……しのぶさんが好きなの?」

思いも寄らぬ返答としのぶさんの名前が出てきて、頭が硬直した。は、怒っているというわけでもなく、ただただ切な気な面持ちを浮かべて瞳を揺らしていた。
甘い匂いの他に、ほろ苦い匂いがするのはからだ。

「俺が好きなのはだよ」

プリンを掬っていたスプーンを置いたの手を包み込んだ。小さいけど豆が沢山できていて、そんな彼女の手が俺は愛おしいと思うほどにのことで頭がいっぱいだった。一体どうしてがそんなことを思ってしまったのか、それに胸が締め付けられた。

「だって……、」
「……」
「よく顔赤くしてるし。大人っぽい人が好きなのかなって」
「っそれは、仕方ないというか、顔近づけられたりしたら、……すまない」

否定するように、言い訳がましいことをしてしまった自分が情けなくなり、一度息を吐いてから謝った。
もしかして、俺がしのぶさんの名前を口にする度、を不安にさせていたのだろうか。

「それに、その……」

俺にはしかいないのに、以外考えられないのに、そうして不安にさせたことで、もしかしたらは俺から徐々に離れて行ってしまっていたのかもしれないと思うと慄然とした。
それに、しのぶさんのことだけではなくまだ何かあるらしかった。今度は何を言われ頭を金槌で打たれる感覚にやられるのかとおどろおどろしいが、言いづらそうに口をまごつかせるの言葉を待った。

「全然、してくれないでしょ」
「……全然してくれない……?」

窓から店に溢れる日差しは橙色だった。そのはずなのに、俺から顔を逸らしたの頬は赤くなり、サラサラな髪の隙間から見える耳までもがその色に染まっているのがわかった。
その反応で、がなんのことを俺に話しているのかが伝わって、思わず唾をゴクリと飲み込んだ。顔、いや、全身に熱が走っている気がする。逸らしていたの瞳が控えめに俺を捉えると、俺ものように赤くなっていたのだろう、わかりやすく目を見開いた。
嫌がることは、したくないと思っていた。でも、直接聞いたことはない。


「……うん、」
「疲れたよな、今日」
「…………」
「屋敷へも、結構遠いし」

さっきが不満気にしていた匂いを思い出して、絡まっていた糸がするっと解けていくようだった。
嫌われたくないと、いつも後ろ手になっていた。男なのに、長男なのに、いや、だからこそいらない我慢をしていたのだと改めた。
どくどくと心臓の音がうるさいし、顔も繋いでいる手もやけに熱い。それでも、緑から紅に移りゆくその季節に取り残されないように。

「今日は、泊まっていこうか」

いつも大人びて見えていたが気恥ずかしさを隠すように唇をギュッと噛み締める。
小さく頷いたその様子が、堪らなく可愛くて、愛おしかった。